豪商の末っ子は、背に腹は代えられない。23
昨日のディオネとの契約で、やらないといけない仕事は一通り終わった。
思えば、エリー姉さんに殴られた夜から結構な日数が経つが、一昨日のことのように感じられる。乱闘騒ぎも昨日のことのようだ。
平和な日常が突然、仰天するような非日常になった。
僕が本を書いてもいいかもしれない。文才はないけど。
学園の講義も今日の分は終わってすぐ、アースコット教授にディオネと専属契約したと報告もした。
驚いていた教授の顔をディオネにも見せてやりたかったけど、復学に向けて手続き中の彼女に伝えるだけにしておこう。
ビクター兄さんと会うために、商会の敷地へと三日ぶりに帰れば、荒れていた地面も、エリー姉さんが突き刺した剣で割れた地面もすっかり元に戻っていた。
以前のように、馬車も魔道車も止まっていて、乱闘があった日のことが嘘のようだった。
商会の建物を見上げれば、四階の窓に青色のインクで書いた落書きがある。
多分、孤児院の子どもの仕業だろうけど、夕日が当たってオレンジ色に見える建物には、その青色はとても浮いて見えてしまう。
伝統ある建物なのだから、もう少し丁寧に扱ってほしいと思うけど、子どもにそれを言っても伝わらないかな。
前と変わったところと言えば、警邏隊の人が商会の敷地を巡回している事くらいか。
まぁ、あれほどの乱闘があったわけだし、仕方がないか。
建物の中に入れば、窓口で職員がせわしなく来客に対応している。
包帯やガーゼを付けて対応している職員を見て、元に戻った外と比べてまだ乱闘の名残が残っていた。
声をかけるのも仕事の邪魔になるだろうし。そもそも忙しく仕事している職員に僕のことなど気にかけてくれる人もいない。
階段を使って目的地の三階まで上っていけば、途中で声が掛かる。下を見て階段を上がっていたから、上を見上げてその声の人を見た。
「ファビオ坊ちゃん、お久しぶりですね。ビクターさんなら執務室で坊ちゃんを待ってますよ」
「お久しぶりです、ゾトーさん。ビクター兄さん、待ってるんですか」
商会の窓口取締役のゾトーさんだ。
前に会ってから時間が経っていたので、忘れかけていた。
彼に「そういえば、前も同じように会いましたよね」と声を掛ければ「確かにそうですね」と笑って「色々とありましたけど、なんか昨日のように思い出しちゃいますよ」と返される。
「本当ですね、こんな日が続けばいいですね」
「えぇ、私達には拳よりも算盤が似合いますから」
ゾトーさんは、手に持っていた算盤を僕に見せる。
「でも、あの乱闘で算盤使っちゃいましたけどね」と角が削れたそれを見て笑う。
そうだった、この人。笑えない冗談を言って笑う人だった。
「じゃあ僕、会いに行きますよ」と言ってゾトーさんとすれ違えば「お気を付けて」と、階段を上がっていく僕に声をかけてくれる。
優しいはずの彼と喋っていると気が沈みそうになるから、今日は遠慮しておこう。
三階まで階段を上りきれば、上の階から子どもたちの楽しそうな声が聞こえる。静かな三階も今は賑やかにすら感じた。
この階にはいつも通りと言って良いのか、あまり人がいない。
少し息を整えてから、ビクター兄さんの執務室に向かった。
執務室の前に着けば、運良くカーラさんが真面目な顔をして執務室から出てくるところだった。
「あら、昨日振りね、ファビオ君」とカーラさんが僕に言えば、気づいたビクター兄さんが奥にある執務用の椅子に腰掛けて「入りなさい。ファビオ」と僕に声を掛けた。
「三日振りですね」と執務室に入る僕が言えば「あの日から三日しか経ってないのか」とうなだれて返すビクター兄さん。
