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夕食も終わって、僕らは水で濡らした麻の布で体を拭いた。
届きにくい背中を、最後に代わりながら拭きあえば、「社交会の時に父上たちと話したって言いましたけど、二人はどうだったんですか?」と夕食の続きを聞いてみる。
拭き終わったアレックス兄さんは、「はじめてボロカスに怒られたよ。二人に」と苦笑いを浮かべる。
そうだろうな。としか思わない。
誰だって、お披露目の社交会で主役が「次期商会長は辞退します。僕の代わりに、弟を推薦します」とか言われたら怒るに決まってる。
「そうでしょうね。だって、後継者として――」
「分かってはいるんだよ俺も」と服を着て、「それに、何回も言うけどビクターの方が向いてるって思ってたし」
その思っている事が、僕には分からない。だけど、僕に微笑むアレックス兄さんを見ていると、……まぁ、もういいかな。
僕が困ることでもないし。
着替えも終わって、アレックス兄さんと濡れた布を片付ければ、「後悔はしてないよ。間違えてなくてさ」と昼間に着ていた僕の服を渡してくれた。
アレックス兄さんも満足してるようだし、ビクター兄さんが次期商会長になって良かった。としておこう。
道を照らす明かりは消えて、窓の外からは家の明かりがちらほらと見えるだけだった。
改めて、アレックス兄さんと食卓に座ってお茶を淹れれば、「いいよ。そこまでしなくても」とアレックス兄さんも椅子に座った。
「良かったよ。昨日より元気そうで、あの時はどこか迷ってるみたいだったよね」
「迷ってる? 僕がですか?」
迷ってはいない。と思う。
ただ二人に話した返済の話に、お願いした僕自身がそれでいいのか。不安だっただけ。
その不安を目の前の彼は迷いと受け取っていたのあれば、確かに僕は迷っていた。
少しお茶を淹れすぎたコップをアレックス兄さんに、「お茶淹れすぎたんで一緒に飲んでください」と渡せば、「この一杯だけでいいよ」と受け取って飲んでくれた。
「商会で話した時はね。どこか他人事みたいな感じだし」とアレックス兄さんは言って、「でもよかったよ」とコップを置いた。
僕も一緒にお茶を飲むが、いつも通りの薄い味だ。
ただ、心が軽くなったというか、やることが明確になったから覚悟が決まった気もしている。
「まぁ、相談に乗ってもらったりしたからですかね」
「良いことだよ。相談できる相手っていうのはさ、力を持つほど貴重な人だから」とお茶を飲みきって、「これからも大事にしなよ」と立ち上がろうとする。
もう少し話したくて「まだあるんで、もう一杯」とアレックス兄さんのコップにもう一度お茶を注げば、「もう充分なんだけどなぁ」と呟いて座り直した。
「アレックス兄さんの相談できる相手って、ちなみに誰ですか?」
「うん? もちろん家族だよ。だから、ここから離れたくもないしね」
自由になりたいって言ったばかりだけどね。
家族と離れたくないけど自由になりたいとは、アレックス兄さんも中々に、我が儘だな。
「自由になりたいって言っておいてさ、家族が恋しいなんて馬鹿みたいだろ?」
「……そうは思いませんけど」
アレックス兄さんのことを馬鹿だなんて、そんな事は思ったことない。
我が儘だなって今思ったけど。
「いいって、俺がこんな話を聞いたら馬鹿で我が儘だなって思うし」
あれ? 僕の心の声が聞こえてないか? 大丈夫かな。
変なこと考えないようにしよう。
「自分勝手だって、迷惑だって、言われても譲れないものは譲れないし」
とコップに手を添えたまま、僕を見る。
「だけど、現実を見ないといけない事も分かってたから、自分好みの商会を立ち上げたんだよ」
良いことを言っているようだけど、どうして通運を立ち上げる話になるのか。
話が飛躍してませんか?
