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先日、ビクター兄さんと話をした夜のこと。
僕がアレックス兄さんと文通をしている事をビクター兄さんは知っていて、彼は黙ってアレックス兄さんの居場所を特定したらしい。
らしい、というのは、アレックス兄さんが転々と居場所を変えているため、ビクター兄さんもアレックス兄さんが今どこにいるか、何をしているかまでは分からないからだ。
ゼクラット書店でアレックス兄さんと話した時のことを思い返せば、ビクター兄さんにも手伝ってもらう云々と言っていた気がする。アレックス兄さんが僕だけを頼っていると思い違いをしていた。
ビクター兄さんもすぐそこの実家へ戻る前に、『本当にしんどくなったら、ちゃんと言ってね』と僕に何度も言って帰った。
久しぶりに真剣な目で僕を見ていっていたから、結構真面目な話だったと思う。
持つべきは、まさかのビクター兄さんの方かもしれないと、あの時は少なからず思った。
その夜から、僕の手伝いはゆっくりと進めた。だって、頑張らなくてもいいらしいから。
当然、新規受付の決裁も遅れ始めたけど、ビクター兄さんと話してからは気持ちものんびりしていて、書類が塔から山に変わったのを見ても焦りはなかった。
その後、本格的に冷え込んできた。去年に比べてより一層厳しい寒さだ。
雪は降っていないけれど、どこからともなく寒風が吹けば、どれだけ着込んでも服を梳いては肌を刺す風に身を震わせる。
それでも我慢して、寝る時は暖房を点けない。売上の状況を見れば、貧乏書店であることは間違いない。一回のヒット作では、一年と少しが限界だった。
大昔のように感じるが、ビクター兄さんの執務室でアレックス兄さんと話したあの日、アレックス兄さんの言っていたことは正しかったのだ。
当然、僕がそんな寒い生活を続けていれば、病弱でなくともしっかり重い風邪を引いた。
頭の怠さに、火照る顔と止まらない鼻水。それから体の節々が動かずとも痛かった。
最初は何か調子が悪いなと感じていたが、アンナさんに指摘されて商会の治癒院にかかると、風邪と診断された。急遽十日ほど休むことになった。
「なんで来たんですか? 帰った方がいいと思いますけど」
少しばかり寒い会議室で、マリーさんが僕に白湯を入れてくれた。
彼女の言うことは至極当然のことだ。
十日休んで、昨日の夜には治り始めたと勘違いしてしまった。
久しぶりの風邪だったから、仕方ないと思えばそうかもしれない。
歩いて通運に来ては早々に、昨日よりも体が重い。
「……すみません。マリーさん」
「いえ。けど、本当にしんどくなったら寝ててもいいですから」
そう言ってくれてはいる彼女だが、口元には布きれを覆っている。
彼女を見れば、子どもの頃に看病してくれたアレックス兄さんが、同じように口元を覆っていたことを思い出した。
座っていれば時折、治っているんじゃないかと感じるが、彼女の仕草や目を見れば、僕はまだ病人という事らしい。
朝出かける前に鏡で見た顔は平常だったから、問題ないと思ったのだが、違ったようだ。
「では、私は出て行くので。用があったら、この鈴置いてますから、鳴らしてくださいね」
「……何から何まで、ありがとうございます」
僕の言葉に彼女は、「もういいですから。ゆっくりしていてください」と言って、静かに会議室から出て行った。
「……情けないなぁ。僕」
風邪を引いたことに思わず呟いてしまう。
いくら、ゆっくりと仕事を進めていたとしても、十日間も休んでしまうとそれなりに仕事は貯まると思っていた。
休んでいる間に受付の書類が貯まっていたらどうしよう、とか、人員不足で仕事が回らなかったら、とか本当に色々と考えては、毛布の中で一人悶々としていた。
「それが、なぁ」
比較的まだ元気だった朝、開店まで時間があったから会議室を覗くと、貯まった書類は以前のまま安置されていた。
ただ、その量は山と例えていたものが、塔に変わっていた。
凄く驚いたけど、後から来たアンナさんが『ビクターさんとゾトーさんが手伝ってくれたよ』と肩をすくめて『それで、もう大丈夫なの?』と僕を心配してくれた。
あの時は『大丈夫ですよ』と答えたが、開店してから荷運びを手伝い始めると、体は思った以上にふらついて、挙げ句の果てには荷車と一緒に転けた。
倉庫番や、通運に用事のある人たちに僕の恥を見られた恥ずかしさはあったが、起き上がろうにも体は言うことを聞かなかった。
端から見れば苦しんでいたように見えたのだろう。皆して僕を事務所まで運んでくれた。
要は、風邪はまだ治っていない。なんだったら、より一層重症かもしれない。
