王子の悲嘆
「一体何なのだ、この雨は?」
オルツィイが薄気味悪そうに周囲を見回す。三騎を中心として二十歩ほどの範囲だけは雨が降らず、その周囲を雨の帳が囲んでいる。しかも、移動に合わせてついてくる。尋常のことでないのは間違いない。
しかし、気にする必要はないというションホルの言葉を信じて、姉妹はそのまま騎竜を走らせ続けた。
そしてようやくにして、天の山の麓まで辿り着く。それと同時に、雨はすうっと上がった。
「トゥマン王は死に、ボルドゥめは討ち漏らした、か。まあ仕方ないの。ジムス王子を救えただけでも上出来じゃ」
「貴様、何者だ」
忽然と現れた少女に、ツェレンが矢を向ける。
「おうおう、それが主君の命の恩人に対する態度かの?」
「恩人?」
怪訝そうな姉妹ににやりと笑いかけ、少女はジムスに歩み寄る。
年の頃は十四、五くらいで、髪の色はきらめく瑠璃色、瞳は吸い込まれるような琥珀色。神秘的な雰囲気を漂わせた美少女は、普通の人間でないのは明らかだった。
少女がジムスの胸に突き立った矢に触れると、矢は光の粒になって崩れ去る。そして少女は少年の懐から瑠璃色の鱗を取り出し、鱗は少女の手のひらの上で粉々に砕け散った。
「千年余りも生きてきて、里の人間以外に鱗を貸し出してやったのは今回が初めてじゃが……。ふむ、助けた甲斐があったと言うべきかの」
ジムスの顔を覗き込み、少女は妙に艶やかな笑みを浮かべた。
「えーっと、すみません、竜神様。俺の矢もどうにかしてもらえると嬉しいのですが」
背中に矢が突き刺さったままのションホルが、苦しそうに言う。
竜神の鱗の護符は、持ち主の身代わりとなって致命傷でも引き受けてくれるが、矢が刺さったままなど、傷の治癒を阻害する要因があればそれを取り除かないと、文字通りの生き地獄を味わうことになる。
「おっと、これはすまぬ」
少女の姿の竜神は、ションホルの背の矢に触れ、こちらも光の粒に変える。
「ジムス殿下にはちょっと辛い思いをさせてしまいましたが……」
まあ、あの時は矢を抜いている暇はなかったし、なまじ抜いてしまって鱗による治癒を発動してしまうと、万一次に矢を受けたら今度こそ致命傷になりかねなかったわけで。やむをえぬ判断ではあった。
「それはおぬしもじゃろ。よう耐えたの」
「いえ、俺は……。サラーナが受けた苦しみの何十分の一かを味わえて、むしろ良かったですよ」
凄惨な笑みを浮かべ、ションホルは言った。
「恨みを噛みしめることができた、か。まあ程々にの。にしてもおぬし、仮にボルドゥめに先手を打たれておらなんだとしても、どうやって逃げ切るつもりだったのじゃ。天の山というても、ここから里までは相当な距離がある。麓を進んでいけば、結局ボルドゥめに捕捉されたであろうし、山中を進もうなどというのも、遭難するのがオチじゃぞ」
「見くびらないでくださいよ。こう見えても竜神の里の人間です。追手を撒いて山中に逃げ込んだら、“御座”に向けて流れている竜脈を見つけて、それを辿っていくことくらいのことは出来ますから。……まあ、奴に先手を打たれてしまって、結局は竜神様に助けてもらうことになってしまいましたが。良かったのですか? 人界のことに関わってしまわれて」
「まったく、中々無茶なことを考える奴じゃの。まあ、儂のことは気にせずともよいわ。ふと気が向いて散策ついでに雨を降らせておっただけじゃ。さて、ちょうどその先に竜脈がある。そこから帰ろうかの」
「竜脈を辿って行くんですか?」
そう尋ねたションホルに、竜神はにやりと笑って見せ、言った。
「いやいや。儂を誰じゃと思うておる。竜脈の上に乗ってしまえば、距離など有って無いようなものよ」
その言葉のとおり、竜脈に乗った次の瞬間には、一行は“御座”に着いた。
「おかえり~。なるほど、とりあえずジムス殿下だけは救出できたか」
一行を見て状況を察したらしいサラーナが、つとめて明るい声で言う。
「あの……。ここは一体?」
一方、状況が飲み込めていない様子のジムスが、左右から姉妹に支えられながら、あたりをきょろきょろ見回して尋ねる。
「あたしたちが生まれ育った竜神の里の奥にある、竜神様のお棲まい。“御座”と呼ばれている場所ですよ。ようこそ、ジムス殿下」
「うむ。よう来たの。気楽にするがよいぞ」
瑠璃色の髪の美少女――の姿の竜神も、衣の裾をひらひらさせながら言う。
その姿を見て、ジムスはぽっと頬を赤らめながらも、礼儀正しく挨拶した。
「お目にかかれて光栄です、竜神さま。助けていただきありがとうございました」
