19
目が開いた。それも久しぶりにパッチリと。
ここまで気持ちよく目が覚めたのは、本当に久しぶりのことだ。
ただ、体の気怠さは残っていて、寝返りを打つことすら億劫になる。
寝心地のいいベッドだし、太陽の香りっていうのか、本当に久しぶりに嗅いだ匂いだ。
「あれ、起きたのかい?」
ビクター兄さんの声がした。
起き上がって声の方を見れば、桶を持った彼が安心した顔で僕を見ていた。
「今、ちょうど母さんと体を拭き終わった所なんだけど、気持ち悪くない?」
ビクター兄さんが持っている桶に布きれが三枚ほど掛かっているのが見える。
それで拭いたのか。ありがたい話だ。
「ないですよ。怠さはありますけど」
「怠さはね。仕方ないよ」
僕の言葉に彼は笑って、「それじゃ、ゆっくりしといて。部屋はそのままにしてるから問題ないはずだよ」と言ってから扉を閉めて出て行った。
あの時、男に揺らされ続けてから全くなにも憶えていない。
アンナさんと言い争う所は少しだけ憶えてはいるけど、そこから誰にたすけられたのかも全然分からない。
「でも、ここ。僕の部屋だし……」
三年前に書店で寝泊まりを始めてから、四回程度しか使っていない僕の部屋。
特に何かがある訳でもない。
必要な物のほとんどを書店の二階に移しているから、殺風景な部屋には僕が寝ているベットと窓からの光を遮るカーテンとレース。
あとは、安物の絨毯くらいか。
なにもない部屋だ。
「けど、なんでここ?」
僕の呟きは部屋に響かない。
一人用の部屋にしては大きいから。
元々は、ゼクラットおじいさんが使っていた部屋だから、相応に大きいだけで今の僕にはこんな広さは要らない。
だから移った訳だし。エリー姉さんから離れる絶好の機会だったことは、あくまで引っ越した後に気がついたのだ。
とりあえず、寝ているだけではどうしようもないと思い、体を起こしてベッドから立ち上がる。
魔鉱石の暖房が効いているようで、部屋の中は温かい。それに、僕が着ている服もビクター兄さんが昔着ていた寝間着に変わっていた。
僕が寝ている間にビクター兄さんが着替えさせてくれたようで、一応下の肌着も確認すれば、書店から着ていた肌着はそのまま変わっていない。
全身をくまなく拭かれているわけではなさそうで、ふぅ。と一息つく。
ただ、首が寝違えた時のように痛むが、寝慣れないベッドで寝ていたのだからそういう時もある。
ベッドの横に水桶でもあるかと探してみるが、桶はない。
多分、ビクター兄さんが持っていったあれがそうだったのだろう。顔を拭きたい気持ちを抑えてカーテンを開けた。
「……雪、降ってる」
季節の真っ只中だから雪くらい降るだろうけど、この町で雪は珍しい。
ずっと降っているのか窓の外は、一面白く映って照明の明かりで照らされている所だけ微かにオレンジ色をしていた。
「夜だ。っていうか寝てたってどれくらいだ?」
それが分からないんだから、確認ついでにカーテンを開けたのだ。だけれど、よく分からない。
あの顔を真っ赤に染め上げた男に揺らされた時も相応に寒かったから、雪が降っても驚きはしない。
「事務所の明かりは消えてる」
通運の方には明かりはなくて、奥に見える大きな鉄門も閉まっている。
すでに今日は終業しているようだった。
反対側の商会も一階は暗いが、四階まで見上げれば中の明かりが点いているのが分かった。
ディオネはまだ、単位の勉強をしているのか。それとも、新しい原稿を書いているのだろうか。
少しの時間、四階の明かりに人影が映らないか見ていれば、扉が開く音が聞こえた。
振り向けば、水桶と盆を持ったビクター兄さんが女性の使用人に扉を開けてもらったようだ。
「ありがとう。ここまででいいよ」
と、ビクター兄さんが彼女に伝えた声が、小さくではあったが僕まで聞こえた。
「寝ていなくてもいいのかい?」
「まぁ、よく寝られたみたいで全然眠たくないんです」
ビクター兄さんは僕を優しく見ていて、どこか子どもの頃に戻ったような気がする。
僕が寝ている間に世話をしてくれたのはビクター兄さんだろうし、変な嘘をつくのは良くないと思った。
僕の言葉に、彼は満足したのか微笑んで持つ水桶と盆をベッドの横に備え付けの机に置く。
盆には水が入った瓶と、コップが三つ。
「なんで、三つもあるんです?」
「あぁ、コップのこと?」
聞き返すビクター兄さんに頷いて返せば、「あとで母さんも来るから。その為だね」と事も無げに言って、部屋に置いてある椅子に座った。
「……母上ですか?」
「そうだよ」
彼の後に母上がこの部屋に来る。
それだけで、気が重くなった。
何を言われるのか分かったものじゃないし、アレックス兄さんのことも見合いの件とか逃げた件とか色々と話していない事が多い。
さっきまで寝ていた頭が、急に回り出す。
そもそも母上のことが、僕は苦手だ。
「……書店に戻ります。体調も回復したみたいなんで」
「それは母さんが可愛そうだよ。世話してたの母さんなんだから。お礼くらい言ったらどうだい?」
……母上が、僕の世話?
