恋と本と私と
プロローグ
「昔、あるところに本が好きな少女がいました」
私の物語はこの一節から始まるのだろう。これ以上もこれ以下もない、本が好きな私の始まりの言葉。
「少女はやがてーー」
ここから先がどうなるのか。それは明日の私だけが知っている物語
はじまりは言の葉とともに
図書館はやっぱり落ち着く。どんなに素晴らしい自然の中よりも、暖かな家庭よりも、私はここを選ぶだろう。
まさに母の腕の中のような落ち着いた空間、それが図書館だと思っている。
「もう終わっちゃった…次は何を読もうかな…」
本の読み終わりというのはえも言えぬ何かがある。本の1ページをめくりながら舞い落ちる言の葉をじっくり拾っていく。その終わりに寂寥を覚えるようになったのはいつ頃からだろうか。読み終えた本を棚に戻し、新しい本を探す。次はどれにしようか…迷いながら私は次の本に手を伸ばす。すると反対の方からも手が伸びて来た。
「あっ、すみません…」
反射的に投げかけられたその声は少し低くも、はっきりしていた。
「いえ…こちらこそすみません。これ、読むんですよね?どうぞ…」
私は手にとっていた本を彼に差し出す。銀髪の青年は、困ったような顔をした。
「いや、そんな…君が先に読もうとしたんだし…俺はまだいいよ…別のがあるから」
「そんな…いいんですよ、あなたも読みたそうにしてますよ?私もさっき一冊読んだばかりですし…このシリーズならうちにもあるので…」
さっき読み終えたシリーズ物の続き、正直気になってはいる。ただ毎日通っている私からしたらまたいつでも読む機会はあるわけで…彼に申し訳なかった。
「いいよ。君、そのシリーズ好きなんだろ?」
「えっ、どうしてわかるんですか?」
「そりゃ…何時間も同じところで同じシリーズの本読んでたらね…」
どうやら私が本に没頭してる姿が見えたらしい。
「このシリーズ、主人公が元詐欺師なんです。その主人公は人を騙して生計を立ててたんですけど…それに苛まれていて。ただそこである女の人に出会うんです。」
「それで、どうなるの?」
彼の方から聞いて来た、どうやら興味があるらしい。
「その、彼はその人に恋をするんです。その人はすごく正直で…その気になれば彼の思うようにできたんですけど、彼にはそれができなくて…あまりに正直に生きる彼女の健気さにお母さんを重ねて…それで彼は彼女のために正直に生きようとするんです。」
話が止まらなかった。彼とは初めて会ったというのに不覚にも私は一方的に話してしまっていた。
「あっ、その…ごめんなさい…つい話し込んじゃって…好きな話だったのでつい…」
「いや、いいよ。その男の人は幸せなんだろうね…」
そんな風にいう彼はどこか哀愁が漂っていた。そして彼はこんなことを言った。
「その彼女、1つだけ彼に嘘をついているんじゃないかな?」
その言葉の真意を今の私は知らない。
ただその言葉にはささやかな魅力を感じた。まるで新しい本のはじめの一節に出会ったような感慨深いものを感じた。彼が何を言わんとしているのか、分からないことが魅力的だった。
その一節が何を意味していたのか、のちの私は知っているのだろうか。
変わりゆく日常
あの日から、私と彼はよく図書館で出会うようになった。ライトノベルから哲学書まで、何でも読む人だった。
「ーーそれで、その少年は最後、変わろう と決意するんだよ。病気で今まで諦めてた人生をやり直そうとするんだ。あの雨の日に言葉をかけてくれた少女のためにね。」
「そのあと、どうなったんですか?」
彼の話には続きを知りたいという欲をそそる何かがある。そんなことを思っている自分がいる。
「その子はね、学校に行くようになったんだ。もともと頭はよかったからね、学校の勉強で困ることはなかった。先生からも模範生として評価されるんだ、やりたかったピアノも始めて、すぐに上達した。彼は鳥籠の外に出たことで、その才を発揮できたんだね。そして、いつかその少女に恩返しをしようとするんだ。あの雨の日に、希望を見せてくれた恩返しをね。