「「ありがとうございました」」
姉妹も主に倣い、竜神に頭を下げる。
竜神は軽く手を振って、
「気にするな。里の者の頼みは無下にはできんからの」
その気さくな言動に戸惑い気味なジムスだったが、目の前の可憐な少女が正真正銘、神の力を有していることは、彼も我が身で体感している。
「それにしても、竜神さまのお力はすごいですね。サラーナ姐さまからお話を聞かされてはいましたが」
「ふっふっふ。すごいでしょ。竜神様の鱗は持ち主の身代わりとして傷を引き受けてくれる……、あ、もしかして、実際に体験なさいました? それと、厄除けの効果もありましてね。おかげで私も一年間……」
「よさぬか。子供にする話ではないわ」
竜神が渋い顔でサラーナを窘める。
ジムスは少し悲しげに顔を伏せ、
「子供、ですか……。そうですね。ぼくはまだまだ未熟ものですから」
「ああ、いやいや。気に病むことはないぞ。人間の成長は早い。お前もすぐに立派な大人になるじゃろうて」
竜神の言葉に、ジムスは少し照れながら微笑んだ。
「ありがとうございます、竜神さま」
その後、軽く食事を摂ることになったが、そば粉の餅には手を付けず、ジムスは固い表情で尋ねた。
「あの、それで……、やはり、父上は兄上に害されたのですか?」
それに対し、竜神は痛ましげに眉を顰め、
「ああ。詳細を語るのは避けておくが、成り行きは儂がこの目で見届けたわ。トゥマン王はボルドゥの手に掛かり、奴が新たな王となった」
「そうですか……。いえ、姐さまから話を聞かされた時から、覚悟はしていたのですが……」
そう言いながらも、ジムスの目に涙が滲む。
彼にとっては優しい父親であったが、トゥマンが王としていささか問題のある人物だったことは、まだ年若いジムスも承知していた。
ボルドゥが手勢を貸してやると言い出し、オルツィイがその中にションホルを含めてくれるよう頼んだ時、ジムスがそれに反対の意を示したのは、自分よりもむしろ父の側にいて守ってほしいと思ったから。
しかし、本当は彼も悟っていた。彼に無二の忠誠を誓う姉妹も含め、誰にも父を命懸けで守ろうなどいう気持ちはないのだということを。
「申し訳ありません、殿下。俺たちの力が及ばず……」
ションホルが頭を下げる。元々トゥマン王の生命の優先順位を高くしていなかった彼としては、いささか後ろめたい思いもあった。
「いえ、ションホル殿。お気になさらずに。元はといえば、父上が自らまねかれたことでもありますし、ぼくの命をすくってもらっただけでも、心から感謝しています」
まだ幼いながらも健気に振舞うジムスを、竜神は慈愛に満ちた眼差しで見ていたが、やや表情をあらため、厳かな声で尋ねた。
「で、あえて今聞くが、お前はこれからどうするつもりじゃ? 父の敵討ちのために兄と戦う覚悟はあるか?」
姉妹が思わず立ち上がり咎めるような表情を竜神に向けるのを無言で制し、ジムスは瞳に固い決意を込めて答える。
「はい。子として当然のことですから。協力していただけますか?」
「うむ。良い面構えじゃ。まあ、儂自身はあまり人界のことに干渉するわけにはゆかぬが、助言は惜しまぬし、こやつらは全面的に協力してくれるじゃろう」
竜神に水を向けられて、サラーナとションホルは口々に言った。
「もちろんですよ。あたしたちも、あの男には恨みがありますからね」
「今日この日より、俺は殿下にお仕えいたします」
ボルドゥという共通の敵を打倒するために――ではあったのだが、ションホルは少年の健気さにすっかり好意を抱くようになっていた。
「ありがとうございます、ションホル殿。それに、サラーナ姐さまも」
父を殺され寄る辺を失ったばかりの王子は、礼儀正しく頭を下げた。
が、そんな彼に追い打ちをかけるように、新たな悲報がもたらされた。
「大変だサラーナ! あ、竜神様、“御座”で騒いで申し訳ありません」
叫びながら駆け込んできたのは、竜神の里の若者で、名をドルジという。里を出てヒュンナグ王に仕えていた者たちの一人で、サラーナにとっては重要な外部の情報源だ。
「儂のことは気にするな。それと、トゥマン王が弑された件ならもう知っておるぞ」
「さ、さすがは竜神様……。え、そこにおられるのはジムス殿下? ボルドゥ殿下に討たれたという話でしたが……」
ボルドゥ自身がそう信じていることもあって、情報が錯綜しているのだろう。死んだはずのジムスがこんなところにいるのを見て、ドルジはいささか混乱気味だ。そして、竜神とジムスとの間で視線を行き来させながら、何やら口ごもる。
