女たちの策謀
大変お待たせいたしました。前話までストレス展開が続いたかと思いますが、ここからクライマックスに向け、いよいよサラーナたちのターンです。
父王を弑逆したボルドゥが新たなヒュンナグ王となって、一月あまりの後。東の大勢力ズーン族の王から、書状が届いた。
「先王が大事にしておられた宝騎を是非お譲り頂きたい、ですと!? なんと無礼な!」
「陛下! このような申し出など黙殺なされませ!」
ボルドゥから書状を見せられた側近たちが、口々に言う。
先王トゥマンが大切にしていた三宝騎のうち、月は何者かに盗み出された後ボルドゥの親衛隊の矢の的にされ、太陽は“御狩り”の時に主と運命を共にしたが、星はまだ健在で、今は新王の乗騎となっていた。
草原の民にとって、騎竜を贈るというのは最大限の好意の証。しかし、であるからこそ、さほど親しくもない相手に騎竜をねだるというのは、非常に厚かましいこと――さらに言うなら、挑発と受け取られても仕方のないこととされている。
ズーン王はボルドゥより十歳ほど年長で、父親の戦死に伴って王位を継いでより十数年、近隣の小部族を斬り従え勢力を拡大してきた中々の戦上手だ。それもあって、まだ若いボルドゥを侮り、挑発を仕掛けてきたのだろう。
いきり立つ家臣たちを穏やかに宥め、ボルドゥは言った。
「隣国との友好は何物にも勝る宝。騎竜の一頭や二頭、惜しむに足りぬ」
その言葉に、家臣たちは不満と失望をにじませたが、ボルドゥの穏やかな笑みのうちに光る白刃の如き眼光に射すくめられ、不満を胸中深く飲み込んだのだった。
「で、結局オドはズーン王にくれてやったのか?」
“御座”にて、ションホルがドルジに尋ねる。何食わぬ顔で新王に仕えているドルジ、あるいはその他の里の者たちは、復讐者たちにとって貴重な情報源だ。
「ああ。それも、他に二頭おまけにつけてな。気前のいいことだ」
「しかし、兄上のことです。本心からズーン王にへりくだっているわけではないでしょう」
あぐらをかいた竜神の太腿の上にちょこんと座ったジムスが、思案顔で言う。
「当然じゃな。相手が強いからそれに阿る、などというのはあの男の性格に似合わぬ」
「ズーン王を油断させようとたくらんでいる――。アヤンガ様もそうお考えですか?」
背後を振り返って、ジムスが竜神に問いかける。瑠璃色の髪の少女の姿をした竜神は、優しく微笑んで言った。
「ああ。あの男の性格からしてもそうじゃし、そもそも、このままズーンや、あるいは西のバローンに押され続けているようでは、あの男の足元も危ういからの」
草原の民にとっても、弑逆や簒奪の意味は決して軽いわけではない。ボルドゥの父王殺しを容認してしまったことに対する人々の罪悪感を免れさせるものは、ヒュンナグにとってより良き、強き王を仰ぐため、という一事のみだ。それが、先王以上に隣国に対して弱腰というのでは、ボルドゥの存在意義は否定されてしまう。
「それを承知の上で、あえてズーンに遜ってみせるというのは、油断させておいてガブっといくつもりってわけだね。あたしらとしても、つけ入るとしたらその時かな」
炒った胡桃の実を齧りながらそう言って、サラーナはジムスを見つめた。
ボルドゥが東のズーンなり西のバローンなりとの戦闘に入った時を狙いすまして、ジムスを担いで叛旗を翻す――。それが彼女たちの基本方針だ。
「そうですね。そうして兄上と戦うことになっても、そのこと自体は決して恐れはしません。ですが……」