「じゃあ、アレックス兄さんの自由のためにライフアリー通運を?」
「そう」
ダメだ。もう分からない。
自由に生きたいんだったら旅をしたら良いし、家族が恋しかったら――。
あぁ、そうか。
通運を立ち上げた理由って、「アレックス兄さんは、自分勝手で我が儘ですね」とお茶を飲む彼に言う。
「え? そうだけど?」
当たり前だと言いたげに、コップを置いてアレックス兄さんは笑った。僕もつられて笑う。
確かにアレックス兄さんは、自分勝手で我が儘だ。
自由になりたいから、どこでも行ける仕事をする。
家族が恋しいから、家族のそばにいておきたい。
その両方の願いを叶えられたのが、アレックス兄さんが開業したライフアリー通運だ。
二階での楽しい話も終わって、一階の書店の玄関を開けた。
既に他の家の明かりも消えて、月の明かりが仄かに外を照らしていた。
アレックス兄さんが言うには、すぐにでもこの町を出るらしい。
見合いをさせるために、父上と母上がどんな手を使ってくるのか分からないかららしいけど。
そもそも、見合いを飛ばすのがいけない。
「いきなりごめんね、ファビオ」と靴紐を整えてアレックス兄さんは僕に話す。
「全然良いですよ、色々お話できて楽しかったです」
楽しかったのは事実だ。
あんなに二人で話した事なんて近頃は全然なかったし、通運のこととかアレックス兄さん自身のことを聞けたのだ。
寝るまで本を読む退屈な毎日に比べたら有意義な時間だ。
「父さんと母さんが折れるまで隠れることにするよ。もちろん、見合いは飛ばすけどね!」
話を聞いていたら分かるけど、アレックス兄さんは一度決めたら頑固になるよね。
次期商会長の話もそう考えれば納得できる。
ビクター兄さんが可愛そうに思えるけど、昔の話だ。
背伸びをして、息を吐くアレックス兄さんを見て、思い出した事がある。
「あれ、僕への話って――」と僕が言い出せば、「あ! 忘れてた!」と手を叩いて僕に向いた。
「通運の仕事を俺がいない間でいいから、俺なしでも回せるようになるまで面倒見て欲しいんだ」
いきなりアレックス兄さんは何を言い出すんだ。
通運の仕事? 何をやってるのか全然分からないのに?
「仕事って何してるのかも分からないんですけど……」と思ったことをそのまま口に出して返すけど「座ってるだけだよ」と笑って返される。
そんなわけないだろ。
端から見てたら、働いている職員さんたちは結構忙しそうにしてるよ。
「大丈夫だって、基本的には座ってるだけだから。提出された書類に目を通して、判子を押すだけ。でも、ライフアリー家の敷地で商売するから、一応家族の誰かが決裁する形を取らないといけないんだよ。形式的なものだからさ、そんなに難しくないよ」
そんな矢継ぎ早に、言わないでくれ。
いつもなら横になっている時間だから、少し眠たいんだ。
それに、敷地の外にあるゼクラット書店の僕より、「それなら――」と僕が言おうとした事を、アレックス兄さんは遮って「エリーには頼めない」と否定した。
「あの子は、頑張って病気を抑えようとしている最中だ。それに他も、全員忙しい」
僕の両肩に手を置いて、「だから、ファビオ。君だけが頼りなんだ、この通りだ」と頭を下げられるけど、嫌だ。
何が嫌だって、アレックス兄さんの仕事をすれば、僕の不出来さを自覚してしまいそうで嫌なのだ。
書店で働いている僕が、いきなり通運の、それも聞いていたら決裁をする業務なんて出来るわけないだろ。
それにエリー姉さん。病気のことでアースコット教授の所に行ってるのか?
