幕間 ゼクラット書店に、思わぬ来客。
「……どうしよ」
頬杖をつくカウンターで呟く声は、書店の賑わいの中に消えた。
新作『深窓の令嬢と憂う騎士』の売れ行きは予想通り好調だ。ありがたいことに、前作とのセット購入が予想以上に多い。
だけど――。
「……薄利すぎるんだよなぁ」
『深窓の令嬢』シリーズの一冊単価は一千三百ベント。
書店の取り分が一千ベント、ディオネの取り分が三百ベントだ。これなら、一千部売れれば最低でも赤字にはならない。
今回、初めて実施したセット購入では、二冊で二千ベントだ。二冊で六百ベントも値引きしている計算になる。
「やりすぎたよなぁ」
一冊ずつ普通に売れば、もっと利益が出たはずだった。
だが、今さら価格を変えるわけにもいかない。
売れれば売れるほど、書店の利益は薄くなるが、売れなければもっと困る。
「すみませーん、これお願いしまーす」
ボーッと考え事をしていれば、売り場から二冊の本をカウンターに置く女性が僕を呼んだ。
「はい、会計ですね」
と返して、二冊の本を確認して値段を計算する。
一冊の表紙には、ベンチに座った二人。
黒髪を短く肩あたりで揃えた女の子の後ろ姿と、肩を落とした長い金髪を括った男の子が並んで座っている。
背景の夕日から差す二人の影は重なっていて、何かを暗示している風に見えるその表紙は『深窓の令嬢と憂う騎士』だ。
あと、もう一冊は新しく表紙を変えた『深窓の令嬢の知られざる本性』の二冊。
正直、これの表紙も変えたことが僕の悩みのタネでもあった。
最初の表紙は長い黒髪と赤い目の女の子が部屋の窓から外を眺めるだけだったのが、窓に反射した女の子の顔をぼんやりと追記したのだ。
もちろん、ディオネが修正したけど、そのせいで原板が――。
「あのぉ」
「あぁ! すみません! お会計が、二冊で二千ベントになります」
「はい、二千ベント」
止まらない考えごとにグルグルと頭を悩ませていたら、会計を待つ女性が僕を現実に引き戻してくれた。
二千ベントをちょうど彼女から受け取り、「領収書はいりますか?」と聞くと、「大丈夫です」と微笑みながら僕に返してくれる。
「ではこちらを」と本を紙袋に入れて彼女に渡せば、「お買い上げありがとうございます」と言って終わり。
二千ベントを鍵付きの引き出しに入れて一息つく。……ダメだ、全然集中できてない。
「いやぁ、本当にどうしよ」
やっぱり、二冊購入で二千ベントという価格設定は失敗だったかもしれない。
でも、この提案にはカーラさんも賛成したわけだから、僕だけのせいではないはず。断じて。
「このまま続くとなぁ」
売上が好調なのが、この販促が成功か失敗かの判断を迷わせるとは、さすがに思いもしなかった。
薄く積み上がる利益に、もうちょっとやりようはあったんじゃないかと、考えるほどため息が漏れる。
「いま、よろしいかしら」
と、また女性がカウンターに二冊の本を持ち込む。
だけれど、なぜ一人の客が会計を済ませると、ゾロゾロと他の客も会計に来るのか。
さっきまで立ち読みとかしていたじゃないか。焦ってカウンターに来ても一人ずつしか会計できないことくらい分かって欲しい。
今日の僕は、一人だけでも対応するのに一杯一杯なんだよ。
「えぇ、大丈夫ですよ」
とは思いつつも、あくまで一書店員の僕がどうこう言える立場ではない。
唯一言えるとすれば、刊行日前にディオネの提案を飲んだ過去の自分だ。この能なしが。
「会計は二千ベントになります」
二冊分買って二千五百ベントであれば、僕も文句はないし、じゃんじゃん買っていって! ってな具合に気分も良かった。
でも、二千ベントは明らかに値引きしすぎた。
「あら、安いのね。ならもう二部ずつ買おうかしら。どう?」
