ナき声が絶えるまで
登場人物が全員必ず死に、強制的に完結させられた鬱小説『亡キ声ノ絶ヘル迄。』。
この悲劇の物語が始まった原因が、ティニ・ブラウンという人物だった。
彼女はブラウン伯爵家唯一の後継者であり、社交界でも清楚な人物として有名で、人気があった。
ところが、ティニの本性は清楚とは真反対だった。
彼女はとある森にある小屋で、一人の飼い犬を飼っていた。名前をギルという。
後にもう一度皇子になりそうだった、齢二十二の元皇子という肩書きを持った人間だ。
ティニは虐待のことを『ご褒美』と称し、あらゆる手段でギルを痛め付けた。なんでも、それが彼女の『愛情表現』なのだという。彼女には最愛の婚約者がいるにも関わらず。
そんなサイコパスな悪女に、この私が憑依してしまった。
私はティニというキャラクターが好きではなかった。物語の本物の主人公であると思っていたギルを虐待していただけならまだしも、度を超えてギルの両目を、ステーキ用のナイフで刺したから。
その所為で、ギルも皇宮で死ぬ羽目になった。目が見えていれば、暗殺者に殺されずに済んだだろうに……。
このまま行けば、この惨劇は回避できない。少なくとも、ティニ・ブラウンがいる限り。
ティニは、ギルの両目を刺した後、ショックで夢遊病を患ったギルに心臓を刺されて死亡。
ティニの両親は、娘の大逆罪により死刑。
ティニの婚約者は、ティニの死体を巡ってギルと争い、敗れて死亡。
元皇族だったギルは、権力争いの真っ只中の皇子達に暗殺者を送られて死亡。
ティニが起こしたたった一つの事件が連鎖となり、この後も登場人物達が次々に亡くなって行く。
「つまり私さえ居なければ、この物語が平和になるということ。ふっ、あはは……」
感情が全くこもっていない乾いた空笑いがしばらく続いた。こんな転生で冷静でいられるはずがなかった。
「神は、一体私にどんな恨みがあるというの?私が、どんな悪行を重ねたというの?」
当然の如く、誰も答えてはくれない。瞼にしょっぱい涙が溜まっては落ちて行く。
私が生き残るためには、ギルの独立、ブラウン伯爵家からの破門、婚約破棄の三つをクリアしなければいけない。
やることはちっぽけな丘よりも少ないが、そこまでの道のりは容易ではない。
「……はぁ。」
泣いてばかりでは何も進まない。ビショビショの顔を拭い、軽いドレスに着替え、顔が全て隠れる仮面を身に着け、馬車に乗り込み、小屋へ行く。
小説では一行すら使われていなかった平凡な身支度が、何行も何話も使われていた出来事よりも長い時間を要した。
小さな扉を開けると、そこには綺麗に手入れされた首輪をはめ、リードのような鎖で身動きを制限されているギルの姿があった。
ギルは私を見るなり、子犬のように鎖をピンと伸ばして極限まで近付いて来た。
「おかえりなさい!ご主人様!」
「……ただいま。」
私も近付いて、ギルの頭を撫でる。『亡キ声ノ絶ヘル迄。』の中で、一番不遇な扱いで、一番可哀想な男の子。純粋で、優しくて、騙されやすくて、愚かな子。
急に私がいなくなったら、この子は一体どうなってしまうのだろう。私の帰りを待ち続けて餓死をするのだろうか。正気に戻って、この小屋を抜け出し、野垂れ死ぬのだろうか。
どちらにしろ、ギルが良い未来を歩むことは無い。
「ご主人様、浮かない顔して……外で何か嫌なことでもあったのですか?」
「ううん、なんでもないわ。少し疲れているだけ。」
「じゃあ、今日は『ご褒美』は無しですか?」
「えぇ。そのつもりよ。明日にしてちょうだい。」
「せめて、今日は一緒に寝たいです。」
「そのくらいなら、大丈夫よ。」
寂しそうだったギルの表情が和らいだ。なんの感情も湧かない。ティニは、ギルを使って一体何をしようとしていたのだろう。
夜も更けて外は真っ暗になり、夕食を終えた私はベッドに潜り込んだ。ギルは床に座って掛け布団を枕にして眠る。
「ご主人様、手、繋いでほしいです。」
「……ギル、明日は私と一緒に街へ行きましょう。」
「街……。」
ギルの大きな手を握り、ひっそりと目を瞑った。
街でお金の使い方を教えて、いつか彼にいい感じの仕事場を提供する。赤の他人の私からの、少しばかりの償い。
