ラピスvsフェンリル
戦いの狂戦士と化したラピスの内側では、二つの人格が向き合っていた。
どちらも見事な漆黒の髪だ。黒曜石のような瞳と満月のような瞳がお互いを見つめ合い、空気をピリつかせる。
実体はない精神体同士が作る沈黙は、先に黒い瞳の青年が破った。
『俺を拒絶したのに……』
怒りと寂しさが綯い交ぜになった声音に、黄金の目の少年が瞼の奥に月を隠す。まるで懺悔するかのように、少年は項垂れた。
「そうだ。俺はお前を拒絶した。散々知識を利用して拒絶した。素直に認めるよ、俺は卑怯者でご都合主義だ」
顔を上げたラピスは真っ直ぐ、セトダイキを見る。
「だから今ばかりは昔の俺になろう。セトダイキ、宙に魅入られた者。俺に力を貸せ」
『……傲慢だな』
「あぁ。俺は傲慢だ」
『それに不遜だ』
「何も間違ってない」
『俺は宙に行きたいんだ』
不意に漆黒の目が何も無い上空を見上げる。その瞳にはまるで星が映っているかのように、黒色を煌めかせていた。
『お前は言ったな。俺を宇宙に連れて行くと。どれだけ難しかろうが、成し遂げてみせると』
そう言ったのは、ダンジョンでドライアドに泉に突き落とされた時だ。ラピスはセトと宇宙に行く約束をしていた。
実現の目処が立っていない目標にラピスは口を閉ざす。それの構わず、セトは言葉を続けた。
『お前の言葉、疑っちゃいないさ。お前ならきっと果たしてくれるだろう。そのための力がお前には足りないんだけで』
「……そうだ、俺には力が足りない。何においても誰かから劣る。神に授けられたこの力すら、一番じゃない。だけどもしもお前が助けてくれるなら、俺は何か一つ一番になれるだろう。宇宙に魅入られ、星海に身を捧げたお前がいれば、空に関する事柄において俺は最優となる」
故にラピスがセトに望むのは「完全なる人格の統合」だ。これまでは別人格として存在したことで、必要な知識をセトの記憶から拾う必要があった。リーシェ風に例えるなら、野菜の苗があるのにわざわざ種から育てるようなものだ。要は効率が悪い。
人格を統合させることで、引き出しから記憶を探るという手間がなくなり、さらには二等分されていた神性が一つにまとまる。
結果的にラピスは半神半人になる、という理論を構築していた。
ラピスの存在価値を高め、ラピスの自己肯定感を著しく低くさせたセトダイキの人格。約束は頭に入れつつ、ラズリの一件以降無いもののように目を背けていた。
人格が統合されれば既に死者であるセトの人格は消えるだろう。セトからすれば『知識は必要だがお前はいらないから消えろ』と言われているのと同じ。そしてラピスはそれを無慈悲に求めている。
力が欲しいから。リーシェを守りたいから。
傲慢不遜に物を言い、命令口調で死者へ告げる。
ラピスとセトが共に過した時間は実に十五年。
赤子の頃からラピスを見守り続けたセトには、親心とよく似た感情が芽生えていた。
王族として、発展の主として、利用され縛られて死んだように生きてきたラピスを知っている。
監視していた少女が消えて焦ったラピスを見守ってきた。
リーシェと出会って変わっていったラピスを助けてきた。
自身の業と向き合いたくさん苦しんだラピスを。リーシェに想いを告げて明るくなったラピスを。
セトはいつしか応援していた。
宇宙にしか興味がなかったはずだ。赤緑の彗星にしか心が動かなかったはずだ。他人の幸福なんて一番どうでも良い事柄のはずだった。
宙を見たい。星海に抱かれたい。あの暗くて明るい、不自由で自由な、どこまでも広くてどこにも逃げ場のないあの場所へ行きたい。この想いに偽りも翳りもない。
しかし、それらを全てラピスに託して眠るのも悪くないと思った。
セトダイキはラピスに笑いかける。
穏やかに。力強く。温かく。まるで、父親のように。