「……本当ですか?」
「嘘なんてつく必要ないでしょ。こんなことで」
座った椅子に深く腰掛けるビクター兄さんは続けて、「そういえば、ファビオは母さんのこと苦手だよね」と言って笑った。
少しだけ嫌みに聞こえるその笑い声に、この場から逃げる為の何かを探す。
だけどどう考えても、矛盾なく理屈をつけようとしても、この部屋から、いやこの家から書店に戻る計画は立たない。
そもそも、雪が降るくらい寒い夜に、病んでいるかもしれない僕が外を歩くなんて論外だ。端から見ても、どうかしてる。
「憶えてるかい?」
考えていたら、いつの間にかベッドに腰掛けていた。ビクター兄さんは背もたれの上の部分……そう、笠木に左肘を置いて器用に頬杖をついて僕に尋ねる。
「何をですか? ここに運ばれたことですか?」
「そう、そのこと」
彼の姿勢はそのまま動くことなく、僕を見て話す。
「昨日の昼前に……アンナさんじゃなくて――」
「マリーさんですか?」
「そうそう! マリーさんが僕の所まで来てね。慌てて『ファビオさんが!』って言いに来てさ」
「マリーさんが、ですか」
確かに、思い返せば彼女が事務所に入った後、その姿を見ていない。ただ、アンナさんだけが僕の所に来ていたのは憶えている。
あの男とアンナさんが言い争ったせいで、今の状況になったのだから、何とも言えない。
「うん。何のことだがよく分からなかったけど、急いでファビオの所まで行ったらさ。……フフ」
そう言って、話の途中で笑うビクター兄さんは、口元を押させた。
「何笑ってるんです? おかしいことでもあったんですか?」
「いや、気を失いながら……フフ……吐いててさ」
僕が、気を失って吐いていたって……笑い事じゃないんだけど。
そういう不謹慎なこと、偶に言うビクター兄さんは好きじゃない。
「それで。ビクター兄さんがこの部屋まで運んでくれたんですよね?」
思い出し笑いが止まらない彼に、話しを変えようと切り出すが、ヒーヒー。と笑って話しが進まない。
母上が僕の世話をしていた所まで話して欲しいのに、腹を抱えて笑い続けるビクター兄さんに我慢が出来ない。
「もういいですから! それで、母上の事はなんなんですか?」
「ふぅ。……そうだね。母さんは――」
ようやく落ち着いたビクター兄さんは、僕をここまで運んでからのことを話してくれた。
ただ、さっきまでの話で僕が気を失ったのは昨日の昼前だと分かった。僕は一日半の間、丸々この部屋で寝ていたようだ。
一日だけ手伝いが出来ていないが、それなら遅れた分は取り戻せると思う。
あ、違うな。気を失った日も全然手伝えていなかったから二日か。それでも取り戻せる。大丈夫。
* * *
ベッドに腰掛ける僕と、椅子に座るビクター兄さん。
話の途中で喉が渇いていたことを思い出して、水の入った瓶からコップに注いで一口ほど飲む。
仄かに柑橘類の風味が鼻から抜けて、実家に今自分がいることを嫌々ではあるが自覚した。
ライフアリーの家は、当然お金持ちだけどあまり富豪然とした家ではない。
そもそも、魔鉱石の採掘で一当てした商会だから、代々謙虚に商売をしているのだ。
そのせいで、よく下に見られる事もあるけど。
ただ、ただの水に柑橘類を浸すなんて豪華なことは、この町でもアースコットの家とライフアリーくらいだと思う。
「もうすぐ母さんも来る頃だろうし、僕はこの辺で部屋に戻るよ」
話もほどほどにという訳ではない。
昨日からあったくだらない話とか、トレンティアの出張の話を聞いたが、僕を気絶させた男の後の事は聞いていない。
「ビクター兄さん。苦情の男ってあの後――」
「あぁ! あの人のこというの忘れてた!」
僕の言葉にビクター兄さんは思い出したようで、「あの人の苦情は僕の方でちゃんと処理しておいたから。ファビオのすることはないよ」と立ち上がった。
「それじゃ。おやすみー」
と立ち上がった勢いのまま部屋を出て行こうとする彼に、引き留めようとは一切思ってないけれど。
中途半端な言い方で終わった男のことをもう一度聞く。
「処理って、詳しく教えてくださいよ」
「えぇ、面倒くさいんだけどー」
いいから教えろよ。
別にビクター兄さんの言い方なら、もう終わった話だろ?
「処理って言い方されると気になるんで、それで寝られないかもしれないですし」
「……いいけど。あの人の商材を一旦商会で立て替えただけだよ? 遅れた荷物の取引が出来たら立て替えた分のお金は返してもらうから。全然問題ないさ」
とビクター兄さんは続ける。
「ちゃんと商売してる商会の番頭さんだから出来る事だよ。信用できるから」
「……なるほど」
信用出来る訳あるか。
あの真っ赤な顔は夢にも出てきそうなくらいだぞ。
「もういいよね。今度こそ、おやすみー」
あの男のことを少し考えていれば、ビクター兄さんは扉を開けた。
部屋から出て行く間際、取っ手を持ったまま立ち止まったビクター兄さんは、「ファビオ、起きてますから。ごゆっくり」と彼とすれ違うように部屋に入ってくる女性に道を譲った。
ゆっくりと閉まる扉に、向こう側から覗き込む彼の姿が見えて、僕にニヤついた顔をしてからそっと扉を閉めた。
「夜中に起きるなんて、朝まで寝ていればいいじゃない」
ベッドに腰掛けたままの僕を見て、開口一番それか。
僕の母、イレニア・ライフアリーは、ビクター兄さんがさっきまで座っていた椅子を僕の近くまで持って、ベッドの近くに置いた。
「座っても?」
そう聞いてくる母上に、「……どうぞ」と返すだけの僕。
やっぱりいつ見ても、六人を産んだ人には見えない。
それくらいに肌は綺麗で、輝く長い金髪をまとめて肩にかけている母上は優雅さそのものだった。
髪もそうだけど、同じく金色に輝く瞳が僕を見透かすように見ていた。
やっぱり、僕。この人苦手だ。だって、エリー姉さんに似てるんだよ。