目が覚めると、空は既に明るく、ギルも目を覚ましていた。
「おはようございます!ご主人様!」
「おはよう。街は昼食の後に行きましょ。」
「はい!」
午前中は指スマのような簡単に出来るゲームで遊び、昼食はギルが用意してくれた食べた。乾燥していて、人間が食べるものとは到底思えないほどの不味さだった。
ギルには首輪の代わりにチョーカーを着け、ローブを羽織って馬車に乗った。
ずらりと中世ヨーロッパの建物が立ち並ぶ城下街。お祭りのように賑わっていて、露店で様々な品物が売られている。
「買いたいものはなんでも買っていいわよ。これはお金。小さいものから順に、銅貨、銀貨、金貨。銅貨が一番価値が低く、金貨が一番価値があるわ。」
「……ありがとうございます。」
転生者の特典で、この世界のある程度の常識は脳内に強制インプットされている。
現代の現金に置き換えると、銅貨は百円、銀貨は千円、金貨は一万円に相当する。
ここでは現代よりも物価がかなり安いため、平民が金貨を使うことは滅多にない。
ギルが露店で一所懸命に買い物をしている時、私はこっそりと貧民街へ向かった。
街の隅にある小さな貧民街には、やせ細った子供たちがせっせと奴隷や薬物を売る光景が広がっていた。
「この軽い神経毒、一本いただくわ。」
銅貨三枚の神経毒に対して金貨を五枚払い、逃げるように急いで貧民街を後にした。
貧民街は治安が悪い。少しでも油断すれば、誘拐、死、レイプのどれかの被害に遭う。
日も暮れてきて、道を行き交う人が少なくなった。お金の使い方も教え尽くし、私達は漸く帰路に着いた。
嫌々ギルに首輪をはめて伯爵邸に帰ろうとしたその時、ギルが私のドレスを引っ張った。
「昨日と、約束が違いますよ。ご主人様。」
「え?」
「『ご褒美』は明日って、言っていたではないですか。」
「……そう、だったわね。じゃ、じゃあ、今、してあげるわ。」
ギルはにっぱりと微笑み、ウキウキしながら上半身の服を脱いだ。その光景が恐ろしくて仕方がない。
追い討ちをかけるように、背中や腕が服に隠れているところだけに大量の傷跡が残っていた。見るに堪えない。
虐待を続けるティニも、傷跡を誇らしげに見せつけているギルも、『亡キ声ノ絶ヘル迄。』の作者も、みんなみんな、狂っている。
「どうしました?ご主人様?」
「なんでも、ないわ。」
……初めてのことだった。しなやかで美しい鞭を握るのも、人に鞭を打つのも、人のリアルなうめき声を聞くのも、こんなに赤黒い血を見るのも……
――人が気絶する瞬間も、何もかもが初めてだった。
ギルをベッドに運んでできる限りの治療を施し、怖くなって素早く伯爵邸に戻った。
伯爵邸のティニの部屋に入ってから、明日に皇宮で皇太子の誕生日記念パーティーが開かれるという趣旨の手紙を見つけた。
「ティニ・ブラウン……。」
☆――☆
ふんわりとした黄色いドレスを身にまとい、侍女にこの顔面を引き立たせるメイクを施してもらう。
ドレスに神経毒とお金を隠し、フリルやリボンを大量に追加して誤魔化す。
こんな遠回りまでして婚約破棄と破門を同時に遂行しようとしている私に理解ができない。とっとと変装して、遠くまで逃げてしまえばいいのに。
そこそこの権力、そこそこの財産、そこそこの爵位、誰かに負けることも、覆ることもなかった社交界での地位と名誉。
他人の嫉妬すらもティニを輝かせる材料となった。それで、満足してしまえば良かったのに。
皇太子に毒を持って、破門と婚約破棄されたら変装して逃げようなんて、馬鹿げている。上手くいく保証など、どこにもないと言うのに。
「皇帝陛下、及び、皇太子殿下のご入場です!」
「「皇帝陛下、皇太子殿下にお目にかかります!」」
女の当主や貴族夫人や令嬢は重いスカートを持ち上げて腰を低くし、男の当主や貴族夫君や令息は胸に手を当てて頭を下げた。
本格的なパーティーが始まった。
あたかも当然かのように人々が私に群がってきて鬱陶しい。逃げても逃げてもしつこく追いかけてきて、毒を盛ることはおろか、皇太子に近づける気配すらも感じない。
自分のワインにさっと多量の毒を入れ、皇太子の近くへ行く。
「ご無沙汰しておりますわ。皇太子殿下。」
