キージスとの取引
「リーシェがいなくなった?」
真紅の髪の少女が消えたことに気づいたフェンリルの声がけにより、アズリカたちは再び会議室に集まっていた。
先程まではクッキーが乗っていた皿の裏には、既に焼きたてのパンケーキが用意されている。果肉を含んだスポンジはしっとりとしていて、フェンリルは舌づつみを打っていた。
指についたケーキの破片を舐め取りながら褐色肌の青年は頷いた。
「あぁ。だが部屋から出た形跡はない。突然フッと気配が消えた」
「ラピス。お前、リーシェの位置を探れたよな?」
アズリカの問いに、少年は肯定しつつも困惑した。
はっきりしない様子に首を傾げるとラピスは眉を寄せてこう言った。
「生きているのは確認できるが場所が全く定まらない。ノイズが走っているような感覚だ」
「現在地が時空の裏側、ということだな」
ラピスの説明がイマイチ理解できなかったアズリカに、フェンリルが補足説明をする。
その内容はただの魔人である青年にとって絶望的なことだった。
「時空の裏側は『伝説の存在』であろうと許可なく出入りを許されない場所だ。キージスに連れていかれた可能性が高い」
「そんなのどうやって助けに行けばいいんだよ!」
思わず声が荒くなる。
焦るアズリカとは対照的に、フェンリルの瞳はどこまでも冷めていた。
「落ち着け草頭。手がない訳では無い」
「キージスがなぜ城内に侵入しているのかは後回しにするとして。助けに行ける見込みはあるんだろうな?」
アズリカと比べればまだ冷静なラピスが、鋭い目で神殺しを見つめた。
「私がいるのだぞ?次元を超えるくらい造作もない」
「フェンリル。この期に及んでもまだ、お前は正体を明かさないのか?」
神殺しの獣。人の姿を取り、同じ言葉を喋り、同じものを食らう正体不明の者。キージスは入り込めて、『伝説の存在』は入り込めない空間への干渉が可能である、規格外の男。
流石にその正体を知らないまま話を聞くのもそろそろ限界だった。
アズリカの険の篭った視線に、やがてフェンリルは嘆息した。
最後のパンケーキを一口で平らげると、大仰な手振りで笑みを浮かべる。
「では正式に名乗るとしよう。私は神殺しのフェンリル。唯一絶対神が蓄積した負の感情から生まれた者である」
☆*☆*☆*
硬い床がリーシェを眠りから覚ました。
妙に軽い体を腕で持ち上げて起き上がる。顔を上げた先には、椅子に座って優雅にカップに口をつける青髪の男がいた。
「おや。おはようございます」
「なぜ私を眠らせたんですか?」
「その方が都合が良かったもので。案内している背中を背後から一突きされては、目も当てられませんからねぇ」
立ち上がったリーシェを男は自分と向かいの椅子へ促した。
すでにカップが用意され冷たいお茶で満たされている。銀のカップを使っているのは、毒の危険性がないことを示すためだろう。
白いシンプルな椅子に腰掛けて乾いた喉を潤す。爽やかな柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。
「……驚きました」
「何がです?」
リーシェの驚愕にキージスが静かに反応を示す。
「あなたが丁寧なのは口調だけかと思っていました。改めて見てみると、所作が洗練されているのですね」
素直な感想を口にする。敵を褒めるようで不本意だが、思ったことはすぐに口や顔に出るのがリーシェだった。
「わたくしは神に仕える身ですからねぇ。粗相は許されないのですよ」
「締りのない語尾さえなければ外面は完璧ですね。……いや、顔が性格の悪さを物語っているので手遅れです」
彼特有の笑顔を見て評価を改めるリーシェ。結局キージスの評価はプラマイゼロであった。
「あなたも随分口が悪くなったものだ。わたくしとしては妙な仮面をつけているより清々しいですけどね」
「あなたの評価はどうでも良いです。それで?ここはどこなんです?」
「ここはわたくしが張った『異次元結界』の中ですよ。神の眷属やそれに類する者が、一定の強さに到達することで初めて使用を許可される……いわば神の居城に最も近き場所です」
