謀略の生贄
ションホルが何食わぬ顔で隊に戻り、訓練に励んでいた頃、トゥマン王の周辺ではとある事件が持ち上がっていた。
粗相を咎められ王に鞭打たれたことを恨んでいた奴隷の一人が、中原から来たという商人に唆され、王が大事にしていた騎竜の一頭を盗んで売り飛ばしたのだ。その代金で己が自由を贖えという甘言に乗せられて。
事はすぐに露見し、奴隷は捕らえられ、苛烈な拷問の末に首を刎ねられて、その首は晒し物とされた。
しかし、ナル、サル、オド――それぞれ太陽、月、星を意味する名前を付けられ、「三宝騎」と称されていたうちの一頭、月の行方も、それを買ったという商人の行方も、杳として知れなかった。そして――。
ヒューーーーーッ!
ボルドゥが放った鏑矢が空気を震わせる。そして、間髪を置かず、親衛隊の兵たちが一斉に放った矢が、月に降り注いだ。
騎竜の鱗は固いが、定住民たちが用いる弓矢ならばいざ知らず、草原の民が用いる高反発の複合弓から放たれた矢が適切な角度で当たれば、さすがに抗しきれない。
哀れな騎竜は悲痛な苦鳴とともに息絶えた。
今回は、躊躇うものは一人もいなかった。そもそも、何者かに盗まれたはずの王の宝騎がこの場にいるという時点で、もはや引き返すことはできないのだと腹を括らざるを得ない。
兵たちの覚悟を決めた表情を見渡して、ボルドゥも満足げに頷いた。
「さて、フレルノム。始末を頼む」
「心得ました」
ボルドゥの参謀であり、優れた魔道士でもあるフレルノムは、懐から一包の粉薬を取り出した。これは血液と混じり合うと魔物を呼び寄せるにおいを放つ薬。サラーナが射られた時、本来夜行性の食屍鬼が日中から出没したのも、これのせいだ。
が、フレルノムは騎竜の骸に粉薬を振りかけようとした手を止めて、主に向き直り、言った。
「これは万に一つも人目に触れさせるわけにはいきませぬ。焼いてしまった方がよろしいのではございませんでしょうか」
任せる、というボルドゥの言葉を受けて、フレルノムは配下の魔道士を三人ほど呼び寄せ、騎竜の骸に向けて一斉に火炎魔法を放つ。
肉の焦げるにおいが一面に広がって、躯は原形をとどめぬ炭の塊と化した。
「そう申せば、サラーナ妃の亡骸は一体どうなったのでございましょうか?」
フレルノムがふと思い出したように、主に問いかけた。
あの日の翌日、フレルノムは自ら配下を連れて現場の確認に赴いた。
しかし、そこに残っていたのは、獣か、あるいは他の魔物に食い散らかされた一体の食屍鬼の死体と、土魔法を使って何かを埋めたらしい痕跡。そして、兵たちに掘り返させて発見できたのは、ボルドゥに斬られた兵たち三名の、すでに何ものかに食われた形跡のある遺体のみ。サラーナ妃の遺体はどこにも見当たらなかった。
「その話を蒸し返すか? 魔物が誘魔薬のにおいに魅かれて巣に運んでいったのだろうという結論に至っただろう。誰か奇特な奴が兵たちの亡骸は埋葬していたようだが、あの女の亡骸だけ持ち去る理由も無かろうしな。……何か言いたいことがあるならはっきり言え」
ボルドゥの冷ややかな眼差しにたじろぎながらも、フレルノムは意を決して言葉を続ける。
「恐れながら申し上げます。サラーナ妃を死なせてしまったのは、少々考えものだったのではございませんでしょうか」
「ふむ。まあ確かに、ただ美しいだけでなく、頭も良い女だったからな。話をしていて退屈しない女というのは貴重ではあるが……。だが、だからこそあやつを血祭りにあげる必要があった。殺しても惜しくないのだろうと思われる程度の女では、覚悟のほどを示せぬからな」
「ではありましょうが……。彼女は竜神を祀る一族の出、竜神の怒りを買ったのではないかというのが、私めの懸念するところでございます」
