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アレックス兄さんと文通をして一つ分かった事がある。
あの人は、通運の事務所にほとんど戻っていないし、来てすらない。
それは、返事が来た手紙の中にも書いてあった。
自分が興した商会なのにね。
アレックス兄さんが真面目に通運の事務所にいたのは、最初の二、三年だけらしい。この数年間は、ほとんどの業務を伝言で済ましていたとアンナさんから聞いた。
マリーさんとも、アレックス兄さんの事を話したが、彼女はそもそもアレックス兄さんを見た事がないと言う。それを聞いて、僕は驚きよりも呆れた。
自由にやりたいとかの話ではない。子どもの我が儘くらいの話だ。
普通の商会なら、入会する前に面談くらいするものだが、それすらしていないという。
マリーさんにどう反応していいか分からなかった。
放置書類の事を知らないし、たくさんの苦情があることも知らなかったまま、アレックス兄さんはこの国を出て暢気に隠れている。
そのことを知ってしまうと、何も知らずに見合い相手と暮らしている彼を応援していた過去の自分を、殴り飛ばしたくもなった。
エリー姉さんに殴られてもいいくらいだ。
過去の自分に後悔しかないまま、今日も書類をペラペラとめくっては仕分けていく。手伝い始めて六十日は経っていると思う。
今、会議室には僕とアンナさんとマリーさんの、三人が書類をめくる音だけが響いている。
それに近頃は悩みも出てきた。下を向いて作業しているせいか、猫背になりつつある。
子どもの頃から背筋を伸ばして生きていた僕が、今では背中を丸めるとは。情けない。
「ファビオさん、苦情関係の整理終わったので商会に持って行きます」
「お願いしまーす」
マリーさんが、会議室から出て行く。
商会まで持って行く仕事、代わってくれないかな。僕も外の空気が吸いたい。
近頃寒くなって、窓を一日中閉めているせいか、部屋の空気が悪く感じる。
お茶の香りではごまかせないくらいに。
「ファビオ君、これ決裁の書類ね」
「あぁ、ありがとうございます」
マリーさんが部屋から出てすぐ、アンナさんが僕の方に書類を持ってくる。
両手で抱えて首くらいまで積んでいる書類を見て、またこの量か。と気が遠くなった。
「私、受付に戻るから。あとのことよろしくね」
と言って彼女は、近くの机に抱えていた書類を置く。ドン。と重たい音が響けば、「きっついわぁ」と言ってアンナさんは肩を回した。
回した肩から、パキパキッ。と音が鳴るが、毎回のことだ。僕もからかう気が失せている。
「分かりました。また、警備員に伝えてもらってもいいですか? 今日も遅くなるって」
「それくらいなら、自分で話したら。外の空気でも吸いながらさ」
会議室から出ようとするアンナさんに、いつもと同じように警備員に伝えてもらおうと思って話した。
まさか彼女から、そんな事を提案されるとは思わなかった。
「いいんですか?」
「強制労働じゃないでしょ。それくらいで、こんな量の書類がどうなる訳でもないでしょ」
……確かに一日二日で終わる量ではない。
最初の会議室の分で、新規受付分は商会が負担してくれていたにも関わらず、四十日以上かかっている。
通運で受付を再開してからというものの、毎日上がっている大量の新しい書類から片付けているから、貯まっている書類を整理出来ていない。
それに加えて、新しい書類にすら追いつけないくらい毎日が忙しい。
「……じゃあ、そうします」
「いいんじゃない? たまには抜けても誰も怒らないでしょ。勤務態度次第だけど」
勤務態度って、もうそんな事言ったって気にしてられないし、気にしたところで役にも立たない。
出張から戻ってきたビクター兄さんに、一応は相談したけどやっぱり給金は出ないことになったのだ。
「少し散歩してきますよ。気分転換に」
「了解。窓、閉まってるか確認だけしておいてね」
そう言って、会議室から出て行くアンナさん。
彼女の言った通り、一度外に出るか。あまり今日の作業も進んでいないし。
一息ついて、お茶を飲もうとコップを手に持つが、「もう残ってないじゃん」持ったコップは軽く、そこには茶渋がついていた。
「ちょうどいいか」
呟いて立ち上がる。
山積みになっている書類の山から目を背けて、確認ながら窓の外を見る。外壁の向こうから夕焼けが差し込んでいた。
「もう夜じゃん」
昼休憩が終わってから、ずっと仕分けと決裁印を押していたから気がつかなかった。
それにしても、日に日に作業の進みが遅くなっている気がするが、それでもしないよりかはいいことだ。
アンナさんに窓の施錠を確認しておいてと言われたから見ているけど、全部の窓はしっかりと施錠されていた。
ゼクラット書店から羽織ってきた厚手の上着を、もう一度羽織って敷地の外に出る。
手を擦っている警備員に声をかけた。
「今日も、夜遅くまで仕事がありますので」
「了解です。夜間の方に伝言しておきます」
寒そうにしている警備員は、それでも僕に優しく応じてくれた。
大きな鉄門を見れば、昼休憩前後は肩が当たりそうなほど人通りが多かったこの場所も、夕方には疎らになっていた。皆寒いのだろう。
夕焼けの光が反射する鉄門を軽く触ると、冷たい。もうすぐ冬だ。
敷地の外の通りを歩いている人の服装を見ても、僕と同じような格好をしてそそくさと歩いていた。
「気分転換にはなるけど、もうちょっと早い時間の方がよかったかな」
一人呟いて、大きな鉄門を抜けて敷地に入る。
鉄門と外壁の陰に入れば、さっきよりも冷たい空気が僕の頬を刺す。
吐く息はまだ、白くはならない。だけれど、顔が赤くなる感覚はすでにあった。
通運の事務所に戻ろう。こんな季節では、この時間で散歩なんてしてられない。
「あれ、ファビオさん?」
後ろから、僕の名前を呼ばれた。
懐に手を入れつつ、億劫ではあったけど振り向く。
声で誰かは分かったが、振り向いた先の人の格好に本当に彼女か不安になった。
「あぁ、ディオネ。どうしたの?」
「どうしたって、ファビオさんこそ」
僕がどうしたって、別にない。
彼女の方こそどうしたのか。今日は既に学園の講義は終わっているはずだ。
それに、上着を何枚も着込んでいるけど、そこまで着てしまうと暑くないか?