ただ…」
そこで、彼の話が止まった。どこか哀愁が漂った表情をしている。何が起こるのだろうか。
「少女に何かあったんですか?」
何となく予想を伝えてみる。彼の返答はこうだった。
「その少女は、重い病気だったんだ…
彼よりもずっと余命は短くて、いつ死ぬかも分からないような、とても彼に希望を見出せるような余裕なんてなかった…どうしてそれを隠していたのか、そしてなぜ、自分を助けられたのかって、彼は尋ねたんだ。すると少女はこう答えたんだーー」
わずかながらに彼の表情が明るくなった気がした。
「生まれてくることができただけで、嬉しかったから。いつ死ぬか分からないから、今日のこの瞬間に神様から生を受けていることが、私にとって感謝すべきことだから、せめてその恩返しに誰かを助けたかったから、あの日、死のうとしていた貴方をほっておけなかった。ってね。彼は本当に感謝したさ、そして病気に対して何もできない自分の無力さを恨んだ。せめて彼女に何かしたかった。そうして彼がとったのがピアノだった。それなりに一曲弾ける程度だったけど、彼は彼女のために一生懸命、音を届けたよ。
自分の中に芽生えていた恋慕の感情も少しばかり添えてね。」
その後、少女は死んでしまったが最後まで懸命に生きたそうだ。そしてその少女の分まで少年は生きることを決意し、ピアノの引き続けたそうだ。彼は
「健気だね…そうやって生きる姿は」
と添えて話を終えた。
彼の話は私の心の中に、ピアノの音のように染みていった。
それからも私たちは互いに読んだ本の話をしていた。彼との話は尽きることがなく、いつしか私の日常となった。
その時はなぜか心が落ち着いた気がした。
過去のしおり
「今日はここまで、続きはまた明日にしようね。」
母のこの言葉には聞き慣れていたが、
同時に寂しさを思い起こすものだった。そして、私の続きへの知識欲をかき立てた。
母は、昔から本が好きで、同時に自分で作ったりしていた。母の作る物語は私にとって宝物だった。
普段、公務員として働きながら、ネットには「亜里沙」という名前で小説をあげていた。ファンも多かったようで、特に、彼女の紡ぐ物語に引き込まれた読者が多いようだ。そして私もそのファンの一人だった。
「お母さんはさ、どうして小説家とか、そういう仕事につかなかったの?お母さんの話はすごく面白いのに…」
こんなことを聞いたのは中2の秋だっただろうか。母の作る物語は多くの読者を惹きつけていた。ならば、母は小説家になれたのではないか?子供ながらに夢を追わなかった母のことを知りたかったのだろう。母は、外の紅葉を見ながら告げた。
「母さん、本当は小説家になりたかったのよ。」
その表情には、懐かしさが滲んでいた。
「昔から本が好きで、私も作りたいと思ってた。ただ、小説家として暮らして、本当に生計を立てられるのか、将来の家族を、理沙を幸せにできるのか、迷ってたの。子供ながら、深いことを悩んでたわ。そして私は安定をとった。公務員になる道をとったの。これを聞いたら私は夢を諦めたように思うでしょうね。ただそうでもないのよ?母さんは夢を叶えてる。」
母の表情が少し明るくなった。外では優しい風が吹いている。
「ネットで小説をあげてるから?」
「そうね、それもあるわ。確かにファンの人もできて、喜んでもらってる。それは紛れもなく嬉しい。ただ一番嬉しいのはね、理沙、貴方が喜んでくれるからよ。貴方は、私のお話を飽きることなくずっと聞いてくれる。そして喜んでくれる。そんな理沙を見ていると、嬉しいの。私もこうして物語を作る甲斐があると思えるの。私が今こうやって夢を叶えられてるのは、理沙のおかげなのよ。」
母は私に優しく話してくれた。そして母はこう続けた。
「ことば、という感じを思い出して見て。言に、葉と書くわね?そうなの、言葉は葉なのよ。私たちがこうして使ってる言葉は、全部誰かのところに残るの。その時、もし貴方が私の願いを叶えてくれるなら、こうしてほしい。