冷や汗を滴らせながらのフレルノムの進言を、ボルドゥは鼻で笑い飛ばした。
「ふん。竜神の力は強大だとは言うが、聖域の外へ出て人界に干渉することは無いのであろう? ならば、いてもいなくても同じではないか。それに、里の者どもも、あの女の死に不審は抱いておらぬようだと言っていたではないか。……そう言えばあの女、竜神の鱗とやらを紐で首からぶら下げて、寝所ですら肌身離そうとしなかったな。厄除けの護符だとか言っておったが、所詮矢を防ぐこともできぬ程度のもの。考慮に値せぬわ」
「は、左様で……。ま、まあ、一年あまりお側に侍っても殿下の御子を身籠らなかったのですから、その点では生贄に選ばれたのもやむなしではありましょうが……」
無自覚に外道な台詞を口にしたフレルノムだったが、そんな彼も主の次の言葉で凍り付くこととなった。
「いっそ腹に子がいたほうが、覚悟を示すという意味ではより効果的だったかも知れぬがな」
ボルドゥは生来他者に対する情が薄い性格ではあったが、決定的に歪んだきっかけは、やはり実の父に殺されかけたことであったろう。
正室、側室から女奴隷に至るまで、何人もの女を抱きはしても、決して愛情を覚えることはなかったし、生まれた子供たちに対しても、肉親の情はほとんど感じていなかった。
だからその裏返しとして、妻たちが他の男と通じようとも、何の痛痒も感じない。
正妻が産んだ男児に浮気相手の子だとの噂があることも承知しているが、さして気に留めてはいなかった。その子が優秀ならば自分の覇業を継承させるし、無能ならば廃する。誰の胤であるのかなど、些末なことだ。
そこでふと、ボルドゥはサラーナ――艶やかな黒髪をなびかせ、少々口は悪いが打てば響くような聡明さを瞳に宿し、彼に対しても物怖じすることのなかった寵姫の姿を思い浮かべて、ぽつりと呟いた。
「ふむ、確かにあの女ならば、俺の覇業を受け継ぐに足る子を産んでくれたかもしれぬがな……。今さら言っても詮無いことだ。それに、代わりの女も探せばいずれ見つかるだろうさ」
会話を交わす主従から十数歩ほど離れた場所で、ションホルは背を向けたまま、両の拳を握りしめ、腸が煮えくり返るような怒りを懸命に堪えていた。
いささか距離はあったが、草原の民は聴覚も鋭い。会話は丸聞こえだった。
あの日、サラーナと共に御座に足を運んだションホルは、竜神に会うなり臭いと一喝され、近くの泉で二人して身を清めさせられた。
魔物を呼び寄せる類のにおいで、食屍鬼が寄って来たのもそのせいだろうと、竜神は言っていた。
その時のことを思い出し、さらに怒りがこみ上げてくる。
(絶対殺す絶対殺す絶対殺す絶対殺す絶対殺す絶対殺す絶対殺す絶対殺す…………)
怒りのあまり蒼ざめた顔で、固く目を閉じて心の中で呪詛の言葉を呟き続ける彼の姿は、幸いなことに、次に自分たちが射るべき相手をはっきりと認識させられて興奮と動揺がない交ぜになった兵たちから、不審に思われることはなかった。
こうして、面従腹背でボルドゥに仕える一方、ションホルはトゥマン王の家臣たちと接触を試みていた。
愚王は息子に疑いを抱いていないにしても、家臣たちの中には王太子の叛意を察している者もいるのではないか。
しかし、王太子の私兵の一人にすぎないションホルが、それもボルドゥや同僚たちの目を憚りながらでは、そう簡単に立場ある人間に話を聞いてもらうことはできない。
その一方で――。
「殿下、あそこに兎が」
「落ち着いて狙いを定められませ」
「う、うん」
少年と二人の娘が、騎竜に跨り草原を駆ける。
