第二話 それはまるで蜃気楼のよう
暗い海を漂っていた。
どこにいるのか分からない。どういう状態なのか分からない。
そもそも、生きているのかすら判然としなかった。
ただ漠然と、ここは夢の中なのだとリーシェは直感していた。
「ここは……」
体は思うように動かない。でも声は出せた。
「私は……確か川に身を投げて。それから……」
意識が閉じる直前の行動を思い出して自分は死んだのかと思った。
死後の世界は静かで寂しいものだなと感じた時、何も無かった場所に唐突に少女が出現した。
緑の髪を揺らした不思議な瞳の色の少女だ。
「汝は死にたかったのか?」
開口一番の言葉に不思議な喋り方だと思った。
これまで生きてきて初めて聞いた喋り方だったが、なぜだが違和感なく受け止めることが出来た。
実体を持っていないのか足が半ば消えている少女の問いかけに、リーシェはゆっくりとかぶりを振る。
「死にたかったわけじゃありません。ただ、平穏に生きたかった」
「川に身を投げれば死ぬ可能性が高いのに?」
「そう。死ぬ可能性が高い。現に今、私は生死が判別できていません」
「ではなぜ身を投げた?」
「何ででしょう。私にも分からないんです」
首を傾げる。本当に分からなかった。
リーシェが考えていたのは、平穏に暮らしたいという願いだけだった。
リーシェが祈っていたのは目覚めた先に平穏な場所があることだけだった。
きっと結末が生であろうと死であろうと、先に安穏があるならどちらでも良かったのだろう。
ずっと暴力という恐怖に支配されてきた。
ずっと愛情という仮面に騙されたフリをした。
スティは間違っていると分かっていたのに、訴えることが出来なかった無力な自分。
挙句の果てには、はっきり思い出せない何者かの言葉に縋って救われた気でいた。
前向きでいれば、必ず幸福が訪れると信じていた。
だってそれしか希望がなかったから。それしか縋るものがなかったから。
仕方の無いことだと思う。しかし同時に、弱い自分に……逃げてばかりの自分に嫌気がさす。
「私は臆病者なんです」
「人は皆そうだ」
「いつも大事なことから逃げる」
「だが汝は今まで頑張った」
「そうやって過去の努力で自分を縛って、苦しんでいました」
「それなら汝はどうする?」
「逃げない。逃げたくない。今度こそ、前向きに歩きます」
「もしも汝の目の前に弱者がいたら?」
「絶対に助けます」
「もしも汝に暴力が振りかかったら?」
「絶対に許しません。もう暴力から逃げません」
「そうだ。それでいい」
逃げない。平穏に暮らす。暴力なんて看過しない。
強い目で胸を張って前を見るリーシェの頬に、少女の冷たい指先が触れる。
「汝にはその力がある。いつか現実で私を思い出した時、全ての不幸を跳ね除ける力を自覚するだろう」
「あなたの言っていることがよく分かりません」
「それでいい。今は何もわからなくてもいい。この会話を思い出さずこのまま忘れてしまおうと、その決意は泡沫にはならない」
暗かった海が少しずつ明るくなっていく。
彼女が言っていることはやはり理解しきれかったけれど、リーシェは微笑んだ。
不思議な少女が消えていく。今のやり取りの記憶が泡のように消えていく。
夢が終わるのだと知った。
何を話したか覚えていない。
だけど心には強い決意だけが力強く瞬いている。
空で煌めく一等星のようにリーシェを導いてくれる。
汝はもう大丈夫だ、と耳元で誰かが囁いた。
夢が終わり現実が始まる。
新しい日常へ意識は上昇していった。