波乱の船出
後日談部分を大幅改稿します。
トータルで十万字くらいにまで話を膨らませる予定です。
お付き合いくださいませm(_ _)m
新たなヒュンナグ王となったジムスの前途は多難だった。
ボルドゥがズーン相手に起こした戦と、軍内での内紛により、少なからぬ犠牲者が出た。そして、ズーンに対しても、西のバローンに対しても、大きな借りを作ることとなってしまった。
それもこれも、兄を打倒するためにはやむを得ぬこと――。まだ弱冠十二歳のジムスは、自分にそう言い聞かせ、数々の負債を返済して、再びヒュンナグの勢力を盛り返すことに人生を捧げる覚悟を決めていた。
「そう肩肘を張るでないわ。世の中、なるようになるものじゃ」
彼の愛する妻アヤンガ――瑠璃色の髪に琥珀色の瞳の美少女、の姿をした竜神が、諭すように言う。
「はい、わかっています。ぼくにできることは、目の前のことを一つ一つ片付けていく……ただそれだけですから」
「まだまだ肩に力が入っておるようじゃがな。思い詰めずとも、お前の周りには信頼できる人間がたくさんおるじゃろう。遠慮なく頼るがいい」
「はい。そのつもりです」
生真面目な顔で、ジムスが頷く。竜神はやれやれといった様子で小さく溜息を吐きつつも、千歳ばかり年下の夫を愛情のこもった眼差しで見つめるのだった。
「チャン、というと、ボルドゥ兄上を支援していたという例の中原の大商人ですか?」
「ええ、そのとおりです」
眉を顰めるジムスに、サラーナは涼しい顔で言った。
「そいつはあくまでボルドゥの将来性を見込んで投資していただけ。別に陛下の敵というわけではありませんよ」
「それはそうでしょうけど……。で、そいつとどんな話をするおつもりなんですか? 交易の話ですか?」
「もちろん、中原との交易は進めていきたいところですけれど。何はともあれ、よしみを通じておくべきかと」
ジムスはあまり乗り気ではなさそうだったが、サラーナに考えがあるのならばあえて異を唱えるつもりはない。
「わかりました、サラーナ姐さま。お任せします」
「かしこまりました。――ああ、それと陛下。いまや私は陛下の家臣なのですから、敬語はお控えください」
「あ、ああ、そうだったね。よろしく頼むよ、サラーナ」
照れくさそうにそう言って、ニヤニヤ笑っている妻の視線に気付き、ジムスは頬を染めるのだった。
チャンとの交渉のために中原に赴く使者の長に任命されたのは、ションホルだった。
と言ってもそれは、比較的女性の発言力が強い草原の民に比べ、より男尊女卑の傾向の強い中原の民に対する配慮のためで、実質的な長はサラーナ――半月ほど前に婚礼を上げたばかりの彼の妻だ。
その、はずだったのだが……。
「え、中原に行けなくなった? 何か不都合が? それとも、具合が悪いのかい?」
心配そうに尋ねるションホルに、サラーナは珍しくはにかみながら答えた。
「いや、病気とかじゃないんだけどね。十月ばかり、無理をするわけにはいかなくなっちゃってさ」
それを聞いて、ションホルも事情を察する。
「え、もしかして身籠ったのかい? それって俺の……」
言いかけて、ションホルは慌てて言葉を飲み込んだ。
自分以外の誰の子供だと言うのか。
「ふふっ。ションホルみたいに強い子だといいねぇ」
「ああ。でもって、サラーナみたいに賢くって、な」
二人は顔を見合わせ、幸せそうに笑い合った。
さて、サラーナとの間に子供を授かったというのは嬉しい限りだが、喜んでばかりもいられない。
これで完全に自分が使者の代表になってしまった。
しかも、ヒュンナグ王ジムスの名代という立場でもあるのだ。
胃がきりきり痛むほどの緊張の中、ションホルは使者の一団――といっても、総勢十名ほどだが――を率いて、南へと旅立った。
乗り慣れた騎竜は、今回乗っていくわけにはいかない。
中原では悪目立ちしてしまう上、餌となる魔石の調達も困難だ。
「馬ってやつはどうも乗り慣れねえなぁ」
副長の立場にあるムンバトが愚痴をこぼす。
「乗り心地自体は悪くないんだけどな」
ションホルはそう返した。
