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第九話 宴のはじまり

 扁桃(へんとう)と桃の花が咲き乱れる菖蒲邸の庭は、夢の様に美しい。

 扁桃は白く、桃は霞がかった薄紅に咲き分かれ、庭は春霞そのものを映したように見える。

 咲きこぼれた花々が枝を覆い尽くし、空さえ花の向こうに霞んで見える。

 やわらかな春の日差しが花びらを透かし、一枚一枚が淡く光を宿している。

 風が吹くたび、花枝はゆるやかに揺れ、春そのものが庭を渡ってゆくようである。

 柳の瑞々しい緑が、また花を引き立てている。

 遣水(やりみず)に白と薄紅色の花弁が流れて行くのも趣深い。

 池の中島には幄舎(あくしゃ)(テント)も建てられ、その下には床子(しょうじ)(ベンチ)が設えられてある上、茵(しとね)も用意されている。

 水面に映る花影は流れに揺らぎ、本物と幻とが溶け合って見える。

 兀子(ごっし)(背もたれの無い椅子)に大傘が差されている席もあった。

 その中島では、シヲンがあれこれ喧(やかま)しく指示を飛ばし、家人を使い雑色を走らせ、最後の仕上げに掛かっている。

 女房装束で絢爛に装っているのに、なぜそんなにも軽やかに動けるのか不思議なほどだ。

 女房装束は結構重い。

「早くなさい。貴い方々がお着きになってしまうではないの!」

「ですがシヲン様、先程からなさっているのは……床子の位置の調整ばかりでは?」

「扁桃を愛でるのに一番の角度を探っているのよ」

「——はあ、どこも美しいと存じますが」

「当然でしょう。菖蒲のお庭よ。その中でも特別に美しい位置をですね」

「はあ」

 花影が苦笑交じりに歩いて来た。

「シヲン、その辺になさい。右往左往しているだけに見えるわよ」

「姫様、じゃない、奥方様! まだお出ましになるのは早うございます! お支度に戻られませ」

「準備できてる。後は琴を持って来ればいいだけよ」

 花影は菖蒲の北の方らしく小袿を羽織り、かさねは紫の薄様。

 裾を女童(めのわらわ)たちが掲げているが、緋色の袴は自分で持ち上げ、足が見えている。

「おみ足!」

「堅いこと言わない。裾引き摺るのが好きじゃないのは知ってるでしょう」

「私がお抱え申し上げると言ったのだけどね」

 花影の後ろからひょいと瓊花(けいか)が顔を覗かせ、花影はばつが悪そうに肩を竦めた。

 瓊花は菖蒲当主の濃紫の直衣が、譬(たと)えようも無く似合っている。

「恥ずかしいからお止めくださいとお願いしたの」

「おみ足を衆目に晒す方が恥にございます!」

「大丈夫。誰も見てない見てない」

 シヲンと瓊花は顔を見合わせ、揃って溜め息を吐いた。

「そろそろ槐(えんじゅ)たちが着く頃じゃないかしら。シヲンはそちらの案内に移りなさい。ここはもういいから。完璧。素晴らしいわ。はい。終了。いってらっしゃい」

 有無を言わせぬ笑顔に、シヲンは諦めたように頭を垂れた。

「御前を失礼致します」

 瓊花は花影を茵に座らせ、甲斐甲斐しく裾を整えてやる。

「お止めくださいな。恥ずかしい」

「良いではないですか。夫婦が仲睦まじくて何の悪いことがありましょう」

 にこやかな瓊花に、花影は頬を染めると袖で顔を隠してしまった。

 使用人たちはその様子をこっそりと横目で見、微笑まし気に口元を緩ませる。

 悪名高い月白の姫が輿入れと聞いた時には、どんな恐ろし気な姫君が嫁してくるのかと、皆戦々恐々としていたのだが。

 現れたのは型破りながらも美しく、また面白い女性だった。

 破天荒な北の方を、菖蒲家の使用人たちは割と好意的に受け入れている。

 何しろ前菖蒲当主の北の方である初霜の方が、花影よりも、もっと色々ととんでもなかったので、耐性ができていたのもある。

「さて、花影殿。心の準備はできましたか?」

「ここに座し、流石に肚も据わりました。見事に務めて御覧に入れます」

 眼光凄まじい妻の形相に、瓊花は少し顔を引き攣らせた。

「そんなに覚悟を極(き)める程のものではないのですが」

 袖の影から鋭い視線が飛んできて瓊花を貫く。

「一世一代の覚悟をお見せします。ええ、菖蒲当主の北の方たるに相応しい対応をしてみせましょう」

 北の方の采配が拙ければ、それは夫の恥になる。

 菖蒲の名に疵を付けるわけにはいかない。

 月白の出だからと侮られれば、実家にまで疵を付ける。

 そのような真似をやらかすわけにはいかなかった。

「もっとこう、にこやかに」

「もともとこういう顔です」

「いやいや、普段はもっとお可愛らしいではないですか。ほら、笑って」

「余裕が御座いませぬ故」

 ころころと鈴の様な笑い声が響く。

「なんじゃ、花影殿ご機嫌斜めか」

 初霜(はつしも)が輿に乗って到着する。

「義姉上様」

 初霜は、王族にしか許されない翡翠のかさねの小袿を見事に羽織り、目を瞠るほどに神々しく眩(まばゆ)い。

「楽しみであるのう」

 車宿りの方がにわかに騒がしくなった。

「そろそろおいでになられたか」

 花影はぐっと眉間に皺を寄せる。

「正念場です」

 瓊花が苦笑する。

「いやだから花影殿、気楽に」

「もともとこういう顔です」

「嘘おっしゃい」


◆


「さて皆様、本日はようこそおいでくださいました。束の間ではございますが、楽しんで頂けましたなら光栄にございます」

 凛と背筋を伸ばした花影が堂々と宴の開始を告げる。

「姉上、なんか凛々しくなった?」

「——ええ、覇気が違いますわね」

 花影の弟の槐とその妻、薄氷(うすらひ)はこそこそと囁き交わす。

 月白当主の白の直衣から薄(うっす)らと緋色の透ける匂いやかな衣装の槐と、揃いの桜のかさねの薄氷。

 隣に縹家の当主夫婦。

 蔵人の芙蓉(ふよう)は兀子に座している。

 他に何やらの権大納言だとか、何某の少将だとか紹介されたが、正直覚えきれない。

 式の進行だけで手一杯な花影は、それでも表情には一つも出さずに完璧な微笑を浮かべている。

 瓊花だけがその手の震えに気付いた。

 挨拶が終わり、舞が始まって。

 ふうと一つ息を零した花影の指先を、瓊花はそっと握る。

 一瞬びくりと肩を震わせたものの、花影は前を見たまま、その手をきゅっと握り返した。

 握り返されると思っていなかったので、瓊花の方が一瞬挙動不審になりかけた。

 だが、腐っても菖蒲家当主。

 何食わぬ顔で瞬いて誤魔化す。

 笛の音が高く響き、舞人が袖を翻し。

 風に花弁がひらひらと散る。

 次の花影の琴の演奏の直前まで、手を繋いでいたい瓊花だった。

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