「ぼくがいると話しづらいことでしたら席をはずしますが……、もしかして母上のことですか?」
内心の動揺を懸命に押し隠すような表情で、ジムスが問いかける。父に続いて母も異母兄の手に掛かったのだろう、という想像はついた。
兄上にはお気を付けください、という息子の進言ににこにこ頷きながら、お前は何も心配することなどないのだよと優しく微笑んだ母の顔が脳裏に浮かぶ。
涙が零れ落ちそうになるのを堪え、ジムスは毅然とした態度を崩さずに、里の若者をじっと見つめた。
ドルジは幼い王子の健気な姿に胸を打たれた様子で、意を決したように口を開いた。
「はい、殿下。お察しの通りでございます。母君はボルドゥ陛下に害され、そして……」
「そして?」
「ラムナル妃のご実家であるウンデス氏族の野営地が急襲され、女子供に至るまで……」
「う……あああああ……」
そこまで聞くのがジムスにとって限界だった。母の出身氏族であるウンデス氏の一族は、今彼の側にいる姉妹も含め、皆親しくしてきた者たちだ。彼らのことを思い、少年の口から嗚咽があふれ出す。
泣き崩れる主君を支えるように、左右から姉妹が寄り添う。
しかし、彼女たち自身も、一族が皆殺しにされたと聞かされた動揺は大きい。
主君の手前、懸命に堪えながらも、ツェレンの目からは涙がとめどなくこぼれ落ち、オルツィイは右手でジムスの腰、左手で妹の肩を抱きながら、唇を噛みしめ、「おのれ、おのれ」と呪詛の言葉を呟き続ける。
サラーナたちも主従にかけてやる言葉が思い浮かばず、千年を生きた竜神ですら、黙ったまま悲しげな表情で見守るしかなかった。
「ボルドゥ、これはなんの真似!? 私のことを愛している、ジムスの側近となって盛り立ててやる、と言っていたのは嘘だったの!?」
ヒュンナグの王宮――といっても、草原の民のこととて、巨大で豪奢な造りの幕舎群であるが――の、玉座の間。
親衛隊の兵に二人がかりで腕を掴まれ押さえ込まれた格好のラムナルが、三十路が近付いてもなお美貌を保ったその顔を憤怒に歪ませ、ボルドゥを難詰する。
十代の頃からその美貌で多くの男たちを虜にしてきたラムナルは、愛する我が子の競争相手である継子のことも、完全に篭絡できたと信じ切っていたのだ。
一方のボルドゥはというと、本気で驚いたような表情で、義理の母であり愛人でもあった女性の顔をまじまじと見つめた。
「まさか、あのような戯言を本気にしていらっしゃったのですか? ふむ。今初めてあなたのことを面白い女だと思いましたよ、義母上」
「き、貴様っ!!」
「いささか名残惜しくはありますが、あなたとはこれでお別れです」
ラムナルの怒りに何の感慨も見せず、ボルドゥが右手を挙げる。それを合図に、兵の一人が彼女に羊皮の袋を被せた。全身をすっぽりと皮袋に包み込まれ、地面に投げ出された魚のようにじたばたと暴れまわるラムナル。
そこへ、親衛隊の中でも一際屈強な男が振り下ろす棍棒が、情け容赦なく叩き込まれる。
くぐもった苦鳴が皮袋から漏れ聞こえたが、おかまいなしに棍棒が二度、三度と叩き込まれる。五回目で、皮袋はぴくりとも動かなくなった。
草原の習わしとして、身分の高い者を処刑する際は地面に血を流さぬようにする、という作法はあるのだが、ボルドゥとしては単に絨毯を血で汚したくなかっただけだ。
「捨ててこい」
兵たちに皮袋を担ぎ出させると、ボルドゥは側に控えていた側近を手招きした。
「フレルノム、お前は兵を率いてウンデス氏族の野営地を討て。一人も逃すな」
「へ、陛下! 何もそこまでなさらずとも……」
さすがに顔を蒼ざめさせて、フレルノムが反論する。しかしボルドゥは氷のような表情のままで、ぽつりと呟いた。
「俺はジムスの死体を見ていない」
「は? それは確かに仰るとおりですが、到底生きておられるとは……」
「生きてはおらぬだろうとは思うがな。念には念をだ。わかったら早く行け」
「か、かしこまりました」
かくして、フレルノム率いる部隊はラムナル妃の出身氏族ウンデス氏の野営地を急襲し、草原を朱に染めた。
新王ボルドゥの苛烈な処置は、人々を恐怖させた。しかし――。
ボルドゥとしては禍根を絶ったつもりであったのだが、ウンデス氏族は孤立していたわけではもちろんない。他の氏族と通婚を重ねており、他の氏族に嫁いで難を逃れた者、逆に他の氏族から嫁いで来て難に巻き込まれた者なども大勢いる。彼ら彼女らの憎悪は、新たな災いの種として、ヒュンナグの草原にばら撒かれたのであった。