実際のところ、子供の頃から乗り慣れているというだけで、騎竜の背中はそれほど乗りやすいものではない。
もっぱら騎竜を乗用とする草原の民も、馬は飼育している。
主に役畜としてだ。
ズーンにアルタントヤーを送り届けた際の車は騎竜に曳かせていたが、あれは格式のためであり、一般的な荷車ならば曳くのは馬の仕事だ。
そしてもう一つ、馬の乳も草原の民にとっては重要な栄養源の一つである。
馬の乳は羊やヤギと違い、酪を作るのには向かないが、そのかわり糖分が豊富で、これを発行させて酒を醸すことができる。
「酒」といっても酒精はごく低濃度で、草原では摂取しにくい栄養分を豊富に含んでいるのだ。
「馬っていうと、乗り物というより食い物なんだけどなぁ」
ムンバトがそう呟くのに対し、ションホルは、
「シュシェン族なんかに言わせると、馬は乗り物であって食い物じゃないらしいぞ」
と、ズーンに滞在していた時に聞いた知識を披露する。
「なるほどね。俺たちが騎竜の肉を食わないようなもんか。ってまあ、そもそも固くて食えたもんじゃないらしいけどな」
本当に食べ物が尽きた時には、騎竜の肉を包丁で微塵に刻んで捏ねて焼いて食用にする、といった事例もあるにはあるのだが、ムンバトもションホルも、幸いというべきか、まだ食べたことはない。
「まあそんな話はおいといて……。実は、僭王の時から気になってたんだけどな」
ふと真面目な顔になり、ムンバトが言った。
ジムス即位以後のヒュンナグでは、ボルドゥはもっぱら「僭王」と呼ばれている。
トゥマンからジムスへの継承に割って入り、王を僭称した、という位置付けだ。
ボルドゥは地獄の底でさぞかし悔しがっているだろうが、無論ションホルが同情することなどありえない。
「気になるって、何がだよ」
「ほれ、例のチャンっていう商人さ。僭王には資金の援助までしていたようだけど、それでやつにどんな利益があったんだろうな、ってさ」
中原からもたらされる物品は、ヒュンナグにとっては大変ありがたいものだが、逆にヒュンナグの側には、毛皮や羊毛くらいしか輸出できるものはない。
人に馴らした騎竜の子は高く売れるが、ヒュンナグにとっても貴重なものである上、中原の軍事力強化につながりかねないため、歴代の王たちも輸出を制限してきた。
チャンの側に一体どんな利点があるのか、というムンバトの指摘は、たしかに鋭いところを突いている。
「チャンとしては、草原を誰かに統一してもらってその相手と大きな取引がしたい、と考えていたんじゃないかな」
ションホルはそう答えたが、無論これはサラーナの受け売りである。
草原で各部族がそれぞれ王を立てて割拠している状況というのは、中原の王たちにとってみればありがたいことだが、商人にとっては話が別だ。
草原が統一され、それとの取引を独占できれば、これほど旨い話はない。
「つまり、僭王――ボルドゥの野郎にならそれが出来ると見込んでいたってことか。え、じゃあ、ジムス陛下がかわりにそれを成し遂げられます、って売り込むのか?」
ムンバトが懸念するのも無理はない。
年齢のことを差し引いても、ズーンやバローンを併呑して草原の覇者となる、などという偉業がジムスに可能かと聞かれたら、彼に忠誠を尽くすつもりのションホルでも、口籠らざるをえないところだ。
第一、ジムス自身がそのような野心家ではない。
「ジムス陛下は、弱冠十二歳にしてあのボルドゥを打倒した英傑であらせられる。ボルドゥに出来たであろうことが、陛下がお出来にならぬはずがない。……そう思い込むのは、チャンの自由さ」
ションホルはそう嘯いた。
無論これも、サラーナの受け売りだ。
「……性格悪いな、お前」
ムンバトの言葉に一瞬むっとしたションホルだったが、サラーナ本人はむしろ賞賛と受け取るだろうと思い直し、にっこり笑って見せた。
チャンの住まいは、現在中原を支配しているチン王朝の都シャンヤンではなく、ハンダンという町にある。
ここは、チンに滅ぼされた六つの王国の一つ、チャオの都だった町だ。
