第十話 収穫が楽しみです
リーシェが住んでいる家は山から引いた湧き水のお陰で、いつでもミネラルたっぷりの清水を得ることができる。
味も申し分なく、料理にも最適で、いつで冷たく澄んでいる。
ビーグリッドのスティおばさん宅では決して得られなかった清潔な水を、リーシェは鼻唄を歌いながら野菜にかけていた。
少しずつ背を高くしている芽を見て、そろそろ倒れないようにする支柱を立てねばと考える。
野菜作りは決して簡単ではない。
水をやりすぎれば枯れるし、肥料をあげすぎても枯れる。毎日、経過を観察し、丁寧に真心込めてお世話していても、病気になるときはなってしまう。
今のところ植えた野菜たちに病気が確認できていないのも、リーシェに農作業経験があったことと、セルタの土が改良されているおかげだろう。
トマトも茄子もじゃが芋も、このまま順調に実をつけて、美味しくできたらアンたちにも食べてもらおう。
二、三カ月後に予想した光景に一人満面の笑みを浮かべていると、不意に影が射した。
「?」
畑作業を開始する前に見た空には雲はほとんどなかったし、風も穏やかなので影が射すのはおかしい。
しかも、リーシェのいるところだけ翳っていて、他は明るく照らされている。
「何一人で笑っているんだ?」
ここ数日ですっかり聞き慣れた少年の声が頭上から降ってくる。
しゃがんだ状態のまま振り向くと案の定、ラピスがいた。
「おはようございます、ラピス様。昨夜は良くお眠りになられましたか?」
「ああ。ここの夜は過ごしやすいな。山が近くにあるからか?」
どうやらこの時期、王都は夜も蒸し暑いようで昼は暑く夜は涼しいセルタの気候が羨ましいらしい。
山が近くあるからなのか専門的なことはリーシェも分からないが、恐らく王子の予想は正解なのだろう。
疑問に確信が持てないで考え込んでいる少年の頭には、これまで多くの発明をしてきて叡知を駆使して様々な仮説が浮かんでいるに違いない。
少し下がったところで控えていた「爺」と呼ばれている側近の男性が答えた。
「都より北にあるというのもありますが、"魔境谷"からの冷気が流れてきているというのが大きいと思われます」
聞き慣れない単語だったが、王子には合点がいったらしく曇っていた顔をすっきりとさせている。
「そういえばあそこはここの近くに位置していたな。この辺の地形は大雑把な地図でしか見たことがなかったから、冷気が流れ込んでくるほど近くとは知らなかったな」
「あの……"魔境谷"とは?」
「ここより北にあるビーグリッドから、さらに数十キロ北上したところにある未開拓領域だ。二百年前に派遣されている調査隊の報告書によると、一日中、太陽が顔を出さず月すら光らず、ただ凍えた冷気のみが存在するという。まぁ、その報告書を最後に調査隊とは連絡が途絶したらしいが……」
派遣された調査隊の一人を伝令役に連絡を取っていたようだが、"魔境谷"に辿り着いた際の報告書を最後に、
パタリと音信不通になってしまったらしい。
二百年前の話なので存命はしていないだろうが、隊員たちの身に一体何が起きたのだろう。
「危険は十分承知していたので、精鋭のみを集めた隊だったが、それだけに誰一人残らず全滅したということは間違いなく、あそこに何かある、ということだ」
「ラピス様はビーグリッドに向かわれた後、そこへも行くのですか?」
「まさか。現在、西の大陸では"魔境谷"への立ち入りは一切禁止されている。王子直属の調査隊といえどそれは例外ではない。例外があるとすれば、王命により派遣された時だけだろう」
命令されたとしても、都を発展させる王子を派遣したりしないだろうと思い至り、考えの浅さをリーシェは恥じる。
「ま、ビーグリッドに行くにも、まずは川の流れが落ち着くのを待たなければならないから、しばらくはセルタに滞在するだろう。父上からも安全を第一に行動しろと命令が出ているからな」
