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変わったもの変わらぬもの

 どこからか雨に打たれた葉のパタパタという音が聞こえる。


 変わってしまった少女の背中をしばらく無言で見つめていたラピス。そのよくキレる頭でリーシェの身に何が起きたのかを予想した。


 忘れようとして忘れた記憶と向き合ったことで、リーシェ本来の心が浮上してきたことは容易に想像がつく。

 だが、その浮上がどの程度のものなのかは見当がつかなかった。


 術に嵌る前までのリーシェの心は完全に沈んでしまったのか。それとも、変わったのは若干素っ気なくなった言葉遣いだけなのか。


 ラピスはリーシェのことをよく知っている。しかし、虐待を受けて育った十年の慟哭をリーシェの口から聞いたことは無い。


 辛かっただとか苦しかったというのは聞いたことはあるが、すぐに前向きな言葉によって深く考えさせられることはなかった。


 想像を絶する過酷な環境をどう乗り越えたのか。ラピスはずっとそれが気になっていた。


 日頃から暴力を受け、まともな食事は与えられず、正常なことなど何も無かったであろう日々。

 そんな毎日を過ごして、人格が正常であるはずがない。


 誰にでも優しくいつだって穏やかで、他者を救うためなら自己の犠牲も厭わない。誰かの喜びを自身の喜びとし、誰かの痛みを自身の痛みに感じる。

 まるで『聖女』のような人格を過酷な環境で構築できるはずがない。


 構築される人格として考えられるのは、聖女とはほとんど真逆のものだろう。

 他人に大きく損なわれたからこそ他人に興味はなく。誰かが泣いていようが気にも留めず。分け隔てない優しさなど持ち合わせない。


 では、今のリーシェは何を考えているのだろう。


 アズリカとの会話を見ても明確に変わっている点は突き放したような言い方くらいだ。

 敵に対しての対応は冷静になったという表現が正しい。


 分析を進めながらラピスはリーシェとレウスの問答に耳を傾けた。


「僕の目的はもう達成されている。リーシェ、君の人格を正常化させることだよ」


「私の人格の正常化、ですか」


「悪を許容せず悲劇を受け入れない。自分の痛みを厭わず自分の苦しみを受け入れる。自己犠牲の上に成り立っているのに、自己の理念を正当化させていた君は酷く気持ち悪かった」


 まるでこれまでのリーシェを全て知っているかのようにレウスは言った。

 普通に育った心優しい人物なら遜色なかったはずの人格も、リーシェの場合だと異常以外の何物でもない。


 認めたくなくても納得してしまう自分に嫌気が差し溜息を吐く。

 雨に打たれ続けている体が震え始めたが何かを言い出せる雰囲気ではなかった。


 だがラピスの不調にリーシェはすぐに気づいた。

 チラリと視線を向けると橙色の球体を投げてきた。


 触れても火傷しない焔の玉だった。

 人肌より少し高い温度に手のひらからじんわりと温かくなってくる。

 リーシェの優しさは健在だったが、同時にリーシェの異常さを痛感した。


 卑劣な環境で生きてきたなら心を壊し思いやりなど真っ先に無くなる。性根が歪み悪の道に進むのが容易に想像できる。


 だがリーシェは優しいままだ。人格は正常化されたのに、その存在は善であるままだ。


 固唾を飲んで状況を見守っているアズリカとグレイスにも玉を渡したリーシェは、雨で濡れた赤髪を掻き上げた。


「教科書通りにしただけです。生きるためには心を殺す必要がありました。あなたの目に……いえ、他人に目に私の姿がそのように映っていたなら教科書の道徳的な人間は異常だということでしょう」


「聞いてもいいかな」


「どうぞ」


「リーシェは殺人や窃盗をどう考えてる?」


 二人の間で流れていた空気がさらに張りつめる。何か特別な問いだったのか、リーシェは自嘲気味に笑った。

 ラピスの知っているリーシェなら考えるまでもなく全否定したはずだ。


 だが……。


「正当な理由があり他に手段がないのなら認められるでしょう」


 やはりリーシェの考え方は決定的に変わっていた。


「無意味な殺戮、無益な窃盗は看過できません。ですが生きるために必要な選択なら黙認しましょう」


「……リーシェ」


 途方に暮れたような声がラピスの口から漏れる。

 責める意味を込めた訳では無いがラピスの声をリーシェはどのように受け取ったのだろう。


 肩越しに向けられた瞳が寂しそうに伏せられた瞼に消えていく。


 しばらくしてレウスがリーシェに笑いかけた。


「そうか。君はやっと人間になったのか」


 意味深な言葉を言うと青年は指を鳴らした。

 数秒と経たずに霧の向こうから一頭の白馬が現れる。鬣は紫で額に白銀の角を生やした馬は暴れることなくレウスを背中に乗せた。


 限られた条件でしか『獣化』しないはずだが、あの神秘的な馬は獣人族ではないのだろうか。


「リーシェ。君には時間をかけてこの大陸を見て回ることをおすすめするよ」


「ええ。最初からそのつもりです。ところで……その馬はもしかしてルキアですか?」


『なぜ気づく……』


「勘です」


 リーシェは馬と知り合いだったのかどこか親しげに話し始めた。あの馬は獣人族だったらしい。


「条件を達成していなのに獣化している件については聞かないことにしておきます。別段、興味もないので」


「そう?本当に聞かなくていいの?」


「知るべきことであれば時は来れば自然と知るものです」


「ふ〜ん残念。じゃあねリーシェ、またどこかで会えるのを楽しみにしてるよ」


 言うだけ言って馬に乗ったレウスはあっという間に限に消えていった。

 この場に残されたのは、リーシェへの接し方が分からなくなった男三人と、無表情のリーシェだけだった。


 最初に口を開いたのはリーシェだった。


「体も冷えたし今度こそ宿を取りましょう。この雨じゃ野宿は難しそうです」


 淡い光を指先から放って戦いで負った傷を治してくれる少女は、少しだけ微笑んだ。

 周りに花が咲くような温かさは無くなったが、それでも十分にリーシェらしい笑みだった。


「この道は見覚えがあります。街までそう遠くないので着くまでその玉で我慢してくださいね」


「っ……なぁ!リーシェ」


 意を決したようにアズリカが呼びかける。

 先程から冷たくあしらわれていた青年は躊躇いがちに言った。


「お前はお前だろ?」


 その言葉にどれほどの思いを込めたのか。僅かに震えていた声にリーシェは静かに目を伏せた。


「はい、私は私です。……グレイス」


 呼び捨てにされたグレイスが肩を揺らす。


「な、なんだ」


「あなたは西の大陸へ戻って"あること"を調べてください」


「あること?」


「私の父について」


「……分かった。何か考えがあるのだろう?」


「報告は私が戻ってから聞きます。お願いしますね」


 グレイスへさらに多く焔の玉を渡すとリーシェはそれっきり何も話さなくなった。

 急いで転移ゲートへ向かうグレイスの背中を見送りもせず、真っ直ぐ街へ歩き始める。


 口数の減ったリーシェの背中が、ラピスにはなぜか痛々しく思えた。


 悪に染ることもなく、恐怖に怯え閉ざした心。それを取り戻したリーシェは、ただの傷つき明るさを失った少女だった。



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