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これから先の用事が大変だというのに、突発的に始まった馬のお触り体験では、呑気に二人が馬を撫でている。
ここまでことが上手く進まないのならば、もうどうにでもなれ。今日はもう、これから流されるまま過ごしてやる。
だが、明らかに予定していなかった体験は、城の扉から出てきた執事に御者が気づいて終わった。
御者の彼がいち早く気づいて、ディオネに馬を触るのを止めさせたところを後ろから見ている。
焦っていない御者の様子は、相当な馬好きか、それとも何度も同じことをしているかのように見えた。
小走りで近づいた執事は昨日の夕方に会った彼だ。それなりに厳格そうに見える彼だが、困ったように眉をひそめて御者に一礼してから、僕たちに顔を向ける。
……やっぱり、そうじゃないかな。
普通、執事が御者に頭を下げないでしょ。
「ディオネ様、ファビオ様。本日は急な――」
「こちらこそです! こんなお屋敷にお招きいただいてありがとうございます!」
彼の挨拶を遮るディオネの大きな声は淀みなく、玄関口に響く。
まさに、彼女の気分の上り幅はすでに振り切っているようだ。
この調子が面談の時まで続いてくれれば助かる。
今日の主役と言ってもいいディオネが、夫人と区切りがあるか分からない面談をつつがなく終わらせてくれるのを願うばかりだ。
僕の話題なんてたかが知れているんだから。
「こちらこそでございます。急な面談を快く受けてくださったこと、夫人にも伝えて――」
「こ、快くなんてそんなぁ! 晩餐会にも招待してもらって今日もなんて! 最高です!」
上り幅はすでに振り切っていると思ったけど、これは上がりすぎて逆に心配になる。
何度も話を遮られて、執事が本当に困った顔をしているのが見えてないのか? あと、御者の彼は二人の応対にこめかみを掻いて肩を揺らして笑っていた。
僕たちのいる場所からでも見える。そこそこ離れた小さな窓の向こうでは、動いている様子が見えた。
僕たちを、城で働いている使用人が見ているのだろう。
ここからでも彼らの頭が見えている。
「来てくれたか。ロベット」
「夫人が不満そうにされていましたので」
「そうか。エレジアには悪いことをしたな」
ケイドリン伯の邸宅の様子を見ていれば、すでに執事は御者とディオネの近くまで歩いていた。
御者の一声に頭を下げて答える執事を見てしまうと、気づかないふりはできそうにない。
ここまでの道中の受け答えは大丈夫だったか。貴族様に対する礼儀作法は問題なかったよな?
……というか、あれだ。お忍びのお遊びだろ。だったら、気づかないふりのまま通そう。それがいい。
「そういえば、面談はこの組で終わりか?」
「はい、お二人に時間を割きたいらしく――」
「そこまで気に入っているのか」
「はい。それはもう」
やれやれと手を振っている御者に執事のロベットさんは頷く。
離れた場所で二人は話し始めるが、僕にはよく聞こえないくらい小さい声だからどんな内容かまでは分からない。
別に分かりたくもないけど、僕とディオネの馬車の中での様子を不満に感じたのであれば、言ってほしいくらいだ。
ただ、一番近くで見ているはずのディオネは、二人のことなどそっちのけで、また馬を撫で始めていた。
「あいつ……本当に」
広いだけの玄関口に馬車と四人だけがいる状況を理解していない。普通のこととは言えないんだぞ。
というか、もう馬はいいだろ。
「ロベット、あとは頼んだ」
「かしこまりました」
ロベットさんがまた礼をする姿を見れば、二人の話は終わったようだった。
まだ馬と戯れているディオネにロベットさんは近づいて声をかけた。
「ディオネ様、もう馬車を動かしますので」
「え? あぁ、すみません」
すぐに馬から離れるディオネは手に残った感触を懐かしむように手を合わせて僕の方まで歩く。
その後ろには、あくまで御者として通している彼が立っていて、僕の方を向いた。
「ではお二人、かな……夫人との面談、気楽にお楽しみください」
この人、ケイドリン伯夫人のことを家内って言おうとした?
勘弁してくれよ。
「あ! そうですね! お馬さんのことが気になって忘れてました!」
「……触るの気持ちいいですから、仕方ないですよね」
笑って歩いていたディオネは、御者の彼の一言のおかげで今日の目的を思い出した。
すっかり忘れていたディオネは御者……いや、伯爵様と話している。僕はちゃんと伯爵様って呼んでおこう。
顔も何も分からないけれど、僕が失礼をしてはいけない。
話しているディオネは気づいてないから、そっとしておく。
僕まで飛び火されては目も当てられない。
え? 壁についたインクのこと? そんなことあったか?