調査が進んでいないというのに、ラピスは嬉しそうにしていた。
セルタの気候も住人もとても気に入っているようだ。
セルタからビーグリッドに行くには、リーシェが流れてきた川に沿って上流に行かなければならない。
しかし、調査隊がセルタに来た日の前日に降った雨で川は増水。隊は足止めをくらい川が落ち着くのを待っているうちにもう四日も経過していた。
上流の方ではまだ雨が降っているようで、川の流れはなかなか落ち着かず、ましてやそんな危険な川を沿って行くわけにもいかず、調査隊は町の宿の三階を貸しきってセルタに滞在していた。
町の人々はとても良い人ばかりだし、子供たちも人懐っこいので隊員たちはすっかりセルタでの生活にリラックスしていた。
それは、目の前にいる王子も例外ではないらしく、来た当初に比べて大分表情が柔らかくなっている。
リーシェのような満面の笑みとまではいかないが、口許をうっすら和らげながらラピスは最初にした質問をもう一度繰り返した。
「それで、さっきはなぜ一人で笑っていたんだ?」
"魔境谷"の話で盛り上がってしまったが、リーシェは王族の質問を無視して自分の質問を優先させてしまっていた。
本来なら無礼どころの話ではないのだが、王子本人も側近のお爺さんも何も言わなかったため気づかなかった。
「ごめんなさい。そちらが先に質問をしたのに無視をする形になってしまって」
「いや、気にしなくてもいい。あまりそういうのに気を配られると、俺も緊張してしまうからな」
許しをもらえたことに安堵しつつ、今度こそ問いに答える。
「この野菜たちを収穫したときのことを考えて心が踊っていたのです」
「野菜? あぁ、これは芽なのか。何を植えているんだ?」
「トマト、茄子、じゃが芋です。数が少ないのは、セルタの土を知るために試験的に植えているためです」
「なるほど。料理に出される食材というのは、このように育てられているのか。実際に見たのは初めてだ。どのくらい経てば収穫できるんだ?」
「恐らく、二、三カ月ほどで立派な実がつくと思います。ただ、病気になってしまう場合もあるので全て無駄になってしまうということも考えると、確実に収穫できるとは限りません」
畑とは自然そのものであり、人の忍耐力、愛情、そして知識を試してくるものである。
何度も失敗を重ねて試行錯誤し、先人の知恵も借りてようやく美味しい実が完成する。
根気強く、愛情深く、注意深く育てなければあっという間に枯れてしまうのだ。
「だからこそ、収穫したときの喜びはとても大きく、想像しただけで自然と笑みがこぼれるのです」
「そうか。楽しそうだな」
「ええ。とても楽しいです」
「ラピス様もやってみますか?」と言おうとして慌てて口をつぐむ。
彼は王子だ。しかも世界でもっとも発展した王都を作り上げ、現在進行形で進化させ続けているすごい人物だ。
そんな雲の上の存在に土をいじらせるなど、今度こそお爺さんに怒られてしまう。
植物を栽培することを薦めたい気持ちをグッと堪えていると、穏やかな顔で王子は言った。
「俺もやってみたいな」
怒るかと思ったお爺さんもそんな様子は微塵もなく、ニコニコとしている。
「ちょうど、子供たちを隊員たちに取られて退屈していたところだ。お前さえ良ければ、畑の一角を貸してくれないか? それが嫌なら、せめて、リーシェの野菜作りを手伝わせて欲しい」
「いっ、嫌だなんてそんな! ぜひ! ぜひお貸しします! いくらでもお貸しします!」
「いつまでいれるか分からないから、本当に一角でいいぞ」
「はい!さぁ、そうと決まれば苗を買いに行きましょう!」
「うお!? ひ、引っ張るな! あと、一回家に戻って顔の土を落として行くぞ!」
ラピスの腕を引っ張っていたはずがいつの間にかリーシェが引っ張られていて、台所の水で濡らしたタオルで顔を拭かれる。
窓ガラスで汚れが落ちたのを確認して、リーシェは今度こそ彼の腕を引っ張って町へ走った。