ラムナル妃が生んだボルドゥの異母弟・ジムスと、母の氏族の中から抜擢された守り役の姉妹。姉が十九で妹が十六と、まだ年は若いが、二人ともそこいらの男には引けを取らぬ騎射の名手だ。
一羽の兎を追いながら、ジムスが矢をつがえる。草原の民の常として、彼も幼少の頃から弓矢にも騎竜にも慣れ親しんできたが、そうは言ってもまだ十一歳。騎竜を走らせながらとなると、守り役の姉妹のように上手くはいかない。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら狙いを定めるジムス。しかし、兎の進路を狙って放った矢は、兎が寸前で向きを変えたせいで、虚しく地面に突き刺さる。
そして、ジムスが慌てて二の矢をつがえようとした時、打撃音と共に、兎はキーッと鳴いて草の上を転がった。
兎の上に覆いかぶさるようにして、大きな翼を広げているのは、一匹の飛竜。二本の角が生えた頭部と蝙蝠の翼を持った蛇のような姿で、翼長はちょうど鷹狩りに用いる鷹のそれと同じくらい、体長はその倍くらいの、比較的小さな竜種は、急降下してきた勢いのまま、その尾を兎に叩きつけ、仕留めたのだ。
飛竜が鎌首をもたげて視線を向けた方角から、一頭の騎竜が駆けて来た。
警戒心を示す様子もなく、むしろ主の到着を待っているかのような飛竜の素振りから、どうやら飼い主であるらしいのだが、そもそも飛竜自体そうそうお目にかかれるものではなく、ましてやこれを飼い馴らして狩りに使うなど、聞いたこともない。
「何者だ。面妖なやつ」
「こちらにおわすをジムス殿下と知っての無礼か」
守り役の姉妹、オルツィイとツェレンが口々に誰何する。
騎竜に跨って駆け寄ってきた飛竜の飼い主は、悪びれもせずに言った。
「いやあ、失敬失敬。でも、ここは別に王族専用の御狩り場ってわけでもないでしょ」
肩口で切りそろえた黒髪にフェルトの帽子をかぶり、その瞳はかすかに瑠璃色がかった夜空色。
その姿を見て、ジムスが叫ぶ。
「サラーナ姐 さま!」
姉妹も、王太子の元寵姫の顔は知っている。しかし――。
「サラーナ様!? お亡くなりになったはずでは?」
「あー。そういうことになってるらしいね。でもこのとおり、生きてるよ」
寵姫サラーナは流行り病で命を落とし、亡骸は火葬して、遺髪の一部だけが親元に届けられた、というのが公式発表だ。
「あの野郎、雑な切り方しやがって。重ね重ね腹が立つ」
ボルドゥの親衛隊の矢を浴びて一時気を失っていたサラーナが気付いた時には、自慢の黒髪が一部切り取られていた。今髪を短くしているのは、身なりを変えるためということもあるが、そのことも理由の一つだった。
サラーナの口から真相を聞かされ、三人は絶句した。
素直な性格で、知勇に優れた異母兄のことも純粋に慕っていたジムスに告げるのは少々辛かったが、それも仕方のないことだ。
「まあそういうわけだから、くれぐれも殿下の身辺には気を付けてもらおうと思ってさ」
「ありがとうございます、姐 さま。でも、母上と兄上は最近仲が良いものとばかり思っていたのですが……」
表情を曇らせ、ジムスが言う。
いかに聡明とはいえ、まだ十一歳。母と異母兄の「仲の良さ」の実態には気づいていないのだろう。
そして、姉妹は苦々しげな面持ちで眉を顰めている。殿下には絶対の忠誠を誓っていても、その母親に対しては、色々思うところがあるようだ。
「できればラムナル妃にも、王太子に気を許すな、と伝えてほしいんだけどね」
「わかりました。……正直、お聞き入れいただけるか自信はありませんが」
気が重そうな様子で、姉のオルツィイが頷いた。
そしてそれから一月ほど後。トゥマン王主催による大規模な“御狩り”が催されることとなり、運命の日が訪れた。