第十話:淑女の忠告と、すれ違うファーストダンス
オルディス公爵邸の、陽の光が差し込む美しいサンルーム。
ヴァイス・オルディスは、目の前に座る長年の知己――セシリア・ヴァン・ルージュ侯爵令嬢を前に、深く、ひどく重いため息をついた。
「……花を贈ったというのに、彼女はただ『素晴らしいお心遣いです。完璧に仕事をこなします』と、一滴の隙もない笑顔で受け取った。まるで、有能な部下が上司からの褒賞を受け取るように」
「自業自得ですわね、ヴァイス」
最高級の紅茶を優雅に一口飲み、セシリアは呆れたように肩をすくめた。
完璧な淑女として社交界で名を馳せる彼女だが、幼馴染である彼に対してだけは、手厳しい本音を隠さない。
「あなたが彼女をこの屋敷に留め置くために、『契約』だの『盾』だのという理屈という名の鎧を着せたのでしょう? 彼女は今、あなたが与えたその鎧を忠実に守っているだけですわ」
「……当時は、そうするしかなかったんだ。無条件の愛など信じられないほど、彼女の心は家族によって傷つけられていた。……だが、今は違う。俺は彼女のすべてを愛している。他国の王子に、あんな風に踏み込まれるのは耐えられない」
ギリッ、と。ヴァイスが微かに奥歯を噛み締める。
あのアルフレッドという男は、ヴァイスが小公爵という立場で踏み込めない境界線を、王族の特権と持ち前の図々しさで軽々と越えていく。それが腹立たしく、何より、メリアがいつか本当に彼の手を取ってしまうのではないかという焦燥が、彼を苛んでいた。
「焦りは禁物ですわ。……今週末の、建国祭の舞踏会。そこで彼女に、あなたの『本気』を見せなさい」
「本気、か」
「ええ。ファーストダンスは当然あなたがエスコートするのでしょう? 貴族としての義務ではなく、一人の男として、彼女だけを求めているのだと、言葉と態度で示しなさい。……私という『ダミー』に相談するのは、今日で終わりにすることね」
セシリアは小さく微笑むと、ふわりと立ち上がった。
彼女の的確な忠告を胸に刻み、ヴァイスは決意を新たに、愛する女性の待つ工房へと向かった。
◇◇◇
「……というわけで、メリア。今週末の建国祭の舞踏会だが、俺のパートナーとして出席してほしい。ファーストダンスは、君に申し込んでもいいだろうか」
工房を訪れたヴァイス様は、いつになく真剣な、そして少しだけ緊張した面持ちでそう告げた。
建国祭の舞踏会。それは、王宮舞踏会よりもさらに規模が大きく、国内外の要人が集まる国を挙げての祭典だ。当然、隣国のアルフレッド殿下も主賓として出席されるだろう。
(そんな大舞台のファーストダンス……。本来なら、ヴァイス様が心から愛しているセシリア様と踊るべきなのに)
胸が、チクッと痛む。
けれど、セシリア様との仲を公にできない以上、私が『小公爵の恋人』として人々の耳目を集める必要があるのだ。それが、私に与えられた仕事。
「はい、喜んでお受けいたします。ヴァイス様が他の誰にも目を向けられないよう、私が完璧に皆様の視線を集めてみせますわ」
「……メリア」
私が「囮として完璧に立ち回る」という意味で微笑むと、ヴァイス様はほんの少しだけ顔をしかめ、私の手を取ってそっと口づけた。
「違う。俺は、他の誰にも君を見せたくないんだ。……俺だけを見てほしい」
熱を帯びた、甘い声。
ドクンと心臓が大きく跳ねたが、私はすぐにその言葉を頭の中で翻訳した。
(そうよね。私が余所見をして他国に引き抜かれたりしたら、セシリア様を守るこの完璧な『偽装計画』が崩れてしまうもの。ヴァイス様は、計画のために必死なんだわ)
私が自分を納得させ、頷こうとした、その時だった。
「おや、それは困るな。私はどうしても、その美しい特級魔道具師殿と一曲踊りたいのだが」
工房の開け放たれた扉から、楽しげな声が響いた。
振り返ると、護衛を連れたアルフレッド殿下が、余裕の笑みを浮かべて立っていた。今日もまた、視察という名目で公爵邸を訪れていたらしい。
「アルフレッド殿下……」
「オルディス公。我が国は今回、特級魔道具の技術交流という目的も兼ねてこの国を訪れている。その象徴である彼女と、主賓である私がファーストダンスを踊ることは、両国の友好を示す最高の舞台になると思わないか?」
アルフレッド殿下は、外交という最強のカードを切ってきた。
力で退けることができない相手からの、正当な理由づけ。ヴァイス様の青い瞳が、すっと細められ、静かな氷の怒りを湛える。
「……お言葉ですが、殿下。彼女は私の婚約者です。両国の友好を示すのであれば、別の令嬢を――」
「ヴァイス様、お待ちください」
私は、思わずヴァイス様の言葉を遮って前に出た。
(外交問題に発展して、ヴァイス様や公爵家の立場が悪くなったらどうするの! それに、もし私がアルフレッド殿下とファーストダンスを踊れば……国内外の注目はすべて私と殿下に集まる。その間、ヴァイス様はセシリア様と人目を忍んでお話しする時間が作れるじゃない!)
愛する人の、本当の幸せのために。
私は、震える手をぎゅっと握りしめ、アルフレッド殿下に向かって深く、美しい淑女の礼をとった。
「アルフレッド殿下。……両国の友好のため、私のような者でよろしければ、謹んでファーストダンスの栄誉をお受けいたします」
その瞬間、アルフレッド殿下の瞳が驚きに見開かれ、やがて心底嬉しそうに細められた。
「ありがとう。……君を、誰よりも美しくエスコートすると誓おう」
一方で、私の背後に立つヴァイス様からは、声も出ないほどの衝撃と、張り裂けそうな絶望の気配が伝わってきた。
(ごめんなさい、ヴァイス様。私、勝手なことをして)
でも、これが私にできる、あなたへの最大の恩返しなのだ。