「……問題、ないですよ。どうされます?」
「そうね。なら、ディオネちゃんにサイン付きでもらおうかしら?」
……なに言ってんだ、こいつ。ディオネのサインって、そんなことして嬉しい人なんて――。
「あら、ようやく気づいたの?」
とんだアホなことを言う女性はどんな顔をしているのか。興味が湧いて顔を上げてみると――。
さっきまで下を向いて会計をしていたから、全く気づかなかった。そのまま下を向いて会計を終わらせれば良かった。
「……母さん、本当に来たんだ」
「そうよ、ママは言ったら絶対にやり切る女よ」
眼の前の母さんは僕にウインクをする。やめてくれ、気分が悪い。
母さんは、深めの帽子に長い金髪をまとめていた。そのせいで、書店に入って来た時顔が見えず、全然分からなかった。
「見つかっちゃった」と母さんの明るい声色に、何度も母さんと呼んでも「ママ」と言う人は、目の前の人くらいしかいない。
僕ももう、「ママ」と勝手に言う母さんには慣れてしまった。
「ちなみに……今日はどういった――」
「本を買いに来たの」
何を当たり前のことを、と言いたげに目を細める母さんは、「まさか、帰れとか思ってる?」と僕の目を覗くように見て言う。
は……はは、そんな……ことないですよ。
「まさか、せっかく来てくれたんですから」
「ママの目を見て、もう一度言ってみなさい」
ごめんなさい、無理です。顔を背けたからって、そんなグイグイ来ないで。
「はぁ、まあいいわ」
カウンターに乗り上げる勢いで顔を近づけていた母さんは、会計中の本を持った。
「ちょっと、会計がまだ――」
「裏の部屋で読んでもいいでしょ?」
「いやいや、商品が――」
「帰る時にちゃんと払うはよ、お金の心配なんてしなくてもいいわ」
そう言って、勝手にカウンターの横から書店のバックヤードに入ってくる母さんを止めようと、「母さんは、部外者ですよ!」と声を張った。
いきなりの僕の大声に驚いた様子の客が僕の方を見る。僕に集中する視線に、途端に恥ずかしさがでてくるが、僕の声に振り向いた母さんは少し考えて口を開いた。
「私は部外者じゃないでしょ。あなたの母よ? 家族が部外者なんて……」
母さんは少し芝居がかった声で、周囲の客にも聞こえるように続けた。
「……はぁ、悲しいわぁ」
周囲の視線が一気に僕に集まった。
――あ、これはまずい。すごくまずい。
母さんの一言は、書店にいた他の客にもしっかり届いた。
そして母さんは、そそくさとバックヤードを進んで休憩室に入っていった。
この場所に残った僕には、集まった視線はそのままで加えて、「お母様に酷いこと言うのね」とか「言い過ぎよね」といった小声が聞こえる。
肩が落ちそうになりながら、僕は椅子から立ち上がる。
「すみません、いきなり来たもので取り乱してました」
ヒソヒソと僕のことを話す客に謝罪してから、座り直した。
もう、今日は閉めてしまおうかな。
まだまだ夜には時間がありそうだが、ぼくの気力が持たない。
* * *
思いも寄らない母さんの襲来から、時間が経って既に閉店後の後始末を進めている。
本の補充もそこそこに、明日の版画作業についての量を予測して、大体を機材室の扉に貼っておく。
そうすれば、明日の作業で困ることはないと、ディオネが提案して決まった。
今までの行き当たりばったりではダメだと、僕とマイケルに力説した彼女には圧倒された。
……それこそ、母さんみたいな感じで、ほんの少しだけ怖かったのは言わないし、そもそも言えない。
「そうそう、この絵よ! 凄いわぁ」
と、休憩室から聞こえる母さんの声。ディオネの声も聞こえる。
「ありがとうございます。この場面は特に気に入っているんです」
……二人、ずっと盛り上がってるな。
