中原の商人
「ヒュンナグ王ジムスの名代として参りました。ションホルと申します。以後お見知りおきを」
一瞬、チャン=シュンの美貌に目を奪われたションホルは、慌てて拱手の礼を取り、挨拶を述べた。
(サラーナの方が断然美人だよ)
そう考えた後で、そんな比較をしてしまったこと自体が忌々しく思え、心の中で舌打ちする。
ションホルも中原の言葉は多少理解できるが、チャンとのやり取りは、使者団の一人で中原と商いをしているタヒアという男に通訳を務めてもらう。
一方、チャンの方も、傍らに侍っている巨漢はどうやら草原の出身らしく、ヒュンナグの言葉がわかるようだ。
「こちらこそ。随分とお待たせしてしまい、申し訳ありません」
「各地を回っておられたと伺いましたが……」
「はい。ご存じかとは思いますが、つい先ごろ、チェン=シェンとウー=クァンという人物が反乱を起こしましてね。我が商会も色々影響を受けることとなり、その後始末に奔走していたのですよ。まったく、迷惑な話です」
史上初めて中原を統一し、「皇帝」を名乗った男が死んだのは、ボルドゥが即位する前年のことだ。
彼の死により、チン王朝の支配は箍が緩み、極端な厳罰主義への反発から、各地で反乱が起きている、というのは、草原にまで聞こえてきている話だ。
中でも、チェン=シェンとウー=クァンという人物が起こしたものは最大規模で、わずか半年ほどで鎮圧されはしたものの、その波紋は大きく広がっている。
後始末、といっても、どうせ反乱軍に武器や物資を売って大儲けしたのだろうに、という本音はぐっと飲み込み、ションホルは柄にもない追従笑いを浮かべた。
「それはそれは、大変でしたね」
「ええ。本当に。……ああ、そうだ。そのチェン=シェンという男なのですが、こんな話が伝わっておりましてね。若い頃、分不相応な振る舞いを人に咎められた時、『燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』と嘯いたのだそうです」
「はあ、燕雀……」
「小燕や小雀ごときに、大鳥の志は理解できぬ、という意味です。まあつまり、彼は大鳥気取りの小雀だった、というオチですが」
反乱を起こして一時は気勢を上げたものの、次第に傲慢かつ猜疑深くなって人心を失い、最後は部下に殺されたというのだから、小物呼ばわりもやむなしというところだろう。
「さて……」
そこまで言って、チャンがションホルに向ける眼差しが冷気を帯びた。
「かのボルドゥというお人は、紛れもなく大鳥であった、と私は見込んでいたのですけれどね。彼を討ったジムス陛下は、はたして大鳥なりや?」
ボルドゥにとってかわるだけの器量はあるのかと問われ、ションホルは反発を覚えつつも、冷静に冷静にと、自分に言い聞かせる。
彼自身、ボルドゥに対して思うところは大いにあるが、さすがに彼を所詮は小雀だったのだなどと貶めるのは心が咎めた。
「……ボルドゥ殿は、たしかに大鳥だったでしょう。しかし、それ故にこそ、小雀たちの胸の裡を推し量れず、足元を掬われることになったのです。一方、ジムス陛下は、小雀たちの思いを汲み、彼らを惹き寄せる器の大きさをお持ちです。真に大事を成せるのは、どちらでしょうか」
ションホルなりに懸命に考えて出した結論だ。
正直に言って、ジムスが成長してもボルドゥのような英傑になるのは難しいだろうと思う。
しかし、この人のためならばと家臣たちに思わせる器量という点では、ボルドゥを凌ぐはずだ。
チャンは面白そうにションホルの顔を眺めていた。
彼を納得させることができたのか、それとも、妙なことを言うやつだくらいに思われているのか。
ションホルが不安げな表情を浮かべると、チャンはふっと笑った。
「失礼しました。決して、あなたの大切なご主君を貶めるつもりはないのです。ただ、私としても、ただ取引をするというだけでなく、援助もさせていただくということになれば、慎重にならざるをえませんもので」
それはそうだろうな、とションホルも思う。
元来、相当に厚かましい話だというのは、彼も重々承知していることだ。
「そこでです。一つご相談なのですが。ションホル殿とヒュンナグの方々に、私の叔父の手伝いをしていただくわけにはまいりませんでしょうか」
「叔父君の、ですか?」
「はい。すでにお聞き及びかもしれませんが、我がチャン家は、かつてチンに滅ぼされた小国の宰相を代々務めた名族でして」
そのことは、ションホルも事前に調べて――実際に調べてくれたのはサラーナだが――知っている。
かつて中原に割拠した七つの王国のうち、西から台頭してきたチンに真っ先に滅ぼされた小国だが、元々文化的・経済的にはたいへん繁栄していた地域であり、チャン家もその名族として、富貴を極めていた。