ここから神の元へは行けませんけどねぇ、と付け足して彼は再びカップに唇をつける。
来ている服が執事っぽいのもあって、真顔で黙ってさえいれば一枚の絵画のようであった。
なんてリーシェらしくもない感想を抱きつつ、本題へ入る。
「単刀直入に聞きます。スティおばさんの本当の目的は何ですか?」
「ついてきてくれたので勿体ぶらずにお話致しましょう。スティの目的自体はあなたの認識通りのものです。しかし彼女は幼いあなたを育てていく過程で、情が芽生えてしまっただけのこと」
「情?」
「忠実なる神の眷属として目的を達成させたい気持ちと。何も分からない健気なあなたを助けたい気持ち。それらが複雑に絡んで、たまに助ける様な真似をしたのです」
スティは意地悪で姑息な人だった。暴力に耐えるので精一杯だったリーシェにとって、彼女は悪でしか無かった。
だが話を聞くとスティは、スティなりに悩んで不器用に愛してくれたのではと思ってしまう。
だからといって、リーシェにしたことが許される訳では無い。
だけど、心の中でスティに対する感情が少しだけ変化したのをリーシェは自覚した。
「あなたが川に身を投げるのもスティは見ていました。見ていた上で逃がしたのです。知っていましたか?彼女は役割上中年女性の格好をしていましたが、実際の姿はとても若々しく穏やかな顔をしているのですよ」
「知っているわけないじゃないですか。
スティおばさん、いいえ……スティさんは私を守っていてくれたのですか?」
「結果的に言えばそうです。ただ神への忠誠心からあなたと敵対しただけですよ。哀れな眷属でしたねぇ」
歪んだ笑顔に嘲笑の色が浮かぶのをリーシェは見逃さなかった。
射殺しそうな目にキージスは嗜虐的な微笑みを向けた。
「ねぇリーシェさん。一つお願いをしてもよろしいですか?」
「内容を聞いてから判断します」
「あなたにはこの結界内に留まって欲しいのです」
「なぜですか?私と二人きりでいたらあなた近日中に殺されますよ」
「構いませんよ。結界内に留まってさえ居てくれれば、今後一切リーシェさんのお仲間に手出しはしないと約束しましょう」
「! その話を信じる材料がありません」
動揺したリーシェだったがすぐに冷静になり、隙のない視線でキージスを睨みつける。
すると彼は懐から何かを取り出した。
「それは!」
「お察しの通り『知の力』の神性石です。これをラピスさんにお返ししましょう。それとあなたが条件を飲んでくださるのなら、いずれ『技の力』の神性石もお渡ししますよ」
言っている途中で『知の力』の宝石がフッと消える。キージスが何らかの方法でラピスの元へ転送したのだろう。
これに加え、リーシェの手元にも宝石が戻ってきて彼の危険性は一気に弱まるはずだ。
しかもラピスやアズリカたちに手出しはしないという。
「あなたのメリットがありません」
上手すぎる話にリーシェは警戒する。
毛を逆立てる猫を見るような目でキージスはニッコリと笑った。
「一つ言い忘れましたねぇ。リーシェさん、留まっている間、この指輪をつけてはくれませんか?」
白い丸テーブルの上に置かれたのは、不思議な色の石が嵌められた指輪だった。
「怪しいものではありませんよ。あなたが結界内にいるかどうかわたくしに教えてくれるものです」
「……監視道具というわけですか」
リーシェはしばらく考えた。
留まっている間、キージスを攻撃することは禁じられていない。つまり術者を殺せば結界は解かれ、リーシェはラピスたちがいる次元に帰ることができるだろう。
キージスも始末できて、この男の魔の手がラピスたちに及ぶことも無い。それに情報も聞き出すことができるだろう。
監視されるようだが、リーシェは幼少の頃からずっと監視されて育っている。今更感が強くて、それほど重大なことにも感じなかった。
よってリーシェはキージスの提案を快諾する。
隙あらばその首を刎ねようと、受け入れた笑顔の裏で考えていた。





