第一話 川の流れに乗りましょう
この度は、「伝説の少女は平穏に暮らしたい」をお読みいただきありがとうございます!
優しい目で見守ってくれると幸いです!
ビーグリッド、という小さな辺境の村にとある赤髪の少女がいた。
リーシェ。それが少女の名前だ。
生まれたのは、現在地であるビーグリッドではない。実の親に捨てられてスティという人に拾ってもらった。スティは四十後半くらいのおばさんだ。
スティに拾われこの村で生活するようになってから早十年。先月、無事十四歳になった。
リーシェの朝は早い。
日が昇る前にスティの家から二キロ離れた村の中央の井戸まで、荷台を引っ張って一日分の水を汲みに行く。帰ったら鶏小屋の鶏から新鮮な卵を、裏庭の畑から新鮮な野菜を、畑の柵に繋いだ山羊からミルクを頂く。
採取した食材を台所の卓上に置く。狭い家を裸足で駆け二階の寝室へ向かった。朝に弱いスティがくるまっている布団をひっぺがし外の物干し竿にかける。
昨夜のうちに、除菌・殺菌効果のある薬草を溶かした水に浸けておいた。服や肌着も一緒に干してから、家へ戻ると朝食を置く皿と木で作ったスプーンを並べて、もう一度スティを呼びに走る。
「スティおばさん、起きてください。太陽が昇ってしまいます」
ビーグリッドには、太陽が昇りきる前に夢から覚めないと永遠に目覚められなくなる、という言い伝えのようなものがある。
太陽はもう半分ほど顔を出していた。今すぐ起きないとスティは永眠してしまう。
彼女もそれは分かっているので、目蓋を眠そうに擦りながら寝台から足を下ろした。
「スティおばさん、おはようございます。眠れましたか?」
「うっさいね……」
次の瞬間、リーシェの耳がキーンと鳴った。ビリビリと鼓膜が痛むのを自覚した。
リーシェは尻餅をつきながら熱を持った頬を押さえる。
見上げた先には、冷めた眼差しのスティがいた。
「朝の仕事が終わったんなら、とっとと川へお行き。水浴びを済ませたら、鶏小屋の掃除、山羊の散歩もして、畑の整備。あと、お昼までに村からパンを買ってきな」
「で、ですがおばさん!私、まだ朝食を食べていません!」
赤くなっているだろう頬を抑えながらリーシェは訴えた。
十四歳、育ち盛りの時期だ。
約二時間動き続けて、体は既に疲弊、空腹は限界に近いものがあった。
それなのに、何も食べず掃除と山羊の散歩に畑の整備、加えて二キロ離れた村までパンを買いに行くなんて苦行すぎる。
しかも、今は一年でもっとも暑い季節だ。余計に体力を補給しなければならないのに。
命に関わりそうな事態に本能が警鐘を鳴らした。スティを見上げる視線に険が籠ってしまったことにリーシェは気づいていなかった。
スティから見れば挑戦的な視線にさらに苛立って、リーシェの無造作に伸びた赤髪を荒々しく掴む。
「生意気な小娘だね!あたしが何で獣道に捨てられていた薄汚いあんたを拾ったか分かるかい?一家に畑一棟、鶏三羽、山羊一匹の風習の管理をさせるためさ!奴隷と何も変わらない!納屋に寝床を用意してやってるのに、今度はあたしの朝食まで要求するのかい!なんて欲深い子だろうね!」
「ちっ、違います!少し、分けてくれるだけでいいんです!このままでは、お仕事ができなくなってしまいます!」
「黙りなさい!口答えなんて何様のつもり!?大体、あんたが洗濯に手間取っているせいで、あたしが急いで起きなきゃいけない羽目になったじゃない!朝食抜きはその罰でもあるんだ!分かったら、とっとと川へお行き!!」
とんでもない力で首根っこを捕まれて二階の窓から放り投げられる。
幸い落ちたのは柔らかい畑の土の上だったが、腰を打った鈍痛が、リーシェの緑色の瞳に涙を滲ませた。