西の辺境から台頭してきたチンなどよりも、経済的には古くから発展していた土地柄で、中でもここハンダンは、交通の要衝、商業の中心地として、チンの支配下に置かれた現在も栄えている。
チャンは遠出しており不在とのことだが、ションホルたち一行はチャンの屋敷の離れ――客人用の宿舎になっている建物に通され、歓待を受けた。
草原ではなかなか口にすることができない豪華な食事は、美味ではあったがどうも馴染めない。
酔い覚ましに外へ出たションホルは、思いがけない人物と遭遇した。
「ションホル殿ではないか。久しいな」
「エ、エルデニ殿下!? は、はい。ご無沙汰をしております。お目にかかれて光栄です」
ヒュンナグの東に位置する大勢力、ズーンの王太子。何故こんなところにいるのか――は問うまでもない。
ズーンも、チャンとよしみを通じたいと考えているということだろう。
「はは、堅苦しい挨拶は抜きだ。もしかして、ヒュンナグもチャン殿と面談を?」
「はい。ご明察です」
話を聞くと、ズーンの一行はすでにここで十日あまりも、屋敷の主の帰りを待っているのだという。
「それにしても、王太子殿下みずからお越しとは、ズーンも随分とチャン殿を買っておられるようですね」
ズーンがチャンに対し、草原を統一するのは俺たちだ、などと売り込もうとしているのだとしたら、ヒュンナグとしても看過するわけにはいかない。
「はは、何しろ相手は中原随一の大商人だからな。我らとしては、ボルドゥへの対抗策とはいえ、彼がシュシェンたち相手に持ちかけていた話を潰した格好になったわけだから、詫びの一つも入れんわけにはいくまい」
それにしても、やはり王太子自らというのは、相当な力の入れようだ。
ションホルとしては、警戒を解くわけにはいかない。
「それに、俺自身としても、実績を上げておく必要があってな」
その言葉に、ションホルは首を傾げた。
「えっ? 何をおっしゃいますか。御自ら兵を率いて、ボルドゥの侵攻を阻まれたばかりではありませんか」
「それはそうなのだがな。叔父上が……」
「殿下」
それまで無言で控えていたズーンの武人が、主を制した。
一度は共闘したとはいえ、異国人、しかも潜在的な敵国の人間相手に、あまりべらべらしゃべるなということだろう。
「これは失礼。殿下に余計なお時間を使わせてしまいました。私はこれで」
中原風に拱手の礼を取り、ションホルはエルデニの前を辞した。
ヒュンナグの宿舎に戻りながら、胸の中でエルデニの言葉を吟味する。
(エルデニ殿下の叔父君というと、ホルガンっていうお人のことかな?)
ズーン王バーブガイには他にも何人か弟はいるのだが、中でも末弟のホルガンという人物は、王位に対する野心が隠しきれていないと評判だった。
ションホルがズーン滞在中に聞いた話では、元々先代の王から王位を受け継ぐはずが、父王の急な戦死により、兄バーブガイに王位をかっさらわれてしまったのだとか。
草原の民には、末子相続という習いがある。
兄たちが順に財産を分与されて独立していき、最後に残った末弟が父の後継者となる、という相続方法だ。
しかしこれは絶対的な決まり事ではなく、その時の状況や後継者候補たちの力量、有力者たちの支持などによって、兄が後継者となることも少なくない。
ましてや、父が戦死した時ホルガンはまだ五歳だったというから、すでに成人に達し戦上手との評価も得ていたバーブガイが王位を継いだのも当然のことだろう。
それでもホルガンは納得がいかず、兄に逆らいこそせぬものの、その跡を継ぐのは自分だ、と考えているのだそうだ。
その叔父を黙らせるため、エルデニとしてはさらに実績を重ねなくてはならないということか。
しかし、それがヒュンナグとどう関わってくるのかという話になると、ションホルにはよくわからない。
国に持ち帰り、愛妻の判断を仰ぐことにしようと決めて、その日はゆっくり眠りについた。
宿舎で過ごすこと三日。
ようやく主チャンが戻ってきて、対面がかなった。
「はじめまして。チャン=シュンと申します」
そう挨拶をしたのは、まだ三十代くらいの、女性と見紛うほどの美貌の男だった。