そして、祖国が滅んだ後も、チャン=シュンの父、そしてその跡を継いだ彼は、乱世を巧みに泳ぎ回り、仇であるチン相手にも平然と商売を行って、巨万の富を得たということだ。
「正直、私などは当時まだ幼かったこともあって、チンに対する恨みなどは無いのですけれどね。叔父のチャン=リァンというお人は、復仇の念に燃え、財産をはたいて力持ちの男を雇い、巡幸中の皇帝に鉄槌を投げつけさせたりもしたのですが……」
「はあ、そのようなお方がおられたのですね」
さすがにそこまでの情報は得ていなかったが、自身もボルドゥの暗殺を考えたことがあるションホルは、皇帝暗殺未遂と聞いてもさほど動じはしなかった。
「もちろんそれは失敗に終わり、お尋ね者の身となったのですが、幸い、当家との関りは隠し通してくれまして、類は及ばずに済みました。まあ、それはともかく。今、叔父はここから千里(1里=約400m)ばかり南の地で、リウ=バンという人の幕僚になっておりまして」
「リウ=バン、ですか」
「ええ。有り体に言って、ただのヤクザ者なのですが、叔父は何か光るものを見出したのでしょうね。彼は骨相観に長けておりますから。で、そのリウ殿が、先のチェンたちの反乱に触発されて兵を挙げたのです」
「はあ、なるほど。で、私たちは何をすれば……」
「はい。そのリウ殿が、現在故郷の町を陥とすべく奮戦しているのですが、なかなかうまくいかないようでして。一つお手伝いいただけませんでしょうか」
「は!?」
ションホルは思わず素っ頓狂な声を上げた。
千人単位の手勢を率いてきているならともかく、今ここにいるヒュンナグ人はわずか十名。しかも、全員が戦闘要員というわけでもない。
もちろん、草原の民ゆえ、皆弓矢は扱えるし、中原の雑兵などよりはずっと強いが、戦力としてはお話にならないだろう。
「いえいえ、もちろん私も、あなた方が加勢してくださったらたちまち形勢逆転、などというようなことは考えておりません。けれど、塞外の方々が引く弓矢は、中原の兵が引くものとは比べ物になりません。使いようによっては、たった一矢で戦況を変えることも可能でしょう。是非、お力を貸してはいただけませんでしょうか」
そう言われては、ションホルも断れない。
元々、援助をしてほしいなどと無理なお願いをしに来た側だ。
「承知いたしました。微力ではありますが、お手伝いいたしましょう」
ションホルの言葉に、チャンは満足そうに頷いた。
チャンとの面談を終えた翌日、ションホルはまたエルデニと顔を合わせた。
随分と機嫌が良さそうな様子を見るに、交渉は上手くいったのだろう。
最初からチャンがズーンに好意的だったのか、それともエルデニの人徳なり交渉術が物を言ったのか、それはわからないが。
「アルタントヤーのことがずっと気がかりだったのだが、これでやっと会える」
エルデニは心底嬉しそうに言った。
気がかり、といっても、怪我や病というわけではなさそうだ。
となると……、
「もしかして、おめでたですか?」
ションホルがそう尋ねると、エルデニは、よくぞ聞いてくれたとばかりに食いついてきた。
「おう! 実はそうなのだ。できることなら傍にいてやりたかったのだが……」
「はい。お気持ちはよくわかります。実は、私の妻も懐妊しまして」
「何、サラーナ殿もか。それはめでたいな」
「はい、おかげさまで!」
二人して盛り上がるのを、ヒュンナグ、ズーンそれぞれの随員たちは、苦笑いしながら見守るのだった。
ズーンに帰って愛妻と生まれてくる我が子に会えるエルデニを羨ましく思いつつ、ションホルは馬の背に揺られながら南を目指した。
その姿を見送るチャン=シュンに、傍らに控えていた巨漢が話しかけた。
「かのヒュンナグ人を評価するに、わざわざ叔父君のご判断を仰ぐ必要はありましたでしょうか?」
男の名はムカリといい、草原の小部族の出身で、見た目を裏切らず武勇に優れる一方で、知恵も回り、チャンの護衛兼通訳兼秘書といった役割をそつなくこなしている。
そんな彼の目から見て、ションホルはさほどの人物とは思えなかった。
「多少弓の腕前が優れているだけの武人に過ぎぬ、と、そう思いますか?」
逆に主に問い返されて、ムカリは遠慮がちに頷いた。
「まあ、一見しただけではそう見えますけれどね。ああ見えても彼は、まだ幼いジムス王子を担ぎ上げ、あのボルドゥ相手に見事勝利をおさめた立役者ですよ。油断はできません」
「それはおっしゃるとおりですが……」
「それにね。どうも彼には、何かが憑いているように思えるのですよ」
「何か、とは?」
「大いなる力を持つ何か、としか言えないのですけれどね。確かに何か、得体の知れないものが憑いているように思えるのです」
ムカリが噓寒そうな表情を浮かべると、チャンは穏やかに微笑んで、言った。
「だから、叔父上に見極めていただきたいのですよ。あの男が――そして、彼が仕えるヒュンナグ王が、いかほどのものなのかを」