それでも私は生きていく
流れる小川。そよぐ草花。囀る鳥と注ぐ穏やかな日差し。
春、という言葉が最も似合う空間がリーシェたちを出迎えた。屋内のはずなのに大自然の中に放り出されたような感覚に陥る。
目の前の景色はセルタで過ごした、今はもう遠くに感じる穏やかな暮らしを連想させる。郷愁に駆られた胸が切なく締まり、それから目を逸らすようにそっと息を吐いた。
リーシェの目的は世界を平穏にし、神を討伐すること。セルタでの平穏な日々は目的を達成させた時の自分へのご褒美だ。
帰りたい、と少しだけ顔を覗かせた本心を押し留めて、リーシェは前を歩くレヴィアタンの背中に話しかけた。
「どこに向かっているのですか?」
「どこ、というはっきりとした場所は決めていませんわ。向かっているのは、あなた方が最初に"お話"すべき眷属がいそうな場所です」
「お話?何か勘違いしていませんか。私たちは相談に来たのではなく、眷属を無力化しに来たのです」
「ただのお話にはなりませんわ。物事は何事も順序が大切、と言いますでしょう?お話をして見事我ら眷属を屈服させてごらんになってください」
日傘を差した金髪の少女は歌うような声で言った。そこに、最初に邂逅した時のような憎しみめいた色はない。様々なことに悩んで相談に来る民たちを相手のするかのような雰囲気だった。
歌いかけるように、語りかけるように話す少女は、妖しく煌めく赤い瞳を前方に聳える大木へ向けた。
「ベルブ、ゼバブ。お客様ですよ」
しばらくの沈黙の後、大木から幼い声が聞こえた。
「え〜……降りるの面倒臭い……」
「ね〜。登るのは良いんだけどね……降りるのはね」
「今すぐ降りてきたら次の掃除当番、変わって差し上げますけど」
「ん……どうするゼバブ?」
「ね……迷っちゃうねベルブ」
「掃除はもっと面倒だよ」
「レヴィアタンの癇癪も面倒だね」
「さっさとお決めになって」
声のトーンが一段階下がったレヴィアタンに、やがて木の上がガザガサと動き始める。
いかにも面倒くさそうな様子で現れたのは、瓜二つの銀髪の双子だった。まだ十にも満たない幼い外見をしている。眷属の象徴とも言える深紅の瞳は、無垢に輝いていた。
「僕、ベルブ〜」
「俺はゼバブ〜」
「二人揃って『怠惰』の眷属」
「ベルゼバブです。よろしくね」
自己紹介をされたが二人の見分けがさっぱりつかない。髪のハネが若干違う程度だ。
こんな子供の何を眷属の人格は見初めたのだろう。いや、そもそもあの少年たちの元の人格はどうなっているのか。眷属としての名前を名乗っているということは、今、表に出てきている人格はベルゼバブのものなのだろうか。
戸惑うリーシェたちを置いてレヴィアタンは退場した。大木の向こうにある扉の向こうへ消えた白い背中から目を離し、リーシェは口を開く。
「えっと……、あなたたちは間違いなく眷属なのですよね?」
「そうだよ〜。僕たちはベルゼバブ。『怠惰』を司る眷属。元の人格と眷属の人格が完全に融合してるから、先に進みたいなら僕たちを殺して行って」
「……っ!」
「子供だから殺せない?それでも良いよ。俺たちは、面倒なの大嫌い。動くのも面倒、歩くのも面倒、走るのも、飛び跳ねるのだって面倒。お話も戦いも面倒臭くて大嫌いだから、お姉ちゃんたちが俺たちと戦えないなら万々歳だね」
葛藤に苛まれる。
これまでの戦いは、お互いの信念や事情があったから全力で武器を交わせることができた。何かしらの理由や名分があったからこそ、時には殺すことだってあった。
だけど今回は違う。
リーシェとベルブたちの間にしがらみはない。対峙した少年たちが眷属だっただけ。しかも彼らは民の相談にも乗っている。明確な『悪』を感じないせいでリーシェは武器を握ることができなかった。
後ろにいるラピスとアズリカも僅かに躊躇う様子を見せていた。ルシャとシノブはリーシェの選択を待っているらしく動く気配はない。ラーズとアネロとアルロは、リーシェが殺せないなら自分たちが行くと目で語っていた。
躊躇するリーシェに少年たちが近づく。
