ねぇ、あれってもしかして
「じゃあいいや。さっきの事は謝るよ」
黒い靄が少し収縮すると、相坂は仕方が無い、何て表情を浮かべながら、機嫌を直し靄と目を合わせた。
「こちらこそ、ごめん」
「平和的解決ってことで、本題に入ろうか」
「人の形から、段々靄になっていったんだ。完全な今の姿の靄になるまでに時間はそうかからなかった」
「どうして?」
この空間自体も奇怪であるが、人間が靄に変わっていくのも、やはりおかしい。
「知らないよ。だから僕は、ずっと探してるんだ」
声色が揺らぐ。段々細くなって、今にも途切れそうな、囁きに。喉の奥から溢れ出る絶望が、滲み出る。
「あのね、僕はここから出て、早く親孝行がしたいんだ。ずっと、我儘だったから」
「そうなんだ。…」
しばしの沈黙の後、相坂は息を飲み、語気を強力にして決心を吐いた。
「協力するよ。一緒に、此処から出よう」
「…」
鯖は、驚愕なのか、呆れなのかよく分からない顔で相坂を獲物を狙うかの様に凝視するが、それも性に合わず、照れくさそうに返事を返した。
「…うん。よろしく」
「じゃあ、まず出口探…」
相坂が言いかけたところで、奇空間に地震の様な、揺れと伴って爆音が轟く。刹那的現象の後、二人は何があったのか目を合わせる余裕すら無くなっていた。
土煙が舞い、むせている二人は、兎に角風が流れるのを願う。
「大丈夫?」
視界が万全でない中、鯖が相坂を探しに立ち上がるも、靄が余波に煽られて進めない。
「だ、大丈夫」
何処からか吹いてきた、穏やかな風に土煙は流され、お互いを認識できるまでには、場は収まっていた。
「一体、何だったの?」
鯖が怯えながらも愉しそうに相坂に尋ねるが知るはずもなく、寧ろ相坂の方が混乱している。
「知らないよ…あぁっ!?」
何かを見つけたのか、無意識に声を張ってしまう。奇空間に木霊した後、二人の視線は、ある建物に向けられていた。
「あれ、何…?」
「知らないよ…」
同じ件を何度も繰り返すつもりか、鯖は相坂を困らせたいのか、意地の悪い笑みを浮かべていた。
「行ってみる?」
「…怖いんだけど…?」
「僕も怖いよ?まぁまぁ、行ってみようじゃないか」
鯖に乗せられて、亀の歩みの如く足取りで並進し、古びた建物に近づいた。
「カフェって、書いてあるけど…君、このお店知ってる?」
「知らないよ。鯖は?」
「知らない。とにかく入ってみよう?」
黒褐色の木枠に収まる、昔ながらのガラスを除くと、アンティークな印象を受け、今にも珈琲の香りが漂ってきそうである。
「ねぇ…あれ、もしかして」
ぼやけたガラスに映っていたのは、丁寧にカップを拭く、人間だった。
「人…かな…?」
二人は漠然として渦巻く不安の中、カフェの扉を叩いた。