31
こいつがディオネたちと入れ替わりで入って来てから、どれだけ時間は経っているか。
どうしようもなく変えられないほど、一定に進む時間は、僕の体感では全くもって一定とは思えない。
「遺言はまたデミストニアに戻ってからだな」
「何だよ、それ」
おじいさんの話をしようと、僕の気を引いておきながら、こいつはなにも話そうとしない。「ここまで酔ってるのはいつぶりだ?」と自分で自分のことを笑う彼を見ていると、到底、真剣な話はできそうになかった。
どこまで本当かが分からない。
酔ったこいつの話は信用出来ないと思うのだ。
「それなりに繊細な話だからな」
「こんな場所じゃ、話しにくいだろ?」
「分からなくてもいいから、今はそういうことにしてくれ」
「話したくないってこと?」
遺言くらい話して良いだろ。
それともなんだ? ここで話すのは危ないってか?
独り言のように話す父さんに短く返す。
僕のお気持ち表明なんて今のこいつには届きそうもない。
「言っておくが、私は別に後悔なんてしていないぞ」
いつの間にかベットに横になった父さんは、天井を見上げて続ける。
「親父の葬儀に出なかったのも、これまで商会に尽くしたことも全部」
僕に言っているのか、自分にそう言い聞かせているのか、離れて聞いている僕には分からない。
だが、しっかりとしたその声は覆りようもない何かがあった。
「……そのせいで家族をほったらかしても?」
「はは、そうだな」
ただ、僕には父さんの口から葬儀の話が出たのは驚いた。
今まで、それを話すのは避けていると思っていた。というか、家族が全員集まることもあの日以降は極端に少なくなったから、そんな機会はなかった。
「どっちを選ぶかの問題は難しいな」
難しい選択問題か?
どうしたいか。という自分の問題のはず。
彼は目を僕の方に向けた。
「二つとも解決できるのが、一番良いこと、だろうな」
鋭い眼光も、つり上がった目尻もない顔はおじいさんに似ていた。
目の色が違うだけで、黒目に総白髪だったおじいさんの面影がある。
「あんたじゃできないって?」
「誰もできない」
ずっと僕を見つめるようで、父さんの目線の居心地の悪さから背ける。
僕と父さん以外の物音がしない部屋は、少しだけ静かになった。
逆に静か過ぎて気持ち悪いくらいだ。
「後悔しないように、選んだ先が仕事だった」
その話しぶりは後悔していないとは到底思えない様子で、「商会の仕事をしていなくとも、最初からやり直したとしても……仕事を選ぶ」と彼は目を閉じた。相づちを打とうにも言葉が詰まった。
そうだね。とか、凄いね。って言葉で彼に返すのはダメだと思ったのだ。
思ってしまったのだ。
独白のような、そんな話は聞きたかないが、邪魔をすることもない。
「ファビオ」
目を逸らしていた僕に、父さんは僕の名前を呼ぶ。
その声色に今までの冷たさはない。
「私のことを嫌ってようが、関わり合いたくないと思ってようが私には関係ないぞ」
上体だけ起き上がった父さんの頭は揺れて、僕と目線を合わせているはずなのに合っていない。
うつらうつらとし始めている。
「お前は私の息子の一人で、お前の父親は私一人だ」
「分かってるさ」
上体だけではなく、そのままベットに座り直した彼は、少なくなった水瓶から空のコップに水を注ぐ。
僕が持ってきた時よりも注がれる水の勢いはない。
瓶を傾ける手は、注ぐ度に上がっている。
結構な量が入っていたはずだけど、全部を飲み切るみたいだ。
「ならいい」
何度かコップから水が跳ねたが、彼は気にすることなく瓶を机に戻した。
立っている僕には父さんのパンツにそこそこ水が零れているのが見えるが、彼は全然気にしていない。
そもそも気づいているかも怪しい。
「そうだ、ファビオ」
「なんだよ」
喉を鳴らして飲む彼は、ふぅ。と一呼吸置いた。
まだ話したいことがあるのか? もういいよ、たくさん話した。
「『後悔先に立たず』って言葉を知ってるか?」
「知ってるよ。おじいさんから教えてもらった」
さっき思いだしたばかりだ。
ちょうど良かったのだろうか? 知らないって言ってそのまま話を終わらせた方が良かったんじゃないか?
