第十二話:建国祭の舞踏会(後編)氷の崩壊と、ただ一つの真実
ワルツが終わり、万雷の拍手から逃れるように、私は夜風の吹き抜けるバルコニーへと身を隠した。
火照った頬を冷まし、今にも溢れ出しそうな涙を夜の闇に紛れさせるために。
「……泣いているのかい、メリア嬢」
背後から、静かな足音が近づいてきた。アルフレッド殿下だった。
彼は私の隣に並ぶと、夜空を見上げたまま、どこか寂しげな声で紡いだ。
「君は賢くて、有能で、そしてひどく不器用だ。愛する男のために、わざわざ自分から身を引いて『盾』になろうとするなんて。……私の国なら、君にそんな悲しい顔はさせない。今からでも遅くない、私の手を取らないか」
「殿下……」
彼がそっと私の頬に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
「――その手で彼女に触れることは、万死に値するとご承知ください、ロセッティ殿下」
バルコニーの空気が、一瞬にして凍りついた。
振り返ると、そこに立っていたのはヴァイス様だった。
いつもの、一切の感情を排した「氷の小公爵」の仮面は、見る影もなく砕け散っていた。
完璧に撫でつけられていた白金の髪は乱れ、肩で荒い息をしている。その青い瞳には、かつてないほどの焦燥と、むき出しの痛みが張り付いていた。
(どうして、そんなに切羽詰まったお顔をされているの……?)
私は混乱した。私が他国の王子と二人きりになっていることが、セシリア様を守るための『偽装計画』において、そこまで致命的な失態だったのだろうか。
「ヴ、ヴァイス様……っ!? どうしてこちらへ。セシリア様とのお話は……わたくし、ちゃんと皆様の視線を惹きつけて、お二人の時間をお作りしたはず――」
私が戸惑う横で、アルフレッド殿下は微かに目を丸くし、やがて信じられないものを見るようにヴァイス様を見つめた。
「もう、たくさんだ!!」
悲痛な叫びと共に、ヴァイス様が大股で踏み込んでくる。
アルフレッド殿下が咄嗟に私を庇おうと手を伸ばしたが、それよりも早く、私の体は強い力で引き寄せられ、ヴァイス様の腕の中にすっぽりと閉じ込められた。
「ヴァイス、様……?」
「なぜ君は、いつも自分の心を殺して、他人のために笑うんだ。……なぜ、俺が他の女を愛しているなどと思うんだ!」
私を抱きしめる腕が、かすかに震えている。
怒られているのだと思った。けれど、その声はひどく掠れていて、泣いているようにすら聞こえた。
「だ、だって……ヴァイス様が本当に愛しているのはセシリア様で、お二人が結ばれるまでの間、わたくしをダミーの盾にして……。あの日、応接室でセシリア様に、あの美しい指輪を渡す相談をされていましたよね!? 扉の隙間から聞いてしまったんです!」
「……は?」
私の決死の告白に、ヴァイス様は完全に虚を突かれたように固まった。
私のすぐ側で事の顛末を聞いていたアルフレッド殿下が、「……指輪?」と小さく呟き、不思議そうに眉を寄せる。
そして、バルコニーの入り口から、盛大なため息が聞こえてきた。
「……呆れて言葉も出ませんわ。メリアさん、あなたまでこの朴念仁と同レベルの勘違いをこじらせていたなんて」
呆れ顔で現れたのは、セシリア様だった。彼女は扇で口元を隠し、やれやれと首を振る。
「いいですか、メリアさん。私が愛しているのは、田舎の領地で待っている気弱で愛おしい私の恋人だけです。……そして、この愚かな氷の公爵が、私が胃を痛めるほど何度も何度も相談にきていた内容。それはすべて、『どうすればメリアさんに逃げられず、あの指輪を受け取ってもらえるか』ですわ」
「……え?」
セシリア様の言葉が、頭の中で処理しきれない。
私が? ヴァイス様が、私に?
「あの時、彼が言っていたでしょう。『この指輪で、確実に私の妻にする』と。あれは、あなたへのプロポーズの予行演習です。……あなたが勝手に、主語を私に変換してしまっただけ」
セシリア様はふわりと優雅に微笑むと、「あとは当人同士でどうぞ。私はルカへ手紙を書かなければなりませんから」と、踵を返して広間へと戻っていった。
静寂が落ちたバルコニー。
私は恐る恐る、腕の中にいるヴァイス様を見上げた。彼の耳から首筋にかけて、見たこともないほど真っ赤に染まっている。
「ヴァイス様……あれは、わたくしへの……?」
「……ああ、そうだ。俺は、君に拒絶されるのが怖くて……『雇用主』だの『契約』だのという卑怯な言葉で、君を縛り付けていた。……君に好かれたくて、花を贈ったのに、君は有能な部下としてしか笑ってくれなくて……今日、君があの男の手を取った時、俺は狂いそうだった」
ポロリ、と。
私の目から、堪えていた涙が溢れ落ちた。
悲しいからじゃない。彼がセシリア様を守るために私を冷たく扱っていたわけでも、私がただの代用品だったわけでもなかった。
彼はただ、私と同じように不器用で、臆病だっただけなのだ。
「……なるほど。そういうことか」
ふっと、アルフレッド殿下が静かに息を吐いた。
彼は私と、私を抱きしめて離さないヴァイス様を交互に見ると、どこか毒気を抜かれたような、それでいて清々しい笑みを浮かべた。
「氷の小公爵に、他国の王子を前にして外交の体裁すら投げ捨てさせるほどの熱があったとはね。……これでは、私が入る隙など初めから無かったというわけだ」
彼は優雅に一礼すると、私の目をまっすぐに見つめた。
「メリア嬢。君の才能は、やはり誰かの『盾』になるべきものではなかった。……どうか、君自身の幸せのために、その男の隣で輝いてくれ」
「君の幸せを、心から祈っているよ」とだけ言い残し、アルフレッド殿下は夜の闇を背にして、再び眩い光と喧騒が渦巻く舞踏会の広間へと歩み去っていった。
シャンデリアの光の中へ溶け込んでいくその迷いのない背中は、不思議と清々しく見えた。
バルコニーには、私とヴァイス様だけが残された。
彼は私の頬に伝う涙を、長い指でそっと拭うと、祈るように額をすり寄せてきた。
「メリア。俺はもう、君の『雇用主』にはなりたくない。……俺の生涯をかけて、君のすべてを愛し抜く。どうか、俺のただ一人の妻になってくれないか」
震える声で紡がれた、一切の飾りのない、本気の告白。
長かった勘違いの鎖が、音を立てて完全に崩れ去った瞬間だった。