まだディオネと話していることに我が母ながら、頭が痛くなる。
いい加減、帰って欲しい。もう、閉店して外は夜になっている。
「でも、ディオネちゃんは凄いわねぇ。忙しいでしょ? 学業と作家業は」
「いえいえ、好きで書いているので。でも――」
でもの次、なんて言った? 扉が閉まっているせいで肝心なところが聞こえない。
ねぇ、本当になんて言った? ……後で教えてもらうか。すっごく気になる。
カウンターの作業がひと段落したところで店の玄関から、掃除道具と宣伝看板を持って入ったマイケルが入口のすぐ近くに看板を置いた。
「ファビオ君、店先の掃除終わったよぉ」
「あぁ、マイケル。休憩室に行って水桶の水も捨てるのもお願いします」
あと、母さんにもう帰れって言って。
「嫌だよ。なんで、議長さんがいる所に行かないといけないんだよ。罰じゃん」
「いやいや、水桶の清掃もいつもやってくれてるじゃないですか。僕は売上の確認があるんで、さぁ」
とマイケルに休憩室に行かそうとしても、彼は全く動かない。色々と何癖つけて、やれ「機材室の点検行ってきまーす」とか「本の整頓と売り場清掃しまーす」とか色々と今やらなくてもいいことを、母さんがバックヤードを探索し始めてから肝心なところは動いてくれない。
「じゃあ、明日の分の版画してきまーす」
掃除道具を元の場所に戻したマイケルが、また要らないことをしようとする。
もういいって、マイケル。頼むから、おとなしく休憩室に行ってくれ。
機材室に行ったマイケルは僕の訴えに耳を傾けることはなかった。この調子だと、まだまだ母さんはディオネとの感想会は終わらなそうだと、今日は諦めて母さんの気の向くままに『なるようになれ』の精神でいようと決めれば、不意に休憩室の扉が開いた。
「はぁ、いっぱい話したし、ディオネちゃんにサインももらっちゃったわ。ありがとね」
「いえ、これくらい安いものです。それに、私も嬉しいです。こんなに本を買ってくださって」
カウンターで一人、二人が帰るまで何しようか考え始めた矢先だった。母さんが休憩室から出てきて、後からディオネも出てきた。
「イレニア様、本当にありがとうございました」
「何が?」
「今日、お話できてとても楽しかったです」
ディオネの言葉に母さんが振り返る。
「あら、こちらこそよ。またゆっくり話しましょうね」
母さんはそう返して、二人は微笑み合った。
その光景を見て、僕は少しだけホッとした。学園から戻ってきたディオネが母さんの相手をずっとしていたのだ。
それだけでも大変ありがたい。次は書店じゃなくて僕のいないところで感想会してくれたら、もっとありがたいけど。
ただ、ディオネはそこまで疲れているように見えなかった。
何だったら、来た時の方が疲れた顔をしていたから、母さんと話して回復でもした?
二人を見る僕に、母さんは不思議そうに僕を見て口を開く。
「ファビオ、あなたまだいたの?」
「……いますよ、仕事なんですから」
僕の言葉に、あり得ない。と顔に出ている母さんは置いておく。
話していたら、僕が疲れるから。
「ディオネ、ありがとうね」
「はい? 何がですか?」
と僕の感謝に首をかしげる彼女も……いいや、二人とも早く帰りなよ。
あと、機材室から物音が一つも聞こえないのはどういうことだ? マイケル、お前盗み聞きしてるだろ。
「もう、帰られるんですか?」
「そうね。ディオネちゃんとも話したし、満足したわ」
「良かったですね、あぁ、馬車の手配しておきましょうか。夜も深くなってきてますし」
そう言って、カウンターの椅子から立ち上がるが、母さんは「いいわよ。外に馬車を待たせているから」と事も無げに言う。
待たせてるの? 馬車を? え?
