豪商の末っ子と、能ある兄は姿を隠す。1
「ディオネちゃん? 話聞いてる?」
開いている書店の休憩室から聞こえるカーラさんの声に、部屋の前を通る足を止めた。
休憩室から見えないところで聞き耳を立てれば、ディオネの小さい声も聞こえてくる。
両手に持つインクの瓶や他の備品が、思いのほか重く僕の腕にのしかかる。
だけど、音を立てるのは憚れるような空気感が休憩室から漂っていて、荷物すら置けない。
「聞いてますよ、ちゃんと」
「……だったらいいけど」
ディオネが拗ねた様子で答えた。
何かあったのは確かだけど、今まで何もそんな問題なんてなかったから、気になってくる。
僕も中の様子が見られないから、二人の様子は分からないけど、カーラさんに怒られているのは分かる。
「でも、よく今まで隠せてたよね、私もびっくりしちゃったよ」
「……この話。誰から聞いたんですか?」
隠し事? とんでもない事でも隠してた?
ゼクラット書店の専属作家として、僕の想定よりも凄まじい活躍をしているディオネの一大事か。
「ダルダラさんよ」とカーラさんの声が聞こえて、「やっぱり」とディオネの観念したような声が聞こえる。
「それで? どうするの?」
「どうするって……考えないようにしてたんで」
途端に二人が息を吐く声が聞こえた。
そんな重大なことなの?
気になって仕方ないが、さっきからマイケルが急いだ様子で僕を探している声も聞こえてくる。
やむなく休憩室の前から二人に見えないよう、物陰に隠れながらマイケルのいる版画機の部屋まで歩いた。
「そんな大声ださなくとも――」
「やっときた! 遅いよ!」
マイケルに注意しようとすれば、部屋から血相を変えてマイケルが出てきた。
持っていたインク瓶をひったくるように掻っ攫って、版画機に補充し始める。
「急いでもタングリングの紙が届いてないんだから」と版画機を起動する彼に言えば、「届いたから急いでるんだよ!」と鬼気迫る顔で僕に返す。
そうなんだ。もう届いたんだ。でも早くない?
「昨日発注して、もうですか。早すぎません?」
「急いでくれたんだよ。僕らのためらしいけどね」
そんなことしなくともいいのに。ライアンさんに言っておかないといけないな。
タングリングの新興商会が発足して一年。発足当初からの得意先だとしても、ここまで優遇されるとむず痒くなる。
紙の事業を始めてからというものの、その成功ぶりは近年では特に目覚ましく、トレンティアの紙と同じ品質で圧倒的な安さを実現しているのだ。
まぁ、紙を作っている人がトレンティアでも有名な職人だったらしいから、その噂が広まったのも大きいと思うよ。
よくそんな有名人を引っ張って来られたよね。
ビクター兄さんの交渉術がすごいのかもしれない。僕には関係ないけど。
紙の売上金は、余すことなく領地の発展に使われるようで、植林も工場増設も現在進行中で未曾有の好景気らしい。
ライアンさんは、領地の発展が殊更に嬉しかったようで、学園でも色々と語られては時間を取られて仕方なかった。
ただ、版画機で印刷しているマイケルは、なぜ急ぐのだろうか。
昨日の内に今日の分として百部を刷ったばかりだ。今もそれくらい刷る勢いで版画機を稼働させている。
「そんなに刷ってもいいんです?」
「タングリングでも売りたいってさ! だからそれようだよ、これ」
マイケルは疲れた顔で買い付けの紙を見せてくる。
『深窓の令嬢の知られざる本性』百部の買い付け依頼分だ。
「もうこれはカーラさんが売ってるよ。……それで紙と差額のお金を今日もらったんだ」と言ってくるが、彼の顔には悲壮感すらあった。
まぁ、昨日のうちに仕事を終わらせたはずが、今日も同じ量をすることになるなんて普通は考えないか。
「頑張ってください」