隣国の圧迫と戦おうとしているボルドゥの足を引っ張ることは、果たしてヒュンナグにとって良いことなのか? ジムスはそのことを気に病み、幾度も竜神やサラーナ、ションホルたちと話し合いを重ねてきた。
「気にするな、とは言わぬ。じゃが、あの他人の命を塵芥ほどにも思っておらぬ男に支配されることが、ヒュンナグにとって良いことかどうか、それを考えてみよ。それに……氏族の集合離散は草原の習い。もしあの男を倒して、その結果ヒュンナグがズーンやバローンに飲み込まれてしまうような事態を招いたとしても、それはそんなに悪いことかの?」
ヒュンナグが一つの勢力としてまとまるようになったのも、せいぜいジムスたちの祖父の時代のことだ。それらをその目で見てきた竜神の言葉に、ようやく少年は心が晴れたような表情を見せた。
「ありがとうございます、アヤンガ様。迷いが晴れました」
旗頭であるジムスのその言葉を聞いて、サラーナたちも安心したが、それはそれとして――。
「アヤンガ」というのが竜神の真名、ということは里の人間なら誰でも知っている。
だが、竜神様に対して馴れ馴れしすぎると里の大人たちから幾度となく叱責されてきたサラーナですら、その名で呼んだことは幼少期の数回しかない。怒りこそせぬものの、機嫌を損ねていることは明らかだったので、さすがのサラーナも遠慮するようになったのだ。
それなのに、ジムスにその名で呼ばれても、竜神は上機嫌だ。そもそも、竜神の真名を里の人間に聞いたのなら、その名で呼ぶべきではないということも一緒に教えられるはず。おそらく、竜神本人から直接教えられたのだろう。
自分が知らない竜神の一面を垣間見たような気がして、サラーナは軽い戸惑いを覚えるのだった。
ヒュンナグの新王から宝騎を贈られてからさらに一月ほど後。ズーン王はもう一段図に乗った要求を突き付けてきた。
「ヒュンナグの新王は、大層な艶福家であると聞く。是非、御寵愛の美女を一人お譲り頂きたい、ですと!? ふざけるにも程がありましょう!」
「このような無体、相手になさってはなりませぬ! 使者の首を刎ねてやってもいいくらいでございます!」
側近たちが口々に言い募るが、ボルドゥは今回も穏やかな表情で、
「隣国との友好は何物にも勝る宝。女の一人や二人、惜しむに足りぬ」
そう宣言すると、不満げな者たちを冷ややかな眼差しで封じ込めた。
草原を、騎竜に曳かれた車が連なって行く。
ここは、ヒュンナグとズーン、それぞれの領域の境にある無人地帯。牧草の質があまり良くないため遊牧に適さず、打ち捨てられた土地だ。
「触れずの地」と呼ばれるこの地を東に向かって進む一行は、ボルドゥの寵姫アルタントヤーをズーンに送り届ける使者たちである。
サラーナに代わって、ボルドゥの寵愛を一身に受けてきたのが、このアルタントヤーという女性。サラーナと同い年で、西方系の血が色濃く出た金髪碧眼の美女だ。そんな彼女を、ボルドゥは惜しげもなくズーン王に差し出したのだ。
はぁ、と溜息を吐きながら、車の窓から外の代わり映えせぬ景色を眺めていたアルタントヤーの視界に、十数頭の羊の群れを追う牧童の姿が映った。
おそらく、質の良い牧草地から締め出され、こんな土地での遊牧を余儀なくされているのだろう。
気の毒に――と思わず呟いたアルタントヤーは、ふと、二人いる牧童のうちの一方が妙に汚れた服を着ていることが気になった。いや、二人ともみすぼらしい服装ではあるのだが、一人は、まるで草の汁でもぶっかけられたような汚れ方をしている。
(草の汁……?)