貴方に、美しい紅葉の葉を落としてほしい。そして誰かの心にそっと寄り添うような葉を残してほしい。間違っても誰かを傷つける、毒の葉や、枯葉を落としてほしくないの。そうして貴方が、綺麗な紅葉を残せば、その人の心にいつか綺麗な花が咲くと思うの。おかしいかもしれないけど、貴方には、そう生きてほしいの。お母さんと約束、できる?」
「うん!約束する!」
私の返答に迷いはなかった。母の言葉は既に私の中に花を咲かせているのだから。
窓の外の紅葉の葉が優しい秋風に乗って舞っていった。
母のこの教訓を忘れたことはなかった。私は人を褒めるようになった。人を褒め、賞賛して、笑顔になってもらう。母とのたった1つの約束をずっと繋いでいくために…
「君のお母さんは、すごく綺麗な言葉を残したんだね。それこそ満開の桜のように。きっと、素晴らしい花が君の中に咲いたんだろう。お母さんに感謝しないとね。」
「そうですね、きっと…
母の話はこのくらいです。私が本を好きになったのは母のおかげなんです。こうして色々な体験ができたのも母のおかげで…本当に感謝しています。」
あの銀髪の青年、亜蓮に私は母のことを話した。亜蓮は私と同じ大学の三回生で趣味は読書とイラストなのだそうだ。私と似ていた。驚いたことにシェイクスピアの本を全て読んでいるそうだ。この前のハムレットの話もすごく面白かったのを覚えている。彼の文学的な話は、私の興味をそそった。なんと言えばいいのだろうか、彼とならなんでも話せる気がした。
外は秋晴れで、窓の外の紅葉は風に乗っていた。
彼の大きな秘密にさえ気づかなけれ
ば、私たちは何か、変わったのだろうか。
動転の日
母のことを話してから、私と亜蓮さんは、図書館で会うようになっていた。彼の話はとても面白く、私は引き込まれていった。彼もまた私の話をよく聞いてくれた。連絡先も交換し、家で話すことも増えた。そんな日々が続くうちに、私は亜蓮さんにほのかな恋慕を抱くようになった。少しずつ彼の人柄に惹かれていったのだ。
彼が行きつけだという、とある喫茶店でのことーー
「あのさ、理沙さんに頼みがあるんだけど…今書いてる小説の案を出して欲しいんだ。」
「え?私にですか!?」
彼の頼みは、私にとって驚くべきものだった。彼がネットに投稿している小説は人気作であり、純愛ものだ。ピアノをきっかけにつながる男女の淡い恋模様は、見ている読者を惹きつけた。私とてそれは例外ではなく、一気に話に引き込まれた。
「私でいいんですか?」
勿体無いように感じ私は問いかけた。
「うん、むしろ理沙さんだからこそ適任なんだ。本のことよく知ってるし、何かわかるかなって」
「それなら、是非!よろしくお願いします!」
彼の小説に携われるなら、私に迷いはなかった。彼がいかにして、面白い大作を作るのか、見て見たくなった。
「じゃあ早速お願い。これがその草稿でなんだけど、一通り読んで気になるところとか、こうしたらいいみたいなアドバイスを頂戴。」
「はい!」
草稿には、主人公がヒロインに告白するシーンが書かれている。素のままでも十分な出来である。
「そうですね…このままでも十分ですけど…強いて言うならここで背景の描写を入れたりするのはどうでしょうか?」
「なるほど!確かに!俺も何か足りないと思っててさ。そうすればいいんだ!」
彼が珍しく、感情を露わに喜んでいる。こういう表情もするんだ…新たな一面が見られて嬉しく思った。
こうして彼の作品に携わったことは私の中で思い出となって行く。
次回作も楽しみだ。
ある日のこと、私は講義を終え、いつもの、亜蓮さんと会う図書館にいた。彼は、今日は論文の作業をしたいから、会えないかもしれないと言っていた。1日2日会えないことを憂う気はないが、話が聞けないのは少し寂しいことだった。