「はぁ、こんな忙しくなるのは、さすがに予想してなかったよ」
僕もそう思う。
ディオネのデビュー作『深窓の令嬢の知られざる本性』は、ゼクラット書店初めての大ヒット作になった。
孤児院で書いた最初の本が、すでに社交場で話題に上がるくらいだから当然の結果と今では思う。
だけど、発売当初からひっきりなしに止まらなかった客足には、僕らも右往左往だったのだ。
あれほど閑古鳥が鳴いていた書店の中は、今は本を手に取って立ち読んでいる客が多数いる。
一時の忙しさに比べれば、少なくなった客数でもまだ書店に来てくれる人は多い。
マイケルは刷るのに忙しそうだったから、売り場に向かえばカウンターにはセイラちゃんとレイラちゃんが、二人並んで座っていた。
「あ! おかえりなさい!」とセイラちゃんが僕に気づいて口にすれば、レイラちゃんも一拍おいて「おかえりなさい」と僕に話した。
「店番ありがとうね」と返すと「楽しいからいいよ!」とセイラちゃんが答えてくれて、レイラちゃんも同調するように頷く。
二人と談笑していれば、客の一人が本を買うようで、彼女たちに会計を頼んだ。
見ての通り、結局二人はディオネの付き添いで、店を手伝い始めた。
特に、マイケルは反対していたけど、カーラさんが二人の技術力を見て決めたから彼の反対は押し切られたのだ。
ダルダラさんには確認したようで、ディオネの監視下でなら手伝っても問題ないと、条件付きだけど了承されて今に至っている。
まぁ、二人がいないと版画の出来も違う。
マイケルも同じくらいには版画を出来るようになったけど、僕は全然できない。
あのなんとか法のやり方がいまいち分からないのだ。良いものである事は間違いないけど。
「そうだ、休憩室に二人いるけどさ、何話してるの?」
客の対応を終えた二人に、気になってしょうがなかったディオネの事を聞いた。
今も話し合っているようだけど、休憩室の扉は閉まっている。
聞き耳を立てたのがバレたのかもしれない。
「えーっとね」とレイラちゃんがなにか言いたそうにモゾモゾして、「あたしはわかんないんだぁ」とセイラちゃんは床につかない足を揺らす。
「学園のたんい? が足らないんだって」
「ディオネが?」
僕の言葉に「そうみたい」と言って頷くレイラちゃんに、久しぶりに困った。
学園の単位が足らない事なんてあるか? 試験は比較的簡単なはずだけど。なんで?
「そ、そうなんだぁ、教えてくれてありがとうね」とレイラちゃんに言えば、「それって足らないとダメなの?」とセイラちゃんが聞いた。
まっすぐに僕を見つめるその目と、レイラちゃんも聞きたいようでチラチラと見てくる。
「うん、足らないとダメだよ。……足らないと――」
「ファビオ君。ちょっといい?」
二人になんて教えようか考えた矢先に、休憩室から顔を出したカーラさんが僕を呼ぶ。
「後で、また教えるよ」と二人に言えば、「分かった!」と返してくれた。
その純粋さが時には凶器になり得ることを、二人に知ってほしい気持ちもあるけど、今はいいや。
僕は関係ないし。
「今行きます」と休憩室から顔を出すカーラさんに返せば、聞こえたようで頷いて休憩室に戻った。
休憩室には対面で座る二人。
カーラさんは難しい顔をして腕を組んで、ディオネは俯いて前髪で表情を隠している。
「ファビオ君、座ってちょうだい」とカーラさんは、置いてあった椅子を僕に渡してくれる。
受け取った椅子を、二人の間に置いて座れば「ディオネちゃんのこと聞いた?」とカーラさんが僕に向いて切り出した。
ディオネは髪の隙間から僕を見ていたようで、彼女を見れば目があった。
「聞きましたよ」
ディオネが顔を上げる。「誰からですか!?」と僕に顔を近づける。
驚いた様子で顔を近づける彼女に、「休憩室から聞こえてたよ、扉開いてたし」と手で抑えて話す。
