朝霧の書庫と、眠たい大公。
かつて大陸で最も長い歴史を誇ったオルタリア王家。
王弟の娘だったセレーネ・ヴァレリア・オルタリアは戦乱の果てに幼い弟と共に生き残った。その身柄はオルタリアを統治下に治めたドルワース帝国に引き取られ、今に至るまでその庇護の下宮殿で暮らしていた。
同世代の貴族たちと同じ教育を受け、帝国大学で医学や薬学について学び、卒業後は国家機関の薬学研究所に所属している。元王女という特別な存在ではあるが、同僚たちと研究に勤しむ穏やかな日々を送っている。
まだ少し肌寒い朝、宮殿の外は明るいが見渡す限り霧が立ち込めており、セレーネがいる研究室もどこかしっとりとした空気に包まれていた。
セレーネは研究室に隣接する書庫で一人黙々と本を元の位置に戻しながら、本日の作業計画を頭の中で組み立てていた。不思議と夜型が多い研究者たちの朝は遅く、この時間帯は人の気配がほとんどない。セレーネはその静けさを好んでいた。
棚の上の方へ指を伸ばしたその時、不意に背後から聞き馴染みのある声がした。
「……随分早いんだな」
全く気配に気づかなかったため少し驚いて振り返ったセリーナは、声の主を見とめて淡く微笑んだ。
「おはようございます、大公殿下。朝からこちらへいらっしゃるのは珍しいですね」
大公殿下ことウィルヘルム・セドリック・アウレリウス・ドルワースは、濃紺の軍装の胸元を寛げ、棚に肩を預けて彼女を見ていた。その表情にはうっすらと疲労の色が滲んでいた。
「お前が部屋にいなかったからな」
「それで、わざわざここまで?」
「……他に探す相手はいない」
会話が絶妙に噛み合っていない気もするが、寝不足で機嫌が悪いのか子供みたいに拗ねた表情が何だか少し可愛く思えた。セレーネは微笑を深めると、自身が立つ踏み台の下に置いていた籠を指で示す。
「ちょうどもう一つ手が欲しいと思っていたところなのです。手伝ってくれませんか?」
ウィルヘルムは肩をすくめて棚から体を離した。文句を言いたげな顔をしてはいるものの、何も言わずに籠から一番上に積まれた本を一冊手に取るとセレーネに渡す。
書庫には再び、静かな空気が流れた。
彼は時折このように研究室にふらりと現れる。仕事を抜け出し、他の同僚に気づかれない程度に、ほんの束の間セレーネのそばで過ごしていく。
しかし今朝の彼は、いつもと少しだけ違っていた。黙々とセレーネに本を手渡すだけで、視線もほとんど合わず、心ここに在らずといった様子だ。
一週間ほど前にウィルヘルムは急遽地方へ視察に出かけて行ったはずだったが、セレーネも気づかない内に城には戻ってきていたらしい。顔を合わせる隙も無く仕事に追われて満足に眠れていなかったようだ。
彼は皇帝の弟であると同時に、軍の実務も抱えているため常日頃から誰よりも忙しい。十代から軍属で当然体力もあるはずだが、流石にここ数日は限界の不眠不休ぶりだったのだろう。
精悍な顔立ちは普段と変わらず整っているが、目の奥にかすかに滲む疲労が、そのまま彼の重責を物語っていた。
やがて籠に積まれていた本が片付くと、セレーネは書棚の奥にある簡素な長椅子を指差した。
「ありがとうございました。お疲れでしたら、あちらで少し休みますか?」
「もう片付けはいいのか」
「ええ、お陰様で早く片付きました。私室ではないので、流石に抱き枕にはなれませんが———」
小さく笑ってそう言った彼女に、ウィルヘルムはじっと視線を向けた。次の瞬間、セレーネの肩を片手で抱き寄せ、長椅子へと歩き出した。
「あの……?」
「せめて膝くらい貸してくれないと、ここまで来た割に合わないだろう」
そう言ってセレーネを座らせると、自身は上着を脱いで無造作に背もたれに放り投げた。そして無駄の無い身のこなしで長椅子に横たわる。セレーネの膝に頭を預け、目を閉じると、あっという間に小さな寝息が聞こえてきた。彼の頭の重みと体温が、セレーネに白衣越しにそっと伝わってくる。
「まあ、皆が来るまでまだ少し時間があるかな」
「———どうせ外でブレットが見張ってる」
目を閉じたまま、低い声が返す。ウィルヘルムは体勢を変え、額をセレーネの腹の辺りに押し付ける。
「優秀な部下になんてことさせてるんですか……」
ため息と共にそう呟きながら、セレーネはごく自然な仕草で彼の頭に手を添えた。顔の上に散らばった黒髪を彼女の指がやわらかく梳いて整える。
二人が戦乱の中出会ってから、間も無く十年が経とうとしていた。