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仕事から逃げる一人のせいで、他の人が割を食うなんてよくある話だ。
ライフアリー商会は大きい商会だから、そんな話は数え切れないほどある。
今日だって朝まで職員の愚痴話を聞いていたくらいだし。
でも、僕が割を食う側になったのは初めてかもしれない。
どちらかと言えば、僕は仕事から逃げる側だから。
「それでね。……って聞いてる?」
「えっ。あ、聞いてますよ」
ビクター兄さんから通運の業務について教えてもらっているが、あまり分かっていない。
『提出された書類に目を通して判子を押すだけ』とアレックス兄さんが言ったことを信じていたから気も抜けていた。
正直、今も夢の中かと思っている。
「ビクターさん、これはファビオ坊ちゃんには厳しいと思いますけど」
「……それでも、ファビオにやってもらわないと」
書類を整理しているゾトーさんが、不満げにビクター兄さんと話す。
ビクター兄さんは書類を見たまま答える。
ゾトーさんの言うとおりだ。
僕が、会議室のこの現実離れした量の書類をどうこう出来るわけない。
それだけは自信を持って言える。
「そうですかね、アレックスさんを探す方が早いと思うんですけど。捜索隊出してるんですよね」
「アレックス兄さんなら、見合いのこととか諸々の問題が終わらないと帰ってこないかもね」
僕も帰ってこないと思う。
あれほど自由で自分勝手な人だ。
どこかに隠し小屋とか、それ用の家を持っていても驚かない。
「一番厄介なのは乗馬がとてつもなく上手いからね。昨日の夜、馬で走り去る所を職員が見たらしいし」
朝までゼクラット書店に居た職員もその捜索隊の一人か。
やっぱり、アレックス兄さんはちゃんと考えていたんだ。逃げることをだけど。
「だからってこの量はないですよ。繁忙期丸々ため込んだようなものじゃないですか」
「仕方ないよ。逃げる前の日に取引先に『当面の間、全ての商談を受け付ける』って通達を出しちゃったんだよ。おかげで申し込みが殺到したらしくて、決裁待ちの書類が――」
「この有様さ」
と顔を上げるビクター兄さんはため息をつく。その手はまだ書類の上にある。
「全ての商談って、運送とかのですか?」
「そうだよ。決まった取引先だけじゃなくて見ず知らずの商会とも仕事しますよってことだよ」
つまり、アレックス兄さんが不在の間に通運の仕事を、ビクター兄さんに全部押し付けようと逃げたのか。
そんな話、昨日は話してくれなかった。
けど、次期商会長を譲った話にどこか似ている。
書類を見てはため息をつくゾトーさんに比べて、目の前のビクター兄さんはいくらか冷静に見えた。
「ビクター兄さんはそこまで落ち込んでるように見えないですけど」
「うん? まぁ、気になったから夜に見に来たんだよ」
「そうなんですね」と返すけど、いささか気分の高いビクター兄さんを見ていると昨日から寝ていないようだ。
夜に何があったか聞きたくない。聞いたところで僕にはどうすることもできないし終わった事だから。
商会の話でも聞いておくか。
「じゃあ、商会の方も忙しいそうですけど、なにかあったんですか?」
「それは、朝一から通運に押し寄せたんだよ。すごかったんだからね、鉄門が揺れたくらいだよ」
商会の一階にいた人たちが通運の事務所に。
アレックス兄さんの通達のせいだと思うけど、そこまでかな?
色んな物を運んでいるから取引先は多そうだし。
「よく分かってなさそうだね」
「まぁ、商談を受け付けるだけであんな人来ます?」
「ファビオはこの書類をなんだと思う?」
そう言って僕の方に書類を渡す。
『配送時間の大幅な遅れについて』と『商会員による盗難について』の二枚。
めくれば、被害内容と損害について、責任の所在を問う文章が所狭しと書いてある。
「これって……苦情ですよね?」
「そう、アレックス兄さんで止まったままの苦情。それ以外もいっぱいあるよ『道路整備工事の遅延と騒音』とか」
「元々、新規受付とか苦情とか諸々が放置されたままだったから。ここまで整理しただけでも仕事した気になるね」
「まさか、この量全部がですか?」
何が決裁印を押すだけだよ。
「それはないよ。ただ、苦情の書類も紛れてはいるけど」と続けて「これからまだ増えるけどね」と肩を落とす。
ビクター兄さんの言ったことがよく分からなかった。
この量の書類だけじゃなくてまだ増えるって、どういうことなん――あぁ、商談を受け付けるってそういうことか。
通運の仕事を一杯一杯にしてアレックス兄さんのことを探すより、僕たちが商会の仕事に忙殺されるように仕向けたのだ。
なんて計算高い悪知恵が働くのだろうか。アレックス兄さんの清々しそうな昨日の事を思い返せば、その大胆さというか思い切りの良さに怖くなる。
ビクター兄さんは積み上がっている書類を一枚ずつめくった。
後ろの方ではゾトーさんが「これは苦情か」と書類を見て項垂れている。
「大方の苦情の対応は職員にさせているから。ファビオが対応する必要はないから」
そう言って、書類をめくる手を止めて、ビクター兄さんが僕の肩を掴んだ。
力強く掴んで離そうとしない。
「痛いんですけど」と彼に言うが、「けど、よく来てくれたよ」と僕に笑顔を見せるビクター兄さん。
ただ、その目は全然笑っていない。