心に引っ掛かりを覚え、彼女が首を傾げていると、不意に車が停止した。
不審に思い御者に尋ねてみると、遠くに野生の騎竜の大規模な群れが見えたので、小休止を取ることにしたのだという。
大気に満ち溢れる魔素は、あらゆる生物――動物も植物も――が自然と体内に取り込んでおり、人間の魔道士が魔法を使えるのもそのおかげだが、草原あるいは砂漠のような、生物密度が極めて低い土地では、夜のうちに結晶化した魔素の微結晶が地面に無数に散らばり、騎竜はそれを糧とする。
この「触れずの地」は、いわば野生の騎竜たちの楽園でもあるのだが、草原の民にとって、実のところ、卵から育てねば人に懐かない騎竜の野生の群れなどというものは、あまり用のない代物だった。
せいぜいが、騎竜の卵を採取する採卵人にとって用があるくらい。
それに、飼育騎竜をうかつに野生の群れと接触させると、ごくまれにではあるが、人間の言うことを聞かなくなる、「先祖返り」と呼ばれる現象が起きることもある。
そのような事情もあって、群れとの接触を避けるため、一行は休憩も兼ねて小休止を取ることにしたのだ。
アルタントヤーは車から外に出ると、護衛の一人に頼み込んだ。気分転換に、少し騎竜を走らせてみたいから貸してくれと。
金髪の美女に色っぽい眼差しを交えながら頼み込まれた男は、あまり遠くには行かないでくださいよなどと言いながら、快く騎竜を貸してくれた。
草原の爽やかな風を受けながら、アルタントヤーは騎竜を走らせた。
向かう先は、先ほどの牧童たちの許。
草の汁で汚れた服を着た牧童に向かって、アルタントヤーは叫んだ。
「サラーナ! あなた本当に生きていたの!?」
胸元をさらし布で締め上げ、牧童に身をやつしたサラーナが笑う。
「ええ、おかげさまでね。よく気付いてくれたね」
「出立の直前に、あなたと同郷の娘からあなたが実は生きていると聞かされた時は、性質の悪い冗談かと思ったのだけれど。それにしても……、それ、私にだけわかる合図のつもりなんでしょうけど……。何なの、あてこすり? あの時のこと、まだ根に持っているの?」
かつて、アルタントヤーはボルドゥの寵愛を一身に集めるサラーナに嫉妬し、草の汁をぶっかけるという嫌がらせをしたことがあったのだ。
「あはは。別に根に持っちゃいないよ。あたしの方が一発多く引っ叩いたから、それでチャラだしね」
その時は平手打ちの応酬となり、アルタントヤーが二発、サラーナが三発食らわせたところで、周囲の者たちに割って入られた。
「まあ、あの時は悪いことをしたわね。謝るわ。あなたが当時全然嬉しくなさそうな顔をしていた理由が、私にもよくわかったから」
思いの外素直に、アルタントヤーが頭を下げた。サラーナ亡き後、ボルドゥの寵愛を一身に集める立場になった彼女であったが、ボルドゥが自分に欠片も心を許していないことを、痛感させられたのだ。
「子供を授かっていたらあるいは……。いえ、それでも何も変わりはしなかったでしょうね」
「変わるわけないじゃん。実際、あの男の子を産んだ女は何人かいるけど、全く扱いは変わらなかったでしょ」
「そうね。いくら私がお慕いしても、あの人の心は氷のまま。そして、隣国の王に求められれば、惜しげもなく私を差し出した……。おかげですっかり目が覚めたわ。で、私に何の用? こんな話をするためだけに呼び出したわけじゃないんでしょう?」
サラーナはアルタントヤーの碧い瞳をじっと見つめた後、これまでのいきさつを全て語って聞かせた。
「そう、そんなことが……。ジムス殿下も生きていらっしゃるというのには驚いたけど。本気であのお方に喧嘩を売るつもりなの?」
「先に喧嘩を吹っかけてきたのはあの男の方だからね。このままで済ませてやるほど、あたしは寛大じゃないんだ」
