第三話 暴力反対です!
普段、慣れ親しんでいる薬草とは別の薬の匂いを感じとり、リーシェは目蓋をそっと持ち上げた。
美しい木目が見えた。蜘蛛の巣が張っていない天井のある部屋で寝た記憶はなく、その違和感がぼんやりとしていた意識を一気に覚醒させる。
上体を起こして何となく右を見ると、大きな目をさらに大きくさせた幼い男の子とバッチリ目があった。
その大きな瞳には、赤い髪に包帯を巻いて、緑色の目を丸くさせている自分の顔が写っていた。
「…………」
「…………」
突然の出会いに沈黙が続く。
あ、これ嵐の前の静けさっていうものかな?などと考えていると、予想通り男の子が耳をつんざく悲鳴をあげた。そのままバタバタと部屋を出ていってしまう
開け放たれた扉の奥からは、男の子の声が聞こえてきた。
『母ちゃ~~~ん!!』
『うるさいね!診療所では静かにしなっていつも言ってるだろう!』
鈍い音が聞こえて少年が静かになる。
再び、一瞬の静寂。
あ、これまた嵐の静けさってやつだよね?と考えていると、やはり男の子の泣き声が響いた。
『うわぁぁぁぁん!!いてぇ!痛いよぉ!』
殴られたのか、痛みを訴える声にリーシェは思わず部屋を飛び出ていた。
ひどく痛む体に鞭打って、声が聞こえる階下へ足を急がせる。
男の子の母親と思われる女性はリーシェがいる建物のことを「診療所」と呼んだ。
小さな辺境の村だったビーグリッドには、そういった類いの施設はなかったはずだ。ここはビーグリッドとは別の場所なのか、と推測しながら突入した一階の広間。
木でできた机を挟んで女性と少年がいた。
まだ若いが、なぜか貫禄のある女性だった。豊かな金髪を無造作に麻布でまとめ、でんとした体型だが不健康な印象は受けない。
あかぎれだらけの右手が虚空に構えられているのを見れば、あの手が男の子を叩いたのだろうということは容易に想像できた。
おばさんに傷つけられた傷の数々が、まるで怒りを持つように熱くなった。
「待ってください!」
一体、何日寝ていたのか声は掠れていたが、幸い広間に響き渡る程度の声は出てホッとする。
叩かれた頬を赤くして泣きじゃくる少年の姿が、幼い頃のリーシェの姿と重なって庇うように前に出る。
「どんな理由があったとしても、子供を殴ってはいけません!あなたのその手は、子供を殴るためにあるのですか?手の傷は、いま殴った子供のために努力した証拠なのではないですか?あなたは大人でしょう!圧倒的に力の差があるのに、殴って怒るなんて何を考えているのですか!」
「あんた、三日前に運び込まれた……。フン、余所者は黙ってな!"診療所では静かに"。これはここでの絶対の掟なんだよ!」
またか、と内心ため息をつく。
ビーグリッドでもそうだったが、人々は風習や掟に縛られ過ぎていると思う。
もちろん、代々の風習や掟を蔑ろにして良いわけではない。
しかしそれを理由に暴力を振るうのは間違っているとリーシェは信じていた。
「確かに私は余所者ですが、だからといって人間性を捨てる気はありません!風習だろうと掟だろうと、弱者に手を上げないというのが、人としての最低条件ではありませんか?感情のまま暴力を奮うのは、獣となにも変わりません!」
女性からしたら、リーシェは突然運び込まれた余所者の患者にすぎない。そんな得体の知れないものから注意されたら良い気がしないのは当然だろう。
だが、逆らえない大人からの暴力に身の危険を感じながら生活し、やがて命の危険を感じて死ぬように川に流れに身を任せたリーシェ。少女にとって、幼童に暴力という行為は何よりも許せなかった。
女性がなんと言おうが、考えを曲げる気はない。
掟を守らない奴は出ていけと言われたら、もちろん出ていく。こんな場所リーシェだってごめんである。
張りつめた緊張感が広間を支配する。
やがて、少年が鼻を啜る音で、女性は厳しかった表情を和らげた。
「そうだね、あんたの言う通りさ。あたしだって、好きでかわいい我が子を叩いたりしないさ」
一転して朗らかな笑顔に戸惑う。
「シュウ、種明かしをしておやり」
慈愛に満ちた優しい声で子供にそう促した。
「あのな、オレ、殴られてないよ!」
と元気な声で告げられた内容にリーシェは混乱する。
「え、ですが頬が赤く……」
「赤粉っていってな、顔に塗ると皮膚を赤くさせるんだ」
よくよく目をこらせば、まろやかな少年の頬は粉っぽくてそっと触れるとリーシェの指先も赤く色づいた。
(ということは……自作自演?)