「ここに来てから……ずっとですか?」
「そんなわけないでしょ、夜に迎えが来るようアレックスに言っておいたのよ」
「だから、送迎馬車が待ってるはずよ」
自慢げに話す母さんは続けた。
「そうだ。ディオネちゃんも一緒に帰る?」とごく自然にディオネを誘うが、「私は、孤児院に戻りますので」と母さんの提案を断った。
先日だったか、孤児院の竣工式があったそうだけど、僕は書店にかかりっきりで何も知らない。
引っ越しとか色々と作業が大変だ。とディオネが機材室で嘆いていたのはマイケルから聞いているけど、そうか。もう商会には居ないんだな。
「一人で帰るの?」
「はい、いつもそうなので」
とディオネは母さんと話す。確かに、夜でも明かりが点いている大通りを歩いて帰っても何も巻き込まれることはないくらいに治安はいいから、気にしていなかった。
だから、母さん。そんな目で見ないでよ。感情が抜け落ちちゃってるから。
「……ファビオ、あなた」
「これからは、しっかり送迎します。すみませんでした」
先に謝っておこう。
どうせ説教が始まるんだから、先に謝っておこう。
「……まあいいわ、アレックスには私からも話しておくから。馬車の手配はしっかりね」
「はい! ありがとうございます!」
一旦は大丈夫かな。これだったら、もう帰ってくれたり――。
「ディオネちゃん、今日は馬車で送るわ。どうせ、時間外だからどこに行っても一緒よ」
「いいんですか?」
「いいわよ。年頃の女の子を夜に一人で帰らせる馬鹿じゃないから、私」
……馬鹿ですみませんでした。以後気をつけます。
まぁいい。この調子ならもう帰るだろう。ほら、さっさと帰ってくれ。僕を寝かせてくれ。
母さんはディオネの手を引いて、カウンターを横切って売り場から玄関まで歩く。何も持っていない二人に、「荷物は?」と聞けば、ディオネは思い出したように「イレニア様、待ってください! 私、荷物が」と言って、小走りで休憩室まで戻った。
「忘れてたわ。ファビオ、明日でもいいから今日買った本を家まで持ってきて頂戴」
「えぇ、自分で買ったんじゃないですか」
そう言う母さんに返せば、「結局、十冊買ったのよ? ママが持てると思いますか」と真剣な目で母さんは僕に返す。
別に、持てるでしょ。それくらいとは言いたいが、僕は学んだのだ。こんな時は――。
「……分かりました。明日実家に持っていきます」
と母さんのお願いを聞くことにする。こんな時に口答えして良かったことがないのだ。
「よろしい。じゃあよろしくね」
母さんの言葉に渋々頷けば、休憩室からディオネが出てくる。
学園用の鞄を肩にかけて、手には母さんが買ったであろう十冊の本を抱えていた。
「お待たせしました!」
と興奮気味のディオネに、「ディオネ、その持ってる本は僕が明日持っていくから。カウンターに置いといて」と言えば、「そうなんですか? じゃ、よろしくお願いします」と持っていた本をカウンターに置いた。
小さく、ドンッと鳴ったそれに、明日持って行けるか心配になるけど、とりあえずは二人だ。
「ディオネちゃん、もう大丈夫?」
「はい! じゃあ、ファビオさんお疲れさまでした」
そう言うディオネに、「お疲れ」と返せば、母さんは何かを思い出したかのように手を叩いた。
「忘れてたわ、ファビオ」
「何ですか? まだ何か?」
「ママね、今年で議員辞めるから」
と笑顔で僕に言った。
横で聞いていたディオネは目を見開いて、少し胸を反って驚いている。
まぁ、僕もディオネの事を笑えないくらい、唐突な話で言葉が出てこないが、母さんは続けた。
「これから孫も生まれるし、隠居するにはちょうどいい頃よね」
孫? あぁ、アレックス兄さんとエルマリカさんのところか。 いやいや、それよりも――。
「ちょ、ちょっと待ってください。辞めるって、議長の立場を?」
「そうよ。もう決めたことで、あなた以外にも報告しているから」
母さんはあっさりと答えると、玄関の扉を開けた。
「じゃあ、またね」
あっさりと、それだけ言って玄関を出て行く母さん。
彼女の言葉に頭が追いつかないが、僕と同じように驚いていたディオネが、「イレニア様! まってくださいぃ」と玄関の扉を開けたまま母さんについていった。
忙しなく、扉が閉まったあと、外から、馬の嘶きが聞こえたが……え? 本当に? 辞めるの?
正直、母さんの話が信じられない。だって、まだまだ元気そうだし、まだ議長だよね母さんは。
椅子に座り込んで、疲れた頭を抱える。
今日は、昼から休んだ気にならなかった。
休憩室には母さんが陣取っていたし、途中からディオネと二人で感想会をして今まで話し続けていたから……はぁ、疲れた。
「あれ? ディオネと議長さん帰った?」
バックヤードから出てきたマイケルは、何も知らないような顔をして僕に聞く。
そんな顔をしても無駄だよ。マイケル、どうせ機材室で聞き耳立ててただろ? じゃないと、出て行ってすぐ出てこないから。
「……どこまで聞いてました?」
「えぇ、うーん。……全部」
よし決めた。明日、僕の実家に行ってこいよ。
ここに本があるだろ? これを持って行ってくれればいいだけだから。




