三日月の鎮魂歌
重い足を引き摺ってラピスは先に向かったアズリカとシノブの後を追った。ここで立ち止まる訳には行かないと折れた心を叩き直して、ゆっくりとしかし確かな歩幅で前に進んでいく。
ラピスとアズリカがレヴィアタンと交戦するのと同時に、ルシャとラーズとアネロとアルロは次の眷属との戦いに赴いた。きっと、もうとっくに戦闘は開始されている。もしかしたら既に勝敗が決しているかもしれない。
ベルゼバブ。ベルフェゴール。レヴィアタン。三名の眷属の撃破に成功した。
アスモデウスとサタンは既にいないため、残る『セブンスロード』の数は二となっている。前世の記憶から予想して、『傲慢』の眷属は名はルシファー『強欲』の眷属の名はマモンだろう。
作戦開始前から分かっていたことだが、これは消耗戦だ。
敵は強く、こちら側は連戦を強いられる形となる。三名撃破においてルシャたちの体力はある程度温存されているだろうが、それがどこまで有効であるかが不明だ。
だからこそ連携して敵単体を叩くことが必須となってくる。
平穏な世界を創る。ラピスはリーシェの意志を受け継いで、涙に濡れたままの目を見開いて足を動かし続ける。
そうして目の前に見えた重厚な扉を、力任せに破壊した。耳を劈く轟音を気にも留めず戦場へと足を踏み入れる。
勝敗は決していた。
敵は一人。その足元にバラバラに転がる傷だらけの仲間たち。アズリカは最も手酷くダメージを受け、大きな釘で両腕を壁に縫い付けられていた。ラピスの脳裏にアダムの十字架のイメージが過ぎる。
「む……またか。次から次へと蛆のように湧きおって、面倒極まりない」
ところどころ負傷しながらも、背筋を伸ばして立っている眷属は赤い瞳を気だるげにラピスへ注いだ。
「あぁ『知』の小僧か。『技』の方は死んだそうだな。まったく哀れな小娘よ。大人しくアスモデウスに従っておれば良かろうに。やはり愚者は真っ先に死ぬ運命にあるようだ」
「だ……ま、れッ!お前に、リーシェの何がッ……分かる……!?」
血塗れのアズリカが眷属に犬歯を剥いた。ゴミ虫でも見るような瞳で青年を見た眷属は、人差し指をクイッと動かす。たったそれだけで壁に打ち付けられていたアズリカが勢いよく地面に落とされた。
釘を抜いたのか、否。釘は壁に刺さったままだ。腕も変わらずそこにある。
アズリカの体だけが地に伏していた。
「ア"ア"ア"ア"ア"ア"アッ!!!」
この世の終わりのような叫喚がラピスの鼓膜を揺らす。強引に壁から開放されたアズリカの両腕は、二の腕の半ばほどから裂け千切れたように失われていた。夥しい量の鮮血が近くに倒れるルシャの髪を真紅に変えていく。
青年の叫びをまるで微風のように受け止めた眷属は、長い銀水色の髪を弄りながらつまらなそうに言った。
「そういえば其方だけ俺より高い場所にいたな。矮小なる身で俺より上にいようなど、不心得も甚だしい。頭が高いぞ」
その態度。その言動。あれは間違いなく『傲慢』の眷属ルシファーだ。中性的な風貌をしているが、声質や骨格を見る限り男のようだ。
アズリカの出血を『知の力』で止めながら、ラピスは焦燥を冷や汗にして額から流した。
「ほう、多少離れていても作用できるのだな。止めはせん。早く助けねば大事な仲間が死んでしまうぞ?」
まるで招き入れるようにアズリカへの道を開けるルシファー。ラピスは警戒しつつも彼から少し離れた場所を走り抜け、青年の容態を確認した。
酷い状態だ。生きているのが不思議なほどに。雑に欠損した両腕。右の足は骨が砕けている。エンチャントで治すことはできるだろうが時間がかかる。その間にアズリカの生命力が続くかどうか微妙なところだ。
血を止めて痛覚を鈍くしてやると、苦痛に満ちていたアズリカの顔色は幾分かマシになった。
「ラピス。アズリカは……殺されそうになっていた俺たちを庇い続けて戦った。こいつがいなければ、俺たちは今頃全滅している……!」
処置をするラピスの服の裾を引っ張って、荒い息を漏らしながら伝えてくれたのはルシャだ。彼自身も片足が切り飛ばされている。自力で止血したのか、服の切れ端が包帯代わりに巻かれていた。
「奴はルシファー。気をつけろ……奴と『強欲』のマモンは眷属の中でも別格だぞ」
そうでなければこんな状況にはならない。ラピスと共同作業だったとはいえ、アズリカはレヴィアタンを圧倒していた。青年は強い。しかしその強さは、さらに上の強者に叩き潰された。