「では、私はこれで」とカーラさんが扉を閉めた。
応対用の椅子に座って、書類がたくさん積まれている執務用の机の隙間から見えるビクター兄さんの姿をちゃんと見る。
連勤していたせいか、髪は所々にはねている。少したれた赤い目の周りには濃いクマができていた。
「寝てなさそうですね」
「そうだね、あの日から寝てないんだ」
ビクター兄さんから帰ってくる声の力は弱い。僕と話している時も、切れ間から見えるビクター兄さんは、書類を見ては何かを書いてを繰り返している。
「ファビオもディオネ嬢と契約できたんでしょ? 良かったね」
カーラさんから聞いたようだけど、昨日の今日ですぐに知るとはさすが次期商会長だ。
「ありがとうございます。おかげさまで――」
「でも赤字のことは忘れないでね、全ての決定権はカーラさんと私にあることも」
かぶせて僕に念を押すビクター兄さんに「分かってますよ、それくらい」と返して、僕の思い通りにできそうもない現状を笑ってごまかす。
ビクター兄さんは「それでね」と持っていたペンを置いて立ち上がる。
書類が積み上がっている机を避けて、僕の方に歩いてくれば、腰から下が寝間着だった。
「ビクター兄さん? 寝間着ですけど」と僕がビクター兄さんに言えば「そうだよ。帰っても書類はなくならないからね、ここで寝泊まりしてるよ」と柔やかに笑いかけてくる。
そんなビクター兄さんに笑い返せるはずもなく、引き攣る頬を我慢するだけだった。
「まぁ、ファビオの事だから、甘く考えているかもしてないけどね」
ビクター兄さんは、僕の前の椅子に座る。見える彼の赤い目は、エリー姉さんの目とは違って淡い。
僕を見つめるその目を不意にそらすと、「今回のことはね、ディオネ嬢が発端で、とんでもない量の大人が巻き込まれているんだよ。私もそうだけど、家族も商会もそれに町中の人もだ」
「ファビオは関係ないと思っていても、誰かは君もディオネ嬢と一緒に始めたことだと勘違いするかもしれない」
優しい声色で僕に聞かせるビクター兄さんは「だからね、ファビオも被害者だと僕らは外の連中に思わせないといけないから」と続ける。
ちょっと話の雲行きが怪しくなってくる。晴れ空に浮かぶ白い雲が突然雨雲に変わっていくような、そんな感じだ。
「ビ、ビクター兄さん? 結局何が言いたいんですか?」
「うん、私が言いたいことはね、カーラさんにも先ほど承認してもらったけど」
ビクター兄さんは、そう言って懐から一枚の紙を出して渡してくる。
よく見た形式の紙に、すぐ受け取って書いてあることを確認した。
「孤児院の建て替え費用、ゼクラット書店にも出してもらうよ」
「母上の孤児院でしょ!? 僕らは関係ないじゃないですか!」
あり得ない。書店と孤児院の関係はディオネのことくらいしかない。
それでお金を出せって言うのはどうなの?
「ファビオが瓦礫の撤去作業の報酬を出すと、見ず知らずの人に言ったからだろう。どれほどの出費だったか分かるかい? そこに書いている金額なんて可愛いものだ」
「何言ってるんですか! こっちが聞きたいですよ! こんな金額……」
何だよこれ、この金額って今のゼクラット書店の赤字額とおなじじゃないか。
「三千万ベント。赤字額に上乗せするから」
「勘弁してくださいよ」
ビクター兄さんは、僕に「カーラさんと決めたからファビオは聞き入れるしかできないよ」と答える。
「まぁ、ディオネ嬢の書いた本が売れればさ、返済できるよ。頑張ってね」
そう言って、椅子から立ち上がるビクター兄さん。
ビクター兄さんの言いたいことは、僕だけいい思いをしたらいけないってことか?