「……っ!痛……い……」
動かそうとした肩に激痛が走って見てみると、右肩が脱臼していた。
二年前に脱臼したので癖がついてしまったのか、リーシェの肩はちょっとした衝撃でも簡単に外れてしまう。
今までずっと、どんな仕打ちを受けても頑張ってきた。
「前向きでいれば、必ず幸せが返って来る」と信じているからだ。
誰から言われた言葉だっただろうか。それくらい、心の奥底に朧気に浮かんで、強く刷り込まれている考え方だった。
辛い時も痛い時も悲しい時も、ポジティブでいれば乗り越えられると、記憶にない誰かは教えてくれた。
少女は理由もなくその言葉を信じていた。
その言葉を心の拠り所にすらしていた。
まるで無条件に親の言葉を信じる子供のように。
(あぁ。だけど……)
今だけは、悲哀の海に身を投げ出しても構わないだろうか。
かけがえの無い言葉を教えてくれた誰かも、怒らないだろうか。
十年耐えた。身も心ももうボロボロ。このままここで頑張り続けても、いつか限界が来てしまう。
だから、逃げよう。
浅く息を吸って唇を震わせると、リーシェは立ち上がった。
痛む腰と肩を押さえて少し離れた川へ行くと、ボロボロの袖口を噛んで右肩を嵌めた。腫れを押さえる効果のある薬草を摘んで石ですり潰し、薬液を川の水と一緒に飲む。
味のついた水を飲むことで空腹を紛らわせようと考えたのだ。
すり潰された薬草は右肩に固定して括り、強引に嵌めた腕の回復を手伝ってもらう。
自己治癒と薬草で地道に治すので、完治にしばらくかかるだろう。
膝まで川に浸かり、透明な水面に写る自分を見つめる。
何の特徴もない平均的な顔立ち。綺麗に整えていればもう少しマシだろうが、今は土と涙に汚れていた。
水を汲んだ両手も極端に細く、全身は骨が浮き出ている。
情けない音がお腹から小さく響いた。
「ハハッ……。馬鹿だなぁ、私……」
水面を揺らす水滴は頬を伝う涙だ。
川をうっすら赤くさせるのは、身体中にある傷口がいくつか開いたせいで流れた血だろう。
自分が纏っている布切れのような服と自分は、何も変わらない。
くたびれて、使えなくなるのを待つだけのただの道具だ。
胸に去来する感情を、リーシェは心底疎ましく思う。
感情なんてなければ、こんな風に悲しむことも苦しいと感じることもなかった。かわりに喜びも失ってしまうけれど、辛いことばかり感じる方がよっぽど嫌だ。
感情がなければ。この仕打ちを普通だと思うことができたのなら、自分はもっと強くなれたに違いない。
「この川は、どこまで行くのかな……?」
今も足元を流れていく美しい川は、森を抜けてどこへ行くのだろう。
今の苦しみから解放してくれるだろうか。
いや、もういっそ殺してくれ。
何もかもない場所に、ただ平穏だけがある場所へ、連れていってくれ。
気がつけば足から力が抜けて、流れに逆らうことなくリーシェの小さな体は川底を滑るように移動していた。
(どうかこの先に、優しい場所がありますように……)
遠退く意識でただそれだけを願って。
目を閉じて、目蓋の裏には望んでいる日々が描かれている。
鍬を握って土を耕して、周りにはたくさんの人々が笑っていて、自分も笑っている。
一番近くには、黒髪の少年がいて穏やかな黄金色の瞳でリーシェを見ていた。
意識がシャットダウンする間際に見えた光景は蜃気楼のように一瞬で消えていく。
ただの夢なのか、それとも未来で本当に起こることなのか。
自分は川を流れているのに全く死ぬ気がしなかったのは、その平穏な景色のおかげなのかもしれなかった。
少女は進む。
ただ、平穏な日々を願って水に体を揺蕩わせた。