「アネロとアルロはラーズが守り続けたから……比較的傷は浅い。だがラーズは危険な状態だろう。……ラピス、ルシファーと戦うのなら最初から全力で行け……!少しでも集中を切ればすぐに足元を掬われるぞ……」
力が入らなくなったのか、裾を掴んでいた手が滑り落ちる。荒い息をするだけになったルシャの短く礼を告げて、ラピスはルシファーと対峙した。
「やめておけ、時間の無駄であろう」
目に見えている結末に辟易したようにルシファーは溜息をついた。ラピスだって敗北の未来しか見えない。けれどそれがどうしたと、不敵に笑ってみせる。
「確定した結末。覆るはずのない終焉。ひっくり返せない状況と圧倒的な力の差。……フッ、上等じゃないか」
この程度の修羅場、何度だってあった。その度に血反吐を吐く思いをしながら乗り越えてきた。
共に死線を越えた少女はもういないけれど、せめて次に会う時、胸を張って名前を呼べるように……。
ラピスは笑いながら己を最大強化させた。
生成した剣を振りかぶる。三日月をイメージして作った長剣は、『ルナ・シュヴァリエ』の装備品でもある。ラピスが初めて王族の権限を使って編成した騎士団は既に解体されて久しい。
リーシェを助けアズリカと出会った、三人の原点に立ち会った剣はラピスにとって特別な意味を持つ。
三人の旅の始まりを照らしたのは太陽でも満月でもない。魔人族が青空を願って造り出した宝石の輝きを反射した、三日月の煌めきだった。
集中力を切らせば終わりだと言うなら、この一撃に全てを込める。
リーシェは亡く、アズリカも瀕死。もう三人が同じ屋根の下で笑い会う日は二度と訪れない。ならばもう、ここでこの剣が折れても構わない。
その代わり、三日月と引き換えに眷属の不遜顔だけは叩き斬る。
疾駆して目前に迫るラピスにルシファーは、双眸を爛々とさせて迎撃の体勢に入った。
ルシファーの右手が髪を一本引き抜く。息を吹きかけられ銀月色の髪は同色の槍へと形を変貌させた。
拮抗は一瞬。罅が入る音が異様に響く。銀月色に切り裂かれか細い悲鳴を上げる三日月の剣の破片が、ラピスの顔にいくつもの切り傷をつける。
淡い黄金色の雨と一緒に、静かな夜に浮かぶ月と同じ輝きの凶器が視界を覆う。
(ここで、死ぬ……?いいや)
頭の中に赤い髪を揺らして野菜畑を眺める少女の背中がぼんやりと浮かび上がる。振り向いた彼女の穏やかな笑顔がラピスの弱気になっていた心に火をつけた。
「ま、だだぁぁ!!」
額に鉄の硬さをエンチャントして頭で槍を受け止める。凄まじい衝撃が首に走り嫌な音が鳴った。込み上げてくる血を口の端から垂らしながら、なけなしの力を掻き集めて攻撃を押し返す。
「なんだとッ……!?」
ようやく聞こえたルシファーの焦った声に妙な達成感を抱いて、少年は右手自体を剣に変化させて襲いかかった。
金属質に変わった右腕が眷属の体に届く直前、不意の衝撃とともに左右の重さのバランスが変わる。
「ぇ……?」
右から崩れ落ちたラピスは小さく困惑の声を漏らした後、灼熱の暑さにのたうち回った。
右腕がなかった。肩から綺麗に斬られ、断面が潰れることもなく腕が消失している。
「ガッ……ア"、な、にをっ……」
「あの程度で勝った気になったのか?大間抜けな賢者よなぁ。腕を剣に変えるくらいなら不要かと思うてな。ほれ、この通りスッパリ斬ってやったぞ」
歌うように言いながらラピスに近づくルシファー。左手には刃になったラピスの右腕がつままれていた。
「さて、余興も終わった。なかなか楽しかったぞ、貴様ら。来世ではもう少しまともな頭を持って生まれてくるが良い」
まるでアズリカがレヴィアタンにしたように、ラピスの眉間に斬り飛ばされた右腕の切っ先が添えられる。
最大限の嘲笑を浮かべてルシファーは言い放つ。
「じゃあな、大馬鹿な裸の王よ」
「それはあなたの自己紹介でしょうか」
声が聞こえた。痛みと悔しさと僅かな安堵で遠くなっていた聴覚に、聞こえるはずがない声が届いた。
視界から掻き消えるように回避行動を取るルシファー。ルシファーと入れ替わりでラピスの傍に現れる赤い髪の少女。
「ぁ……」
翡翠ではない木漏れ日のような両目と目が合った。
見慣れない色だけど間違いない。
この髪もこの気配もこの微笑みも。全てが愛しいあの少女のものだから。
「大丈夫ですか、ラピス」
死んだと思っていた。確実に死んでいたはずのリーシェが隣に立っていた。