体のシルエットなんて分からないくらいに丸くなっているし、スカートの下に着ているズボンだって、見るからに重ねている。
首元まで完全防寒のような出で立ちに頭にはなにも着けていないのが、違和感すらあった。
「なんでこんな時間に? それも結構着込んでるけど?」
「書店に行ってたんです。原稿の確認をしたくて」
そう言う彼女は、着込んでいる上着に手を入れて、モゾモゾと探し始めた。原稿を探しているのだろうか。そんなに着込んでいるなら時間がかかりそうだ。
ディオネは書店に行っていたのか。だったら今は閉めているから無駄足だ。だって、マイケルが休暇をとって店番をできる人間がいない。
マイケルが休暇を取ることは、もちろんカーラさんにも相談した結果。今、ゼクラット書店は臨時休業中だ。
「いいよ。今出さなくても。外だし」
「え? でも、ファビオさん読みたがると思って」
探すことを止めた彼女は、おかしなものを見るように僕を見る。
確かに、読みたいのは山々だけど、それよりもまずは通運の仕事が先だ。
「今度、商会の方に行くから。ダルダラさんに預かってもらってもいい? 取りに行くから」
「……いいですけど。大丈夫ですか? 目元のクマが酷いんですけど」
中々に答えにくい事を言われた。
水桶に映る自分の顔は、毎日確認しているから僕が一番分かっている。
仕方ないじゃないか。寝られてないんだから。
「ちょっとというか、結構大変でさ。仕方ないよ」
「仕方ないって……」
呟いて、その後の言葉を言いよどむディオネに、あまり突っ込まれた話はされたくなかった。
それに、こんな場所で立ち止まったままでは、寒さにやられてしまいそうだった。
「商会まで付き添うよ。それでそっちはどうなの? 単位のこと」
「ありがとうございます。単位のことは……」
鉄門の近くから商会まではそんな距離はない。
付き添うと言っても、そんな時間はかからない。これくらいなら仕事に影響はない。
「単位は順調ですよ。あと三単位必要ですけど」
「へぇ、十単位から三単位まで減らしたんだ。頑張ってるね」
「地頭はいいので、集中すればこれくらいは」
横を歩くディオネは嬉しそうに話す。
今年度の必要単位と合わせて取っているのだから、相当に時間はない中で結構な事だ。
それに加えて原稿も書いているとは恐れ入る。
学園で見かけた暗い雰囲気も、彼女なりに頑張っている証拠だとしたら、陰ながら応援したい。近づきたくはないけど。
ディオネとくだらない学園の話と学園で見かけたエリー姉さんの話をしていれば、すぐに商会の玄関まで着いた。
まだ、夕焼けは残っているが玄関を照らす照明は点いている。
商会はまだ受付時間中らしく、建物の中から微かに人の声が聞こえた。
本来の商会の業務に戻って時間は経っているけど、ここはいつも忙しそうにしている。
連れて戻ってきたディオネに「じゃあ、また今度」と言って横にいる彼女を見れば、彼女は僕を見ていた。
「ファビオさんも頑張ってますよね」
「……まあね」
真剣そうな目で僕を見るディオネに、少し照れくさくなって目を逸らす。
さっきまでの話と温度差がまるで違った。
「けど、まさか書店を休業しているとは思いませんでした」
「……仕方ないよ。店番する人いないし」
「じゃあ、私がしますよ。セイラとレイラを連れて」
少し怒っているのか? 言葉尻が強くなるディオネは続ける。
「単位の事も目処がつきましたし、カーラさんを説得すれば問題ない――」
「説得できればね」
彼女の話を遮った。
カーラさんを説得すればというけど、そもそも彼女の単位は彼女の怠慢による結果だ。
カーラさんは念書通りに、単位を取り直せるまで書店の業務というか作家業はさせないだろう。
もし、ディオネがそれを分かっていなくて僕に言ってるとしたら間違っている。
僕には、ディオネのそれをどうにかする事はできない。
「それじゃあね。僕戻るから。ダルダラさんによろしく言っといて」
「……はい」
押し黙ったディオネに別れを告げて通運の事務所に戻る。
暗くなり始めた敷地をそそくさと歩き始めれば、後ろの商会の扉が開いたようで、僕の影を地面に写した。
猫背になっているせいで、影すらみすぼらしく見えた。