読みたかった本を探し、手に取る。そして扉を開きその物語の舞台へと足を運ぶ。今日はゆっくり本に浸ろう。空っぽでいよう。
そうして私は物語の世界へと足を踏み入れた。
しばらく本に没頭していた。こうして一人で本を読んでいると、時を忘れそうになるのは私にとって、珍しいことではなかった。気づけば二時間が経っていた。そろそろこの本も読み終わる。推理小説なのだが、まさに山場、主人公が事件の核心に迫る。ここで一度読み止めている。一度自分で推理して、答え合わせというわけだ。こうして読む推理小説は私にまた違った楽しさを与えてくれた。
私の推理は正しかったようだ。被害者への積年の恨みからの犯行。王道の展開ではあるが、この犯人の殺害の手口は今までのどの方法よりずっと巧みで、面白かった。
さて、次は何を読もうか。そう思い席を立ったところ、私は今の時間と、明後日までのレポートの存在を思い出した。どうやら次はお預けのようだ。
図書館への長居で、外に出た頃にはすでにまたは夜の化粧を済ませていた。その中を一人歩き、帰路に着いた。1LDKのマンションは、幾分か整えてある。私は早速レポートに取り掛かった。ささっと済ませて夕食にしてしまおう。
程なくしてレポートを済ませた。テレビをつけて作り置きの夕食を食べながらニュースを見た。
政治や、スポーツ、生活やら、今のメディアはなんでも伝えて来る。それらを聞き流して、私はここ最近の私自身のニュースを振り返ってみる。やはりトップニュースは彼、亜蓮との出会いだった。一面に報じられるのだろう。
あまり人と関わることのなかった私にとって亜蓮は本で繋がった数少ない大切な人だった。彼の話は私の中に克明に刻まれている。その全てを思い出すことさえできるかもしれない。そのくらい彼の話に引き込まれていたのだ。
夕食を終え、テレビを切り、風呂に向かった。入浴を済ませ、ベットに横たわってスマホで、小説サイトから、亜蓮の投稿している小説を読む。今日更新されたのは他でもない、私が案を出したクライマックスだ。それなりの改変が加えられつつも私の出した案が形になっていた。感慨深いことであった。
一通り読み、感涙の余韻に浸っていたころ、次のページがあることに気づいた。あとがきをつけたのだろうか。次のページへ飛んだ。
そこで見たのは、あまりに不幸なものだった。
「こんばんは、ARENです。このシリーズはかねてからのクライマックスを迎えましたが、ここで私はすべての作品を休載します。私事ですがすみません」
何故だ…まずはじめに疑問に思った。彼の小説が読めなくなる…想像だけで、寂しかった。どうして…疑問と寂しさ、そして一抹の不安はどこまでも私を捉えて離さなかった。
秋の冷え込みからか、今夜はどこまでも冷たい夜であった。
その後からに連絡を取っても返信はなかった。
空虚な日々が私を苛ませた。
あの事実を知ることになる、私はどうなるのだろうか…
禁忌
亜蓮さんと連絡がつかなくなってしばらく日々は流れた。私の中の生活は、すっかり陽の目を見なくなってしまっていた。講義も退屈なものに聞こえてしまい、本を読んでもそれはただの紙切れ同然としか思えなくなってしまっている。彼がいたからこそ、聞こえてくる言葉の1つ1つが私に染みていった。彼がいたからこそ、また違った視点から本が読めた。そう、これまでの陽の目を浴びていた日々は全て、亜蓮さんのおかげだったのだ。
理沙は、空虚になってしまった日々の中で亜蓮を恋しく思っていた。
ある日、理沙は喫茶店にて本を読んでいた。この喫茶店(モカという変わったようなありきたりのような名前だ)はよく彼と、もうすでに過去の人と化しつつある亜蓮さんと、よく来ては自分たちの読んだ本や、書いた小説について語り合っていた場所である。
「お客さん、最近は1人かい?」