「親父に教えてもらった言葉の中で私が一番嫌いな言葉だ」
「なんで?」
僕も好きかどうかと言われれば……どっちだ? そんなこと考えてもなかった。
「どれだけ備えても、どうせ後悔するものだろ。私たちは」
言ってることがめちゃくちゃだ。
二転三転する話に、今を後悔しているのかしていないのかすら分からない。
後悔していないと言っていたはずだが、それすら怪しいとは。
「さっき、後悔していないって言ってたけど?」
一旦整理したくて彼に尋ねると、落ちた目尻を少しだけ上げた。
「それは、今までの選択にはって話だ」
頬を掻く彼は「後悔なんて、いくらでもするもんだ」と目を擦り、持っていたコップを近くの机に戻して「後になって悔しいってことは、誰でもあるだろ?」と流れるようにベットに横になる。
横になったまま、頬杖をつく父さんの姿勢は無理がある。
瞬きも次第にゆっくりになって、見るからに眠そうだった。
「お前にだって……あるはずだ」
「そんなことはないよ」
直に寝息を立てるだろう彼には悪いが、もう少しの我慢で終わる。
ようやく解放されるのだ。後悔よりも僕は口角が上がりそうだ。
「いや、ある。なにせ私の息子だぞ? 一つや二つくらいある」
「なんで自信満々に言うんだよ」
手をついた方の目は閉じているが、片方の赤い目は半分だけ開いている。
「私の子で、親父の孫に後悔しないやつはいないさ」
「なんだよ、いきなり」
「許しも何も要らないし、お前に許されたいとも思わない」
無理して開けていた片方も閉じて、開いているのは口だけ。
頑張って起きているんだろうけど、声すら聞こえづらくなり始めて、壁にもたれかかっていた体を起こして、ベットまで歩く。
「誰が何に謝るんだよ」
深く息をする父さんの近くまで寄った。
既に手を伸ばせば、ベットに触れるくらいに近い。この距離では寝たら分かるだろう。
だが、「まぁ、聞いておけ」と閉じようとしない口だけは、まだ話し足りないらしい。
「こんなにお前と話せたのはいつ振りだ?」
「面談の時も結構話してたけど」
聞いてくる話は真剣どころか、くだらないどうでも良いこと。
「そうじゃない」
「そうだろ」
なにも違わない。ここ最近は僕が知ってる中で一番会ってるし話している。
感傷に浸るようなことでもない。
「……そうか」
そう言ったあと、父さんの口は塞ぎ切らずに、浅く規則正しい呼吸音が聞こえた。
音とともに胸は微妙に上下に揺れていた。
「やっと寝た」
僕はようやく解放された。
まさに苦行を終わらせたと言っても良い。何が後悔だ。
僕からしてみれば、ほとんど食べなかった今日のことが一番の後悔だ。
そもそも、父さんに対して怒りがあったかどうかが、よく分からなくなった。
ただ、こんな醜態をさらす大人に鬱憤をためるのはもうやめにしよう。
「腹減った」
まだ晩餐会は終わっていないのなら、それなりに軽食は残っていると思う。
残っていて欲しいという願望だが。
* * *
休憩室を本来の用途で使っている父さんを起こさないよう、細心の注意をして扉をゆっくり閉めた。
酔いによる深い眠りなのは分かっている。それでも自分の息すら注意して部屋を出て、すり足で歩いた。
カチャッと扉を留める金具の音が取っ手の奥から鳴った。
かすかにしか聞こえない扉の向こうに耳を澄ませるが、起き上がる音はない。
問題もなく、僕の自由時間はやってきたようだ。……どうしようかこれから。とりあえず、ディオネがちゃんと笑顔だけを貼り付けているのか見に行こう。
って、違うだろ。まずは腹ごしらえだ。ブドウだけ食べたところで寝られもしない。
「あら、ここにいたのね」
もう大丈夫だと、扉から手を離して廊下に顔を向ければ、会場の方から花畑の香りと共に向日葵がやってきた。
歩いてきたのだ、向日葵が。