「アレックス兄さんが、ゼクラット書店にいたこと。報告は上がっているからね」と掴む力が強まる。
引き離そうと僕も、ビクター兄さんの腕を持つがびくともしない。
そこまで知っていたのか。
「手伝いに来たんでしょ? アレックス兄さんに頼まれて」
「そうですけど、とりあえず手を離してくれます?」
「あぁ、ごめん」と僕の肩から、彼はすぐに手を離した。
「どうせ、僕が来ないと思ったんでしょ?」
「だって、こんなことしたくないでしょ」
僕の事をよく分かっているじゃないか。
でも、今回はアレックス兄さんのことを内心は応援しているからね。
あの自由さと自分勝手さに、今回のような計算高い悪知恵は勘弁して欲しいけど。
「手伝いますよ。アレックス兄さんのお願いですから」と続けて、「僕に出来ること少ないですけど」と肩をすくめてビクター兄さんに答える。
「それでもありがたいよ。頼りにしてるからね」
ビクター兄さんから、頼りにしてると言われるとは。
一昨日の条件の事は、今は一旦忘れて説明を聞こう。
でも、苦情とか諸々もしんどい仕事は無理だよ。あくまでお手伝いだからね。
* * *
これから僕がする通運のお手伝いについて、ビクター兄さんから説明を受けていれば昼を回った。
まだまだ続きそうな仕事の説明に、突然通運に来たカーラさんが「もう戻ってくださいよ!」とビクター兄さんを引っ張って、そこでお終いとなった。
「今日はもういいから、明日からよろしくね」と腕を捕まれて商会に戻っていくビクター兄さんが僕に言って「ちょっとカーラさん、一人で歩けますって」と連れられて歩くカーラさんと言い合いながら帰っていった。
横で地道に整理していたゾトーさんも、「坊ちゃん、ビクターさんの言う通り今日はここでお終いですね」と言って背筋を伸ばして彼も商会に戻っていく。
朝から続いた仕事の説明をなんとなくで理解は出来たけど、やっぱり寝不足のせいで頭が回らない。
夢心地の感覚に包まれたまま、気がついたらゼクラット書店の玄関扉を開けていた。
「あれ? 案外早かったじゃん」
客がいない店内で、マイケルが一人カウンターに頬杖をついていた。
僕の方を見て少し驚いた表情をしている。
「職員の人は?」
と聞けば肩をすくめて大げさに困った表情をした。
「なんか商会が大変お忙しいようだったので、当分は来ないみたい」
と困った表情を変えて笑顔になる。
「僕は一人で清々しいけどね」
商会の人だかりの事を思い返せば、職員が来ないことも理解できる。
来ないというより来られない。
そもそも、カーラさんの提案でここを手伝ってくれているだけだから、当てにするのは申し訳ない。
「明日から一人で店番になるけど大丈夫です?」
「今日の来店は朝に一人だけだし、余裕」
と言って、マイケルはもう一度頬杖を突く。彼のなんとも言えないその顔に軽く苛立ちが募った。
寝不足で気も短くなっているからか、一度深呼吸をして苛立ちを落ち着かせる。
店内を歩いて進めば、まだ『深窓の令嬢の知られざる本性』の陳列が多く、朝見た時から変わっていない。
「そうですか。だったら明日からお願いしますね」
「いいよ。別に」
と言って欠伸をしたマイケルは、頬杖から両手を頭に乗せて鼻歌を口ずさむ。
暇そうにしている彼を見ていれば、当分はマイケル一人でも充分できそうだった。
「けど、通運の仕事は大丈夫なの?」
カウンターの椅子に座るマイケルとすれ違えば、彼は僕の方に振り向いて尋ねる。
「仕事の説明でしたから今日はこんなものですよ? それがどうかしました?」
そう返して「聞いてみただけ」と彼はまたカウンターに頬杖をついて外を眺める。
さすがに朝から立ち続けていたせいか、書店に着いてから足の疲労感が限界を迎えつつあった。
少しぼやける目を擦って、「僕、休憩室で休みますから」と鼻歌を口ずさむマイケルに言えば「店仕舞いする時は声かけるね」と手を振った。
「分かりました。お願いします」と返してそのまま休憩室に入れば、椅子に座った後の記憶はなかった。
肩を揺らされて、「僕帰りたいんだけどー」とマイケルの声が聞こえる。
頬を叩かれて、「本当、寝過ぎだって」と彼に言われて目が覚めた。
不満げに声をかけるマイケルは、「勘弁してよ」と嫌々ながら僕の肩を揺らしては頬を軽く叩き続ける。
いい加減鬱陶しかったから目を開ければ、机に突っ伏していたようで、体を起こして目を擦る。
「やっと起きたよ、本当寝過ぎだって」と横でため息をつくマイケルの事は置いて、休憩室の窓から外を見れば既に暗い。
霞む目もようやく開いて腕を見れば、赤くなっている。僕は腕を枕に寝ていたみたいだ。
「すみません。どれだけ寝てました?」とマイケルに聞けば「もう店仕舞いの時間」と言って水桶からコップに注いで僕の前に置いた。
マイケルは帰り支度を済ませたのか、私物の鞄を背負っている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして、じゃあ僕帰るからね。売上確認よろしく」と休憩室から出て行くマイケル。
渇いた喉にコップの水を流し込んで一気に飲み干す。
一息ついて、ようやく頭が回り出した。
書店に戻ってきた時よりもすっきりとした頭で、さっきのマイケルの言葉を思い返す。
そうか、売上確認を残したまま帰ったのか。
「いや、売上確認までするのが店仕舞いだろ」
呟いても、一人だけの休憩室に響くだけだった。