ずっと1人で本を読んでいたのを気にかけたのか、店主が声をかけてきた。顔からは中年から少し高齢にかけての男性といったイメージを思わせるが若い時はスポーツをしていたのだろう、しっかりとした体躯が「老練」という言葉を想起させる。黒髪と白髪の混じった髪は狼の銀がかった灰色の毛を思わせるどこか美しい色をしている。初見ではどことなく近寄りがたいイメージであったが、実は優しく気遣いのできる男性だ。そんな彼は実に柔和な表情で、どこか私を慰めるように、低いけれど優しい声で聞いてきた。
「あっ…はい…」
小さな声で返事をする。彼とよくここにきていたため、店主にはカップルのように見えたのだろう。
「突然連絡が取れなくなってしまって、彼、実はネットで小説を書いてるんですけど、その更新もきっかり止まってしまって…」
「ふむ…」
店主は困ったような顔をして唸った。
「彼と最後に出会った時、何か変わったことはなかったのかな?」
「いえ、特に。いつも通り本の話をして、自分が書いている小説のアドバイスをもらっていました。特に何か変わりばえはなかったように思います。」
そう、本当に彼に何も変化はなかったのだ。いつも通りの日常が私と彼の間に流れて、その次の日も日常が戻ってくるはずだった。それが、どこで狂ってしまったのか。私には皆目見当もつかなかった。
「とにかく、今は傷心しているだろう。ここにはどれだけいてもらっても構わないよ。」
店主の気遣いに甘え、私はコーヒーを何度もおかわりしながら、本のページをめくっていた。
モカで、時間を潰してからマンションに戻る。無機質なオートロックの玄関が私を迎える。そのポストの中に、葉書大の封筒が入っていた。何かと思って取り出すと、宛先は亜蓮からであった。住所は、小説の交換の都合で教えていたが、しばらく何も連絡がなかった私にとって、驚きこそあれ嬉しくもあった。彼からの久しぶりの連絡。そこに何が書かれているのか。固唾を飲んで封を切った。
そこには、確かに彼の、丁寧な筆跡で書かれた手紙が入っていた。一枚の便箋にびっしりと書かれている。
『ずっと連絡もなく、君を不安にさせてすまなかった。小説の投稿もきっかりとやめてしまって、君から楽しみを奪ってしまっただろう。本当にすまない。その上で、また君にとって不幸を告げる僕を許してほしい。君と僕が出会ってからもう半年は経ったね。この月日は僕にとって、本当に楽しくて最も輝いていた日々だった。君と本を読んで、小説を書き、互いに笑い合う日々を忘れることなんてできない。本当に宝物だよ。
その上で、だ。君に決断してほしいことがある。君にとってはもしかしたらどちらも地獄であるかもしれない。けれど、決めなくてはならないよ。
では、選択を迫ろう。まず、1つ。僕を今すぐ忘れて、君が君の日常に戻ること。僕という人間を君という世界から追放するんだ。今すぐにね。2つ、今起こっていることの真意を探ること。この場合、君は僕に会わなくてはならない。そして全ての真実を知る必要がある。選択肢はこの2つだよ。不器用ですまないけれど、僕から今言えるのはこれだけ。それでは。君の選択を待つよ。一週間後、あの場所で会おう。」
その手紙は、ある意味で拒絶されていて、ある意味では守られているとも取れた。彼がいつ真実が私にとって残酷なものであるだろうから彼は私に前者の選択を与えている。しかし、あいにく私は彼の気遣いを受けることはできない。真実を、知りたいのだ。
その真実が、たとえ私を蝕む禁忌であったとしても。
真実
彼との待ち合わせの場所は、やはりモカであった。まだ彼はいないが、私は店内に入り、コーヒーを注文した。店主は今日の私のいつもとは明らかに違う表情を察していたようだった。コーヒーがいつもより濃い。何を意味するかまで分かるほど私は聡明ではなかったが、ある種激励のようにも思えた。
程なくして、彼が現れた。亜蓮だ。しかし、彼は少し変わっていた。いつもの白いシャツにジーンズというわけではなく、今日は軍服のような黒いコートをまとっていた。確かに今は冬だが、そのコートは分厚すぎるようにも思えた。
「久しぶりですね…」