軽い口調ながら、その瞳には断固たる決意を込めて、サラーナが言う。
アルタントヤーは肩をすくめ、
「そう。で、私は何をすればいいの?」
「ズーン王に伝えてほしい。ボルドゥには決して油断するな。あいつがどれほど恭順を装ったとしても、いつか必ず牙を剥く、と」
「なるほど……。でも私、あの方からは、ヒュンナグの新王は虚勢ばかりの腰抜けだから恐るるに足らず、とズーン王に寝物語で吹き込むよう、仰せつかっているのだけれど」
「ふん、あいつも抜け目がないね。で、その言いつけ、守るつもり?」
「守るわけないでしょう。私だって、ズーンがヒュンナグに滅ぼされてその巻き添えを食う、なんていうのは願い下げだし。……女に言うことを聞かせたいのなら、せめて愛するふりくらいはしていただかないと」
「あいつも必要と思った時はやるみたいだけどね。あたしらにはその価値すらないと思ってたんだろ。安く見られたもんだ。……ああ、そうそう。ズーン王には正しい認識を持ってもらいたいけど、噂自体は広めてやればいいよ。思いっきり、ね」
底意地の悪い表情を浮かべてそう言ったサラーナに、アルタントヤーは小首を傾げたが、その真意を理解して、思わず呆れ顔になった。
「本当に性格悪いわね、あなた」
「お褒めに預かり光栄の至りだね。それと、もう一つ。ションホルをズーンに送り込みたいから、仲介してほしいんだけど」
「ションホルを?」
アルタントヤーはもう一人の牧童――の格好をした若者に目を向けた。
ボルドゥの親衛隊だった彼とは知らない仲ではないが、ズーンに送り込むとはどういうことかと、首を傾げる。
「ズーン王も中々の戦上手とは聞くし、配下にも優れた人材は豊富なんだろうけど、ボルドゥの手の内を良く知っている人間はいたほうがいいでしょ?」
サラーナの本音を言えば、ボルドゥを甘く見て挑発を繰り返すような人物のことは正直信用がならないのだ。これからその男に嫁いでいくアルタントヤーの前で、そこまでは口に出さないが。
そんなサラーナを、アルタントヤーはじっと見つめ、
「梃入れしないと、ズーンがあっさり滅ぼされてしまう――。そう思っているの?」
「心配し過ぎかな?」
「いえ、あの方ならそれくらいはやりかねないでしょう。承知したわ。でも、さすがにこのまま同行するというのは……」
サラーナとしても、最初からそのつもりはない。後日ズーンに向かわせるからよろしく頼むと、ションホルと二人して頭を下げた。
アルタントヤーが戻るのを待って、輿入れの一行は再び動き出し、無事ズーンの王宮に到着した。
アルタントヤーを迎え入れたズーン王・バーブガイであったが、正直彼は困惑していた。
まさか、本当に寵姫を送り付けてくるとは。
西方系の金髪碧眼美女を前に、思わず鼻の下を伸ばしかけたが、ふと我に返る。
伝え聞く中原の歴史では、若い美女にうつつを抜かした愚王が国を傾けた例がいくつもあるという。そんな連中の二の舞を踏むわけにはいかない。
後ろ髪を引かれながらも、バーブガイは隣国から贈られた美女を、十五歳になる息子・エルデニにくれてやった。
予想外の展開にアルタントヤーも困惑したが、彼女としても、二十ほども年上の夫より、多少年下でも同年代の夫のほうが嬉しいのは当然だ。
あどけなさを残しながらも草原の男の逞しさを開花させつつある年下の夫を、アルタントヤーはたちまち虜にし、同時に彼女も、エルデニを心から愛するようになった。
しかし、一夫多妻制の下で夫の愛情を独占しようなどと考えてもろくなことにならないということを、彼女は十分心得ていた。
ズーンの有力氏族出身であるエルデニの正妻、まだ夫婦生活もおぼつかぬ十四歳の少女とも友好的な関係を築き上げ、舅であるズーン王の信頼も獲得しながら、アルタントヤーは来るべきズーンとヒュンナグの軍事衝突に備えるのだった。