そして悪魔の囁きのように耳元で話し始めた。
「大変だね、お姉ちゃん」
「神様から勝手に力を授けられたせいで、まともに生きることすらできなくて」
「別にお姉ちゃんじゃなくても良かったんだ」
「そう。たまたま、力を与えられたのが君だっただけ」
「『伝説の力』さえなかったら、お姉ちゃんは普通の女の子だった」
「パパとママに捨てられることもなかった」
「暴力に怯える毎日だってなかったよ」
「理不尽に泣くことも」
「悲しみに怒ることも」
「今こうして、僕たちと対峙することもない」
「面倒だね。大変だね」
「不幸の元凶なんか捨てちゃえばいい」
「そうすればお姉ちゃんは自由になれる。俺たちとも争わなくたっていい」
「簡単だよ?『強欲』に委ねれば、全部奪ってくれる」
「そう。お姉ちゃんはもっと自由に生きられる。面倒なこと、何もしなくていい。お姉ちゃんがいなくたって、世界は回る」
「君がいなくたって、物事は問題なく進んでいく」
「だから、ね?」
「今は眠るといいよ。惰眠を貪って、欲のままに、心が望むままにダラダラ生きよう」
「戦うのはもう疲れたね」
「戦うことは君の宿命じゃない」
「平穏に生きることがお姉ちゃんの望みだよね」
「力を手放せはそれがすぐに手に入る」
「ほら。目を閉じて」
「全部、捨てちゃおうね」
声まで同じ二人の言葉が頭の中でグルグルと回る。
『伝説の力』がなければ両親に捨てられることなく、平穏な暮らしを謳歌できた。ただの人間の少女として一生を過ごしただろう。
スティの不器用な暴力に心を壊すこともなかった。
キージスの企みに多くの『大切』を利用されることもなかった。
グレイスたちとの関係だってもっと良好にできたかもしれない。
シルビアでの悲しみの惨劇を目の当たりにすることもなかった。
レリヤを雷で貫くこともなかった。
これまでの辛いことや悲しいことは、全部起こることはなかっただろう。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「眠く、ないの?」
「……『伝説の力』がなければ平穏に暮らせたのは、紛れもない事実ですね。ですが、この力がなければ、これまでの楽しいこともなかったというのも、紛れもない事実です」
慈しむ笑みを口元に浮かべたリーシェに、少年たちは表情を消した。
「私は、冒険をしました。守りたい仲間ができて、笑い合える友達もできて……そして、私は恋をしました。我が身よりも大切な人たちがたくさんいます。『伝説の力』がなくてもそういった人達は作れたでしょう。ですが、この胸にある大きな想いは決して作れなかった。守りたい仲間も笑い合う友も、愛する人も誰でも良いわけじゃありません。彼らだから、彼女たちだから、私は守りたいと思ったのです」
思い返すのはこれまでの日々。確かに辛いことも苦しいことも多くあった。死にかけたことだって何回もある。
だけど、それ以上に多くの喜楽を感じてきた。
あったかもしれない幸福に興味が無いといえば嘘になる。しかし、その幸福にリーシェはきっと満足はしなかっただろう。何だかんだ、旅をすることが好きだから。
『伝説の力』も王族の証とも言える『重力魔法』も、全てひっくるめてリーシェなのだ。無かったことになんてできないし、無くしてしまったらそれはリーシェではない。
「血に染ったこの手はもう綺麗になりません。どれだけ洗おうと、見えない錆色が着いて回ります。ですがそれで良いのです。私は、私が奪った命から目を逸らすつもりはありません。全部背負うと決めているのです。だから……」
リーシェの周りを稲妻が走る。空気を引き裂く雷鳴に、俊敏な動きでゼバブとベルブが後退する。
巻き起こる空気の震えに赤髪を揺らして、氷腕に戦斧を構える。
「あなたたち眷属の命も、背負って生きていきます」
長剣ではない、リーシェが全力で戦う時の武器に、背後から安堵の息が漏れた。
仲間たちがそれぞれの武器を構えて並び立った。
戦う意思を明確に宿した八人に、ベルブとゼバブは面倒臭そうに顔を歪めた。