私が彼にしばらくぶりの挨拶をすると、
「久しぶり、そしてごめん…」
彼は少し低い声で返事をした。
「マスター、ブラックを。」
彼も同じコーヒーを注文する。店主は黙ってそれを承った。素早くコーヒーを出す。
「服、いつもと違いますね。」
「なんだろう…いつもの自分のようにはいられなくてね…」
どことなく彼らしさを感じる理由であった。
「まず、改めて、いきなり君の前から姿を消してしまったことを謝罪するよ。本当にごめん。君を不安にさせたね。」
「いえ、もう大丈夫です。亜蓮さんが無事なら。」
「無事…ね…」
彼はどこか寂しそうな目で、少し上を見ている。
「こうして私の前にまた来てくれたじゃないですか。」
私は続ける。
「確かにそうかもしれない。ただ、今日は本の話でも、小説の相談でもないんだ。わかってはいるだろうけどね。」
彼は間をおいて、ついに放った。
「実はーー僕に大きな癌が見つかった。」
あまりにあっさりと、まるで嘘のようにその言葉は放たれた。
「君に出会えなかったのはそのためなんだ。ずっと入院をしていた。そして、今日、医者に無理を言ってここにいる。時間はあまりないんだ。こんな大きなことを隠していて、すまない。」
「そんな…癌なんて…」
驚きのあまり、思考が止まる。頭が真っ白になるとは、なるほどこのことを言うのか、とまざまざと思い知らされた。
「僕が生きていられるかはわからない。もしかしたら、僕は死ぬかもしれない。」
彼は続けて、重いことを言う。まるで悟ったかのように。
思えばここ、モカの近くには大きな総合病院があった。おそらくあそこに彼はいたのだろう。あそこでずっと入院していたのかもしれない。私に出会う前からずっと。
「私に出会う前からずっと、癌を抱えていたんですか?」
「それはわからない、ただ医者によると少なくとも半年前から少しずつ進行していたようだね。」
予感は現実だった。私に出会った時から既に彼は病魔と闘っていたのだ。
「どうして黙ってたんですか!貴方がそれで苦しんでいたなら…何かできたかもしれないのに…」
私は堪らなくなってしまった。どうして彼は1人で闘っていたのだろう。そして同時に己に激怒した。自分が何も気づかなかったばかりか亜蓮を疑ってしまったこと。その事実に憤慨していた。
「本当にすまない。でも、人は脆いんだよ。病気には、勝てない。人は医療の技術が進んだことで、あらぬ方に進みつつあるだろう?若返りだとか、不死だとか。そんなものが自然の摂理にあるわけがない。だから人は傲慢なんだよ。自分たちが生態系の頂点に君臨した気でいるから。だから脆いんだ。」
なんとなく言いたいことはわかった。ただ受け入れたくもなかった。彼といられる時間がもしかしたら潰えてしまうかもしれない。そう思うと、恐怖さえ感じた。
「亜蓮さん…死なないで…」
もはや祈るしかなかった。
「手術は受ける。ただ成功するか、その確証はないと思ってくれ。その上でだ、君に決断してほしい。僕とこのまま最期まで関係を続けるのか。ここで止めるのか。よく考えるんだ。君が、悲しまないようにね。」
そう言い残し、彼は店を後にした。店主は
「今日は互いにツケ。自由に帰りな。」
と私たちを自由にしてくれた。
露頭に迷う、とはまさにこのことか。大切な人がいきなり癌だと知り、そして関係をどうしていけばいいのか。亜蓮に取り残され、私は今まるでコキュートスの真ん中にいるような、乾いた冷たい気持ちを背負っていた。いつの間にか涙が流れていた。あつく、冷たい涙だ。
「いきなりの宣告、辛いだろうね。」
いたたまれなくなったのか、店主が私に声をかけた。
「すみません…すぐに帰ります…」
「いや、いいんだよ。今日はツケで自由だと言っているだろう?君が気持ちを落ち着けるまで、ここにいるといい。」
店主のあまりの優しさにまた涙が溢れる。今度は少し温かい涙だ。
「私…一体どうすれば…」
思わず呟く。
「これは、僕の言い分なんだけれどね。」
店主