だったら当分、教授のところには行けないな。
エリー姉さんと、鉢合わせたら最悪だ。
「ダメかな?」と僕に聞いてくるアレックス兄さんは、頭を下げた。
その姿を見て一つ息を吐く。
「……一つ聞いてもいいですか?」
「一つでも何個でも聞くよ」
「そんなにはないから、一つだけ。自分の好きに生きて、大切な人に迷惑かけた時って、どう思いますか?」
この答えを聞いてから決めよう。
別に、学園も暇だしね。
「ごめんねとは思うよ。さすがに人としてね」と続けて、「大切な人に迷惑をかけたくない。でも、自分がかぶるのも嫌だ。ってなるんだったら、もう最後は一緒に迷惑をかかってもらうかな」
「一緒に……ですか」
「うん、一緒に」
「十の迷惑を一人が背負うより、五ずつの迷惑を二人で背負う方が楽じゃない?」
「でも、今回の迷惑は、僕にだけかかってません?」
彼は、僕の言葉に笑って「それは……時と場合によるかな」と首をかしげて返してくる。
「なんですかそれ」
僕に迷惑かけても、この場合はいいのか?
「ビクターには話してるからさ。明日、商会に顔を出せば分かってくれるよ」
アレックス兄さんが書店の扉を持って、話してくる。
ビクター兄さんにも、迷惑をかけているのか。僕が思っていたより、ずっと我が儘なのかもしれない。
どこからか僕の中のアレックス兄さん像が、崩れ出す音が聞こえる。でも、不思議と悲しくも寂しくもない。
目の前で肩を回す彼も、完璧じゃないのだ。
自分勝手で我が儘だけど、家族を大切に思っている。
矛盾しているけれど、それがアレックス兄さんなんだろう。
昔の僕なら、がっかりしていたかもしれないけど、なんだか今は、親しみやすくなったような気さえする。
まぁ、明日は出席が必要な講義はないから問題ないし。
とりあえず行くか。マイケルには悪いけど。
外で準備体操をしているアレックス兄さんに、「手紙を出してくれませんか。近況くらい、僕だけでも知っていていいですよね?」と聞いてみれば、「いいけど……考えておくよ」と後ろ向きな回答だった。
それは、絶対出さない感じの返事だな。
父上と母上から隠れると言っているから、相当に自信もありそうだけど、迷惑をかけられる僕ぐらいには、教えてくれてもいいだろ。
秘密を漏らさないよ。僕は。
もう一度背伸びをするアレックス兄さんに、「前向きに考えてくださいね」と念を押してみるが、「前向きにね」と返される。
そして、アレックス兄さんは商会とは逆の方向に歩き出す。
簡単に、はぐらかされた気もするがちゃんと言ったんだから、これで返事が来なかったら信用がないと思っておこう。
その時はビクター兄さんに、アレックス兄さんのことチクってやる。
「またね! ファビオ!」と小走りで走り出したアレックス兄さんに、僕は黙って手を振る。
書店の照明から漏れた光が、僕の影を伸ばしてアレックス兄さんに届く。
アレックス兄さん、夜中に大きな声は近所迷惑だよ。
それだけは時と場合もないからね。
さ、僕も寝るとしますか。もう暗すぎて外は怖いくらいだよ。
アレックス兄さんはよく、こんな暗い外で歩けるよね。
もう見えなくなったアレックス兄さんの後ろ姿に欠伸を漏らしながら書店の中に入ろうとすれば、商会の方から携帯用の松明を持って、ふらついている様子の人が見えた。
あぁ、あの時の孤児院の襲撃を知らせてくれた商会の職員か。
前みたいに書店に走ってくる赤い顔と、今にも倒れそうな息づかいは憶えている。
「そんな慌ててどうしました?」
「はぁ、はぁ、ファビオ坊ちゃん。アレックスさん来ました?」
息も絶え絶えに片手を膝について僕を見て口を開いた。
「あぁ、アレックス兄さんなら、僕に挨拶してどこかに行きましたよ。何があったんですか?」
「私もわからないんですけど、ザノアール商会長が、残っている職員かき集めて探し出せって」
父上、カンカンに怒ってそうだね。
ビクター兄さんがとばっちりをもらってそうで可愛そうになる。
だけど、明日からもっと、可愛そうなことになりそうだから今日はもう寝よう。
夜も遅い。
「はぁ……はぁ、ファビオ坊ちゃん。すみません、水。もらえませんか?」
「……分かりました。ちょっとくらいなら休んでもいいですよ」
今にも倒れそうな彼の顔を見ると、さすがに入れるしかない。
早く戻ってくれよ? 明日に備えたいんだから。