『分かった。俺の想い。俺の知恵。俺の思い出。全部、ラピスに開け渡そう』
ラピスの目が大きく見開かれた。きっと身勝手な要求だから拒否されるだろうと考えていたのだ。
願ってもない返答に少年は顔を輝かせた。
「本当にいいのか!?」
『いいさ。俺はもうとっくの昔に死んでるんだ。死者は生者に想いを託して退場しなきゃな』
「セト……」
『ラピス。頑張れよ。それと、今までありがとうな』
セトの精神体が光の粒となって消えていく。ホタルの光にもよく似た美しい光玉が、ラピスの精神体に吸い込まれていく。
少年の身体は昇華された。分かたれていた神性は統合され、半神となる条件を難なく達成させる。
生まれ変わったラピスの心は、理性となって狂戦士の肉体へ戻っていった。
☆*☆*☆*
少年の形を模した獣が纏う雰囲気を一変したことを、殴り合っていたフェンリルはすぐに気づいた。その頬には切り傷が走り、体も所々血が滲んでいる。
バーサーカーとなってなお戦略的な動きを取る獣に対し、フェンリルは焦りを感じていた。
一旦距離を取り、荒い息を繰り返す少年を観察する。
戦いの最中、唸るばかりで言葉を発することがなかった獣の目に、理性の光が宿っていた。
「狂戦士化のタイムリミット?いや、違うな」
何かを確かめるように両手を見つめるラピスを観察し、最初の予想を捨てる。
フェンリルが強く感じ取ったのは、リーシェと遜色のない半神の気配だ。捨てられたはずの理性は獣の中で何かをしていたらしい。
何をどうすればあれほどまでに飛躍的な強化ができるのか、フェンリルですら予想がつかなかった。
「うん。上手くいったみたいだな」
確認し終えたラピスが満足気な笑みを浮かべる。
半神へ身を昇華させたラピスに、神殺しの狼は大きく本能的な笑顔を向けた。
フェンリルの本領が発揮されるのは、敵が半神へ至った伝説の存在の時だ。ラピスが昇華されたことは、フェンリルの優位性が絶対的なものになったのと同義だった。
「貴様、良いのか?己を不利にして」
「不利?お前、何か勘違いしていないか?」
フェンリルの挑発にラピスは挑発で返した。
「俺が頼るのは半神の力じゃない。心命を譲ってくれた星詠の力だ」
そこまで言うと彼は上空へ向けてフッと息を吹きかけた。たったそれだけで異空間が破れ、満開の星空が姿を表す。
雨と霧がいつでもあるはずの空は、なぜか雲一つ存在していない。
「これは……なんだ?なぜ空がある?」
「本物の空じゃない。これは、星空そのものを雨空に付与させたんだ。つまり、俺たちの上には今、二重の空がある」
「空に空をエンチャントしただと!?そんなこと、不可能だ!空は未知なんだぞ!」
「俺なら知っている。空の仕組み。星の位置。瞬きの美しさ。そしてその偉大さを」
傷だらけの頬を持ち上げてラピスは不遜に笑った。
「終わりにしようか、嘘つき狼。……あぁ、そういえば俺の記憶にはこんな物語がある」
満天の星を背に背負い、フェンリルすらも圧倒する威圧感を放ちながらラピスは言った。
「赤ずきんの少女を騙した狼は悲惨な最期を迎えるらしい。ほら、お前に似合いの物語じゃないか」
星が瞬く。二つの月に殺気が込められる。
ラピスが創り出した限りなく本物に近い空が、凝縮し弓矢へ形を変える。夜空は弓へ、星は矢へ。月光で編まれた蒼銀の弦が引かれ、褐色の青年を寸分違わず狙い定める。
フェンリルは逃げようとした。獣の本能に従い、その場から疾駆しようとした。しかし、足が動かない。何かに縫い付けられたように。足の動かし方を忘れたように。フェンリルは動くことができなかった。
「チェックメイトだ!星に穿たれて死ね!」
その言葉を最期に、フェンリルの腹を途方もないエネルギーが穿ち貫いていった。