カウンターで店番をしてくれている二人の事は一応伏せた。
別に間違っていないから問題ない。
僕の話を聞いたディオネは諦めた表情をして、また俯く。
「じゃあ、話は早いわね。ディオネちゃんには必修単位を必ず取得する事を念書してもらいます」
念書まで書く必要があるのかは、よく状況を分かっていない僕が口を出す事でない。
カーラさんが決めたことだから、その言葉に僕とディオネが頷く。
カーラさんは「ちょっと紙取ってくるから、ファビオ君見張ってて」と立ち上がって休憩室から出ていった。
すこし一息をついて俯いたままのディオネを見れば、聞こえないくらい小さい声で何かを呟いている。
何言っているのか分からないが、ろくでもないことだろうと思ってそれ以上聞くことをやめた。
話を変えるついでに、気になっていた単位不足の事を、聞いてみることにした。
「必修単位、どれだけ足らないの? 二つくらい?」
「……十単位です」
十単位? それはそれは。想像していたより酷い。
それほど単位を取っていない学生は、聞いたことがない。
もう退学していてもおかしくないくらいだと思う。
「馬鹿なの?」
「勉強する暇がなかったんです。あと、馬鹿じゃないです」
俯いたまま話す彼女に「いやいや、馬鹿だよ」と返せば、黙ったまま睨んでくる。
「じゃあ、ファビオさんはどうなんです? 休学してたり、そもそも途中入学なんでしょ? 単位足りてるんですか?」
「足りてるよ、むしろ余ってるくらい」
「はぁ!?」と大きな声を出す彼女に「試験に合格すればもらえるんだから、余裕だよね」と煽るように話す。
少しにやついてしまうが、最近の横柄な態度の仕返しと思えば安いものだ。
十単位も取れていない彼女を見ていると、さっきまでの動揺も収まる。
取れてなさ過ぎて、面白いくらいだ。
ディオネと談笑というか、一方的にセコいとかズルいとか色々言われていれば、休憩室の外からツカツカと靴の音が鳴って扉が開いた。
その手には紙とペンをもっているカーラさんが戻ってきた。
「マイケル! あと追加で五十部ね!」
と休憩室の扉の外でカーラさんがマイケルに指示を出せば、そのまま椅子に勢いよく座った。
「とりあえず、正式な念書はここじゃ作れないから」
と続けて、カーラさんは持ってきた紙とペンをずっと僕を睨んでいるディオネに渡せば、「この念書は仮の念書だけどダルダラさんにも渡すから」とディオネに向けて笑顔で話す。
その顔には少し呆れも見えて乾いた笑い声も聞こえた。
「ファビオ君にも伝えておくけどね」
ディオネが念書を受け取ってから、カーラさんが僕の方を向いた。
「ディオネちゃんは今日から、単位取得が終わるまで作家業を休止します」
カーラさんの言葉に、横で念書を見ていたディオネからため息が聞こえた。
いきなりの休止宣言に、「えぇっと、続編とか色々の予定はどうなるんです?」と近々の締め切りを予定していた『深窓の令嬢の知られざる本性』の続編のことをカーラさんに聞く。
「それも延期、ディオネちゃんに関する諸々は例外なく延期よ」
とても冷静な声色でカーラさんは僕に応じた。
ディオネが確認し終わって名前を書いた念書を、カーラさんに渡す。
書き終わった紙を見て「じゃあ、今日はこれで」と続けた。
「ファビオ君、今から私たち勉強の時間だから店番よろしく」
カーラさんは僕に用がなくなったみたいで、手で扉の方を指差す。
何も言い返すことが出来ない僕は、彼女に言われるがまま休憩室から出た。
カウンターでは、マイケルとセイラちゃんとレイラちゃんの三人が、楽しそうに話している姿が見える。
いいなぁ、悩み事なさそうで。僕も悩み事なかったはずなんだけど、今特大の悩み事ができちゃった。