転んだ時に強く打った手のひらは赤くなり、ジンジンと痛む。それよりも、動かす度に軋む体が、深く座っていても強烈な違和感を与えてくる。
暖房の効きが悪いように感じる。
会議室で一人ため息を吐いて外を見れば、雪が降らないこの国では、冬といえば強烈な風が吹くものだ。今日も風が吹いている。
今も敷地の外周を囲む外壁に守られているとはいえ、会議室の窓から風の音が聞こえる。
これでは、少し寝ることも出来ない。
手のひらは痛いし、風の音はうるさい。
十日間ずっと感じていた体の痛さは我慢出来たとしても、それ以外は許容できなかった。
「……仕方ないかぁ」
目を瞑れば、体がフラつくようなグルグルと回るような感覚。
ここ数日はなかった震えと鼻水は今もないけど、気怠さは今日が一番酷く感じた。
痛みと音を我慢して冷たい床で寝ることも考えたが、数枚程度でもいいから書類を整理しようと思う。
どうせ、治ってからもすることだ。
眠たくなったら、その時は寝るし。問題はあるだろうけど、その時考えればそれでいい。
それじゃあ、一枚目。
『送迎馬車の予約申請』か。こんな寒い時によく遠出しようと考えるよな。
マイケルだって、帰ってきた時は休む日を間違えたって嘆いていたよ。
そういえば、マイケルも調子が悪いとか言っていた気もするけど、彼の風邪が移ったとは考えてはいない。
だって、彼が戻ってきた時には僕の方がすでに寝込んでいた。
それでは移りようがない。一日中寝込んでいた僕には、一階で咳き込むマイケルの声と心配するディオネの声が聞こえていた。
だけどそれも、二、三日で元気そうにセイラちゃんとレイラちゃんに遊ばれるマイケルの声を聞いていれば、僕とは無関係にマイケルが勝手に風邪を引いて治ったように思う。
まだ、マイケルの風邪が移ったと思えば、僕の気が落ち着くのだが、とは思っていても、現実には僕とマイケルの風邪は関係ないのだ。現実は無情だ。
思い返せば気が滅入るこの数日のことは置いて、マリーさんが置いてくれた白湯のコップがある机まで歩く。
朝も、それに十日前のマリーさんもそうだったが、ただの風邪でもマリーさんの対応は僕に極力近づかないようにしている。
移してしまうとそれはそれで申し訳ないし、かかっている僕から見てももうちょっとは普通に接してくれたら……とは思うけど、僕が悪いのだ。
僕から離れた所にあるコップに触れば、「アッツ」と声が出た。
すぐに手を離したそれを見れば、いつも淹れてくれるお茶用のコップに注いでくれた白湯が勢いよく湯気を出していた。
これじゃあ、当分は飲めないな。
* * *
結局、書類は五枚程度目が霞んで文字が歪んで見え始めた時に作業を止めた。
一息ついて、背もたれに寄りかかれば、馬車酔いをしたみたいに視界が揺れる。
揺れた気持ち悪さに目を瞑れば、またグルグルと回る感覚がくる。
寄りかからない方が今の僕はいいみたいだ。
もう一度、椅子に浅く座り直せば、さっき押した決裁書類が目に映った。
「全然ダメじゃん」
書類に押している決裁印はブレていて、かろうじてライフアリーの決裁印だと分かるが、見た目は当然よろしくない。
やり直したい気持ちは湧くが、決裁書類だ。
何気なしに決裁印を押していたけど、やり直しなんて出来ない。
やってしまったなと思っても、どうしようもなかった。
「帰るにしても……なぁ」
ここから書店に戻るまでに倒れる自信だけはある。
背もたれに寄りかかるだけで具合は悪くなるのだ。
歩けば、相応に……いや、考えなくとも分かる。そもそもあの鉄門まで歩けない。
ここまでしんどかったら、朝の調子の良さは何だったのか。疑問はつきないけど、ここに来られたのだから、その時だけは調子が良かった。
そのせいで、今この状態なのは後悔しかない。
吐き気だけはないのが唯一の救いではあるが、それ以外がどうしようもない。
それに、時間は一向に進まない。
開店してすぐ転んで、それでマリーさんに手当てしてもらってちょっと書類を整理して決裁しただけ。
それでは時間は進まない。のは分かっているけど、今日くらいは瞬きの間に夜になって欲しい。
そう思うのは僕だけかもしれないけど。
マリーさんが置いてくれた白湯の湯気はなくなって、コップを触れば温かい。
さっきまでの熱さは引いて、両手で持てばそれだけで体の奥から温もる感じがする。
コップに映る自分の顔を見てみようとしても、水面が揺れて全く見られない。
上手くいかないものだと、白湯を口に含んでゆっくり飲み込む。
じんわりと、飲み込んだ白湯が僕の体を温めてくれる。
それだけだが、今の僕にとってはそれだけでいい。
それに、時間が経つにつれて、頭がボーっとしてきた。考えていることも全くもってまとまらない。
もう今日一日くらい、ここで泊まらせてもらおうかな。