疲れて頭がおかしくなったらしい。
眠たくも霞もしていない目を擦って、もう一度向日葵を見ると、鮮やかな黄色のドレスを着たエレジア様が一人で歩いていた。
共にしている使用人の一人も、伯爵様も隣にはいない。
不用心だ。いくら彼女にとっての我が家だとしても、今は赤の他人がその家に入っているのだ。
一人は思いっきり寝てるけど。
「今日は、お招きいただきありがとうございました。エレジア様」
見惚れた。よりも錯覚したことで忘れていた挨拶をすると、「良いのよ、そんな行儀良くしなくても」と歩く速度を変えずに、休憩室の扉まで歩いた。
「ファビオ君だっけ? ザックは知らない?」
腕を組んでいるより、手で肘を持っている彼女は少し不満そうな顔で聞く。
かろうじて僕の名前を覚えてくれているのは助かる。面倒なやり取りが一つ省けるのは良いことだ。
エレジア様は父さんを探しているのか。だったら――。
「休憩室で寝てますよ」
知りません。と言って休憩室の扉を開けられるより、正直に言った方があいつは起きなくて済む。
「……なるほど、だったら私はお邪魔かしら?」
彼女は扉の取っ手に手をかけようとしてやめた。
僕の話を聞いて、首を傾げる様子はびっくりしたというより、やっぱりといったところのようだ。
多分あいつは一度か二度、ここで寝て過ごしているんだろう。
彼女は「まったく、もう」と言って、困った様子で整髪剤で固まった髪を触った。
「起きたら、連絡しましょうか?」
彼女が扉の前で立ち止まっているのを見て、善意でそう提案した。「いいわ。どうせ朝まで寝てるだろうし、急ぎじゃないから」と首を振られて断られる。
絶対二度どころじゃないくらい世話になってるだろ。これ。
父さんに用があったエレジア様に、僕から用はない。「失礼しました。私は晩餐会に戻ります」と扉を見ている彼女に切り出して、足を会場に向けた。
「そうそう。ディオネちゃんのことなんだけどね」
用はないと進もうとした途端に聞こえたエレジア様の声。
まだ何かあるのか? そのまま向かいの建物まで進んで帰ってほしい。僕の予想では、渡り廊下の向こう側が伯爵様の生活空間だと思う。
だが、ディオネのことか。
酒は飲んでいないと思いたいけど、ディオネだから分からない。
「……なにかやらかしましたか?」
「ふふ、なにもしてないわ。今日ね、ここに泊まらせても良いかしら?」
僕の返した言葉に笑う彼女。
ちょっとした仕草でも彼女から漂う香りは凄まじい。
扇情的というよりなんというか……僕には言葉で表現できない。幻想的、いや、もう分からないけど、そのせいかエレジア様のお願いを拒否することができそうにない。
「全然、大丈夫です。お願いします」
拒否するしないに関係なくディオネには話していそうだし、一人で宿までゆっくり帰れるのだから断る必要もない。
「良かったわ」と僕に微笑むエレジア様は続けて「そうだ!」と手を合わせた。
いやいや、まだ何かあるの? もういいんじゃないですか?
「少し、おばさんと話してくれる?」
自分でおばさんと言いながら僕に切り出した彼女は「どう?」と首を傾げた。お願いの仕草にしては簡単そうだが、纏う雰囲気に気持ちで負けそうになる。
『喜んで』と言いたい気持ちをなんとか押さえて僕の言葉を待つ彼女に噤んだ口を開く。
「……少しなら」
「……変なところでザックと似てるわね、あなた」
僕にかかる面倒事の波がさざ波程度に治まったと思ったのは、今日一番の大波の準備だったようだ。
「中庭でお話しましょう」と僕の前を歩き始めた彼女に走り去ってしまいたくなった。
まぁ、二人きりで話をするとは、肝が冷えそうだ。……父さんと僕が似ているとはどういうことか。
扉越しに眠りこけているおっさんと似ている箇所なんて、全部潰したいんだが。




