1.
「ぅおおっ!?!?!」
いつもの通り、午後六時三分。仕事を終え帰宅した俺は玄関兼キッチンの電気をつけ、その短い通路を歩く。奥の扉を開けて六帖。振り返って階段上ればロフトに二帖。どこにでもある1Kの賃貸。ここが俺の城だ。
その安らぎの居場所に現れた何かに、俺は思わず声を上げたんだ。
「……んだよ、これ」
部屋のドアを開けたと同時に電気をつけて、明るくなった視界に飛び込んできたのはロフトから垂れ下がる長い黒髪。
居酒屋の暖簾をくぐるように、そおっと手で退けるとゆらゆらと動いて避けていく。ちゃんと髪の毛の感触がある。パサパサで汚い髪だということと、どこの誰のものかわからない異物感で鳥肌が立った。
「お前、なんなん?」
髪の毛の大本を探すように頭上を見上げると、どうやらロフトからだらんと垂れ下がっているようだ。触った感触があるということは人間なのか? だとしたらどうやって入ったんだ?
「そのまま、そこ動くなよ」
確かめるべく階段を上る。ギシギシという音が異様に大きく聞こえる。この階段、こんなに軋んでただろうか。緊張感でどうでもいいことまで気にかかって、俺の心臓は一段ごとに速くなっていく。
この髪の毛の主が人間でもそうじゃなくても、異様で気が狂ってる奴に違いはなく、武器も持たない俺に何ができるのか。
「……はぁ?」
俺の予想では、ロフトから身を乗り出すように何か、いや誰かが頭を下げ、髪の毛を垂らしているのだと思った。
「どうなってんだこれ」
何もない空中から、髪の毛が生えていた。そうとしか言い様がなかった。
ロフトに上がり、髪の毛の真後ろをよく見てみる。
なんというか、後頭部のようなものが空間に浮かんでいる。見たところ、顔はない。三百六十度、後頭部で長い髪の毛がみっしりと生えていた。
「お前、なんなの?」
後頭部しかない髪の毛に思わず問いかける。俺の声に反応しているのか、髪の毛は小刻みに震えていた。
俺の言葉が分かるのだろうか。
「髪が長いから、女? なのか?」
どう見ても人髪だし、人、だったものとか?
いや、何を非科学的な。髪の毛という実体のあるこいつが幽霊やお化けの類であってたまるか。
じゃあ目の前のこれはなんだ? 触れて、でも得体の知れないものが、どうして俺の部屋に突然現れたんだ。これだったらゴキブリやネズミの方がマシだ。容赦なく殺せるからな。これは殺せるのか疑問だし、まず生きているのか? 意味が分からなすぎる。
「おい、やめろやめろ」
ゆさゆさという後頭部の震えが徐々に大きくなってきていた。この部屋の主は俺で、この部屋を掃除するのも俺なんだ。その汚い髪の毛をフローリングに落とすな、汚すな。
後頭部は動きを止め、そのまま微動だにしない。どういう原理かは分からないが、俺の言葉が聞こえていて、それを理解できるくらいの知能はあるらしい。
「とにかく、俺の家から出てってくれ。いますぐに」
腹が減っていた。一日働いてきて疲れてもいる。こんな得体の知れないものに付き合っている余裕はない。それにこんなのが部屋にいたんじゃ落ち着かない。髪の毛自体も汚いし、不衛生だ。自分の髪の毛が床に落ちていたって不快なのに、これの髪が落ちているのを発見したらと思うとゾッとする。
「明日も仕事なんだ」
いつまでも後頭部を見つめているわけにもいかない。分かっているが、次の動きが予測できない以上、下に降りるのは得策じゃない。
「いい加減ぃっ!?!?! おいやめろって!!!」
説得を試みるかと話し始めた矢先、後頭部は突然激しく動き出した。ヘッドバンキング、という名称だったか。激しくうるさい音楽ライブで、観客が髪を振り乱して騒ぐあれだ。狂ったように頭を振るその動きを繰り返す後頭部。
「っざけんな! 汚えな!」
ぺちぺちと長い髪が部屋中に当たる音がする。こんな狭い空間で、ロフトから階下の床に着くほど長い髪を振り乱せば当然のことだ。窓のサッシに引っかかって抜けたり、本棚の上の小物を引っかけて落としたりしないか気が気でない。
ひと際激しく上下に動いたと思ったら(その様子は何かの波形のように規則正しく等間隔でうねっていた)、後頭部のあるロフトの上部、つまり俺の目の前の空間に向かってズルズルと吸い込まれていき、やがて消えた。
「なんだったんだ……?」
呆然とする俺。目の前にはいつもの部屋の景色が広がっている。
あれがあったあたりを恐る恐る触ってみるが、何もない。穴のようなものが開いてるわけでなし、ましてや髪の毛や後頭部の感触など、何一つない。いつも通り、普段通り、あるべき空気と空間があるだけだ。
「そりゃ、そうか」
今まで見えていたものが異常なのだ。俺は疲れてどうかしていたんだ。最近は人手不足で負荷がかかっていたし。きっとそういうことだ。
自分に言い聞かせながらロフトを降り、念のため、フローリングや棚の上などを確認してみた。どこにもあれの髪の毛などはなく、当たっていた音はしたのに何も落ちていないし動いてもいなかった。
「うん、やっぱり俺は疲れてるんだ。熱いシャワーを浴びて、飯食って寝よう」
あえて声にして、俺は言った。こんなこと、二度とあってたまるかという気持ちもあった。不安感で静まらない心臓には悪い夢でも見たんだと自分に言い聞かせながら、日常のルーティーンへと戻って行く。特に意識せずとも、俺はいつも通りの日常をこなし、表面上は平穏を取り戻した。
だが、この出会いが俺を大きく変えることになるなんて、この時は毛ほども思っていなかった。