おじいさんに教えてもらったことわざに、こんな状況のたとえがあった気がする。
『切羽詰まった状況を突破するために、多少の犠牲はやむなく受け入れる』っていう意味は思い出せるんだけど。
「だったら、全部返済できたら! 絶対に! 経営権返してもらいますよ! いいですよね!」
「もちろんだよ。いつでもいいからね」
僕の言葉に、さも当然のように返すビクター兄さん。
その疲れた顔に似合わない馬鹿げた話に、久しぶりに歯ぎしりをしてしまう。
母上と父上にも僕から話しておこう。ビクター兄さんにいじめられてるって。
「あとね、この話は、母上も父上も賛同しているからね」
「もういいです! 話ってこのことですか!」
こういうところは抜け目ない人だ。ちゃんと周りから固めて最後に僕とは、取り上げられた時もこんな感じだったよ。
ビクター兄さんが「うん、話は終わり……」と仕事用の椅子に座って、何か思い出そうとしていた。
「そうそう、タングリング領の紙の件だけどね。トレンティアと合意できたからさ、そのうちデービッド様らとも話し合いするから」
ビクター兄さんは続けて「暇だったらファビオも参加してね」と言うだけ言って書類を読み始めた。
あぁ、そんなことあったね、そういえば。情報が多すぎてしんどいよ。
「帰ります」と執務室の扉を開ければ「またね」と僕の方など見ずに書類を片していくビクター兄さん。
深いため息と共に扉を閉めた。窓から見える外は、暗く聞こえていた子どもの声もいまは聞こえない。
ビクター兄さんとの話し合いの後、用の済んだ商会に長居することも嫌になってすぐに一階まで下りた。
忙しそうに仕事をしていた職員も、営業時間を過ぎたのか賑やかに帰り支度をしているのが目に映る。
気楽そうにしている職員を横目に、玄関の扉を開けた。
魔道具の照明に照らされる黒髪の女性が、商会の玄関口で立っていた。その光景に、目を見開く。
黒髪の女性は、赤いワンピースを身を包んでいた。腕を組んで仁王立ちをしている姿は荒ぶる神のごとく荒々しい。
下ろした黒髪、細い体躯の周りに揺らめくマナ。何より印象的なのは、僕を見つめる赤い瞳だ。獲物を確認した猟犬の様に輝いている。
うん、エリー姉さんがいる。だけど、とても会話できるような感じでもない。
何ごともまずは対話からと言うから、ダメ元でエリー姉さんに話しかけてみる。もしかしたら待っているのは僕じゃないかもしれないし。
「エリー姉さん。こんな時間にどうしたんです? ビクター兄さんなら――」
「黙れ、裏切り者」
裏切り者? 僕が? なんで?
ゆっくりと、確実に僕に歩み寄ってくるエリー姉さん。後ずさりをするが扉に背中が当たる。
「ね、姉さん? 裏切り者って何のこと? ねぇ、どうしてそんなに怒ってるの?」
「あんた。分かってないの?」
一つだけ心当たりはあるけど、それは僕のせいじゃないはず。
「乱闘騒ぎのことなら、僕関係ないでしょ」
「関係あるわよ!? しら切ったっていた証拠はあるのよ!」
エリー姉さんの声が玄関の扉に響く。
「待ってよ姉さん! 乱闘したのはエリー姉さんなんだし、めちゃくちゃにしたのもエリー姉さんじゃないか!」
「うるさい! 私の事をないがしろにして自分は知らんぷりするようなやつなんて裏切り者だ!」
「なんだよその超理論は! 悪いのはエリー姉さんだろ!」
やっぱり会話できない。エリー姉さんは「うるさい!」しか言わない人になっている。
エリー姉さんには、僕の言葉が通じないようで歩いてくる速度を速めて僕に右拳を振り上げて――。
玄関の扉を貫いた。僕の左側から、木の砕ける音と建物の中から「なんだぁ!」と職員の慌てる声が聞こえる。
「あぶな! また、死にかけても良いの!? 可愛い弟が!」
「うるさい! おとなしく殴られろ! 私と一緒にお前ももう一回休学にしてやる!」
エリー姉さんは、振り抜いた拳を扉から外して、逃げ出す僕を追いかけてくる。
「謹慎くらったんだろ!」と適当に言えば「だったら何よ! 悪いか!」と図星だったようで、走る速度を速めて僕に殴ってくるが、何とか寸でのところで躱す。
「エリー! やめなさい!」
「うるっさい!」
商会の建物からビクター兄さんの声がした。
エリー姉さんも聞こえたようだが、静止するように言うビクター兄さんに言い返して、そのまま僕を追ってくる。
商会の敷地を走り回って息を荒げる僕と、「裏切り者ぉ!」と僕をエリー姉さんを止める人はいない。
こんな状況で、おじいさんから教えてもらった例えを思い出した。
『背に腹は代えられない』
切迫した状況で多少の犠牲がどう、とかの例えのはずだけど、多少の犠牲が僕の生死に関わるのは絶対に違う。
「もうやめようよ!」
「お前がおとなしく殴られたらなぁ!」
商会からは子どもの声も聞こえるし、ちらっと眼鏡を掛けたディオネも見えた。
誰でもいいから! エリー姉さんを止めてくれ! 見世物じゃないぞ! 僕を殺しに掛かってるんだよ! この魔獣を早く止めてくれよぉ!
後書きを活動報告に投稿しました。
良かったらどうぞ。