リーシェが混乱し始めているのを楽しそうに見ながら、女性は言った。
「親には、暴力より先に子供にやらなきゃいけない事がある。それはね……」
それまで怖かった形相が柔らかくなって、気づけばリーシェも肩の力を抜いていた。
「諭してやることさ。怒りの声をぶつけるだけじゃいけない。前向きに子供を見て、強く優しく教えてやればいいんだ。失敗することは悪じゃないんだから」
前向きに。その言葉にリーシェの心に温かいものが広がっていく。
この人も、リーシェに前向きに生きることを教えてくれた誰かと同じなのだと悟った。
見れば腕の中の子供も満面の笑みを浮かべていた。
女性は悪戯が成功した子供のようにニンマリ笑った。
「川の上流から流れてきたのをあたしが拾ったんだが、体の傷とか、登場のしかたとか、なんか訳ありっぽかったからね」
まるでリーシェの事など全てお見通しだ、とでも言うように彼女は明るく言った。
家出か捨てられたか。女性はどちらにしろ元いた場所には帰れないだろうと考えたそうだ。
「だからこの町に滞在させられるか、ちょっとしたテストをしたのさ!もし、子供の泣き声にも駆けつけない薄情ものだったら、町でなにするか分からないだろう?」
「……では、私の大まかな事情を察して、私がここでの滞在を言ってもすぐに承認できるように、一芝居うった、ということですか?」
「騙して悪かったね。あんたが悪人だったら、拾ったあたしの責任でもあるから、見極めてやんないといけないのさ」
「あんたはもちろん合格だよ」と豪快に女性は笑う。
(事情も朧気にしか分からないはず。私の居場所を作るために、嘘をついてまで試してくれたというの?)
もしそれが本当だとしたら、なんて優しい人たちなのだろう。
周りを見れば、診療所の人々はみんな仕掛人だったようで、ニコニコと微笑みを浮かべている。
リーシェはビーグリッドで過ごしてきた10年間、こんなに優しい人に会ったことがない。
傷だらけの体を引きずって歩く少女に、村に人々は冷たい視線を送るだけで何もしてくれなかった。
いくら前向きに生きていようが、そんな環境にずっとリーシェは「人」というものが怖かった。
笑顔の下に何を隠しているか分からない。振り上げた手が何を考えているのか分からない。
愛しているから暴力を振るうのか。大嫌いだから見ないふりをするのか。
表裏がはっきりとしているようでしないのが人間で、その薄い仮面の下に隠れた本性に心の奥底では怯えていた。
だけどここにいる人たちは何だか違うような気がした。
心の根まで優しさでできていて、誠実さで考え方が構築されている。
この人たちなら信じてもいいのではないか、と思い始めたリーシェに女性が提案をしてきた。
「あんたが旅をするってんなら、そのときはできる限りの支援をする。この町で暮らすってんなら、空き家をあげよう。さ、好きな方を選びな」
そう聞かれて、考えるまでもなくリーシェは即答した。迷うまでもなかった。
「あの……、失礼なことをいってしまってごめんなさい。無礼な私でありますが、これからお世話になります」
手のひらで踊らされていたことを今さら自覚して、赤粉を塗ったわけでもないのにリーシェの顔は真っ赤になった。
こうして、この町……<西の大陸 幸福の町 セルタ>での、ほのぼの生活が始まったのだった。