「ブラウン嬢!久しいな!」
「婚約者どのはどこに居るんだ?挨拶したいのだが……。」
「彼は体調が悪いようで……欠席しておりますの。」
「そうか、残念だな。」
皇太子もグラスを手に取り、私と強めに杯を交わした。グラスを傾け、重力で皇太子のグラスに毒入りワインを混入させた。
気付いていない様子で、中身が空になるまで飲み干した。違和感を感じたのか、手を唇に当てた。
「ん?なんか舌がヒリヒ――」
言い終わりそうで言い終わらなかったタイミングで全身の力が抜け、床に四つん這いに倒れた。
豪華に着飾ったギルを見ているようだ。ギルも、本来ならばこのような綺麗な洋服を身にまとっていたのだろうか。
辺りが急に騒がしくなった。みんなが一心に私を見つめている。
しばらくして、状況をある程度把握した皇帝が重たい口を開いた。
「……ティニ・ブラウンを地下牢に入れろ。」
護衛兵に腕を掴まれ、引き摺られながらパーティー会場を追い出され、牢屋に放り込まれた。
鉄格子は硬くて錆が目立つ。暗くてもベッドは冷たい上に平たく、まな板に寝ているかの様だった。
あとは婚約破棄と破門を待つだけ。
小説ではティニが死んだから、代わりとしてブラウン伯爵家の当主と夫人が処刑となった。
でも、今のティニは生きている。私が破門になれば、ティニを除く伯爵家一族が処刑されることは無いだろう。
これで良い。私が生き残り、『亡キ声ノ絶ヘル迄。』のナき声が絶えるならば、なんだって良い。
皇太子も死なない。致死性の毒では無いから。一生事件のモヤモヤが残るが、犠牲が出なかっただけマシだ。
『亡キ声ノ絶ヘル迄。』はティニのお陰で何百人もの死人が出たのだから。
「はあ……はは……」
ずっと憧れてきた漫画の中のキラキラの貴族令嬢には、私なんかではなれないみたいだ。
☆――☆
後日、正式に婚約破棄と破門が元父によって伝えられた。
長いようで短いこの物語も、そろそろ終わるようだ。
錆びた鉄格子を無理やりこじ開け、変装して外へ出た。
見張りが何人も居る割には、服と髪型を変えただけで脱獄出来るほど警備がお粗末だった。
この後は貴族が嫌いな地方で稼いで暮らそうと思う。お金も一ヶ月分の食費くらいの量を持ってきた。
別れの挨拶をしようと、ギルが居る小屋へ行った。
「ティニ……。」
前は「ご主人様!」と言って飛びついてきたのに、今日はベッドに座ってなんだか不機嫌な様子だ。
ギルの首輪を外し、私の今までの事を話した。すると、ギルは不気味な笑みを浮かべた。
「ティニ、実は最初から知っていました。」
「……え?」
「本物のご主人様は、どれだけ疲れていようとご褒美を怠るような御方ではありません。」
「でも、それは前例が無かっただけの可能性もあるわ。」
「……ご褒美は日課だった癖に、先日の鞭打ちはまるで初心者が扱うような手捌きで、とても痛かったです。」
「それは、ごめんなさい。」
「謝らないでください。偽物と分かっていながら、ご褒美を強要させた僕が悪いのですから。」
狂気に満ちたギルの瞳には、困り眉で涙目の私の姿が反射していた。
「……ギル」
「はい」
「私と一緒に来ない?人が少ない安全な地方へ。」
「もちろん。貴女と同じ世界にいるのなら、どんな手段を使っても追いかけますよ。」
「ありがとう。」
同情心が芽生え、運命が予定とは違う結末に変わろうとして行く。
道中で物乞いをしてお金を稼ぎながらも、なんとか目標の地方まで着くことが出来た。
地方では名前と身分を偽り、遠くから引っ越してきた普通の平民という設定でこれから暮らしていく。
静かな此処では、虫の鳴き声しか聞こえない。でも、自然と安心できる。
私がいなくなるから、もう悲劇が繰り返されることはない。死を呼ぶ亡き声も、不幸を呼ぶ泣き声も、もう聞こえてくることはない。
冗談でも笑えない転生先なのに、最後は望んでない方の幸せな人生にすることが出来た。
これはもしかしたら、努力をしない私に対する神様の戒め転生だったのかもしれない。もし違ったとしても、私は神様を恨むと同時に敬意を表することだろう。
ナき声は絶えた。ナき声が絶えるまで、私はよく頑張った。
さようなら、ティニ。サヨウナラ、物語。ありがとう、私。