最初からついていたよ。だって気がついた時にはすでに汚れていたからね。
御者――伯爵様はディオネと二言くらい話した後、置いていた架台を片付けて御者台に乗り込んだ。
さすが伯爵様。実に素晴らしい身のこなしだ。
「それでは、私の仕事は以上ですから。後は執事の彼に案内してもらってください」
そう言って、御者台にかけていた手綱を手に取って止まっている二頭に合図を送った。
ザクザクと小さな音が馬の足元から聞こえ、馬はゆっくり歩き始める。足を大きく上げて下ろすのを繰り返すその様は綺麗にそろっていた。
だが、曳いている馬車は砂利のせいで上下に飛び跳ねている。
外から見ればよく分かるが、あれは遊戯感覚で楽しめるものじゃない。
次、訪問する時は、城門前から歩いて向かおう。晩餐会で酒に酔う前に、馬車に酔っては元も子もない。
彼女が僕の隣まで戻ると、仄かに獣臭が漂った。
馬車で匂った花の香りは微塵も残っていない。
馬の匂いだな。何とか面談前には落ちてくれればいいが、諦めよう。
「綺麗だね」
「まぁ、綺麗だな」
独り言なのか分からないが、ディオネが呟いた声に返す。
馬車から降りた先、目の前の城が正真正銘のケイドリン伯の邸宅である。
壁は白く輝いているが、なかなか昔の城のようでひびが入っている箇所が目に映った。
だが、それは細かいところを見た場合であって、全体を見ると陽光を反射して輝く白の壁はライフアリー商会の本部と似ている。
四階建ての本部とは全然違うのは、七階建てということだ。だって、窓が縦に七列あるから。
あと、等間隔で横に並んだ窓の枠は空の青より一段と深い青色で統一されていて、その多さも合わさって絵画のような質感を感じた。
『ラ・レビアン・ケイドリン』の静閑で落ち着いた雰囲気とは違う。そこにあることが当然だという威厳を与えているようだった。
「……綺麗だ。それになんというか……」
簡単に一言で表現できない。それは横で立っているディオネも同じようで、頷いては口元を窄めている。
ただただ、想像以上にちゃんと城なのだ。
ここの壁も麻布のような白さを保っている。
家紋の彫刻が取り付けられている。
鶴嘴と馬の蹄で丸を描き、その中に三輪の花が咲いている家紋だ。
その三輪の花がなんなのかまでは分からないが意味はあるんだろうと思う。
王国貴族には家を象徴するそれが一つずつあることは有名な話だ。
ここまで連れて来た馬車でも同じ家紋が入っているのは見えていた。
家紋の意味を御者、じゃなくて、伯爵様に聞いてみればよかった。一番知っている人だったのに。
「いかがなさいました?」
馬車が城の左側を進んで曲がって消えていくと、ロベットさんが僕たちに声をかけた。
城を見上げて見ていた僕は、彼の方に顔を向けた。ディオネと同じ仕草で見てしまって気恥ずかしいが、気にすることはない。ディオネは知らないから。
困った表情をしているロベットさんは、手を後ろで組んで僕たちを待っていた。
待ってくれていたのだ。面談の時間を気にしていたくせに、大きな城に気を取られて僕も忘れてしまっていた。
「すみません、城が凄くて」
「ありがとうございます。ここに初めて来てくださる方はいつもそう褒めていただいておりますが、ありがたいものです」
柔らかく笑う彼は続けた。
「ですが……少しお早い到着なので、よろしければお庭を案内しましょう」
ロベットさんの口ぶりでは、僕たちは面談時間より早かったようだ。
それなら良かった。遅れて夫人様の機嫌を損ねるようなことはなかったということだ。
少しだけ心が軽くなった。
「いいんですか!」
「えぇ、かまいません。夫人の面会癖は、毎日時間の許す限り予定を詰め込まれますから、お庭の散策も暇つぶしになるんです」
乗り気のディオネに、ロベットさんは快く返す。
その提案の仕方に夫人をけなすというより、彼の表情はまさに困った人という感じに眉間にシワが寄っている。
シワ一つない服装の見事さと比べて、彼の顔には相応のシワが寄っていた。
結構、苦労しているようでなんとなく共感しそうになる。
僕と彼では、困りごとの重さがまるで違うが、それでも同じ類いの人がほかの国にもいるのはどこも共通なのだろう。
「夫人様ってお忙しい人なんですね!」
ディオネはディオネで、城のことも馬のことももう十分堪能したようで、今はロベットさんに近づいてその『お庭』と夫人様について話を聞いていた。
「はい。ですが、エレジア夫人の忙しさは自らそうしているので」
「自ら? 自分でってことですか?」
「その通りです。人と話すことを楽しがる方なので」
ディオネは「へぇ」と返すだけで、「お庭かぁ。貴族様のお庭かぁ」と見上げてだらしなくニヤけている。
彼の夫人様の印象は、デュランみたいな人ってことか。
……帰ろうかな。というか、今日帰れるか?
「無茶な我が儘がないのはいいですが、こんな時期くらいはやめてほしいものです」
ロベットさんはそう言った後、「では、案内いたします。少し歩きますのでご不便ありましたら気兼ねなくお申し付けください」と僕とディオネを見てから城の方に歩き始めた。
ずっと微笑んでいる彼の笑顔は、苦笑いも含まれているように感じたが、そこそこ早く歩くロベットさんに僕は足早についていく。
ディオネは小走りになって彼の後をぴったりくっついているが、その姿にいきなり不便があるように見えた。
それでも、彼女は笑って彼の後を追いかけているのだから、その好奇心と調子の良さは今のところ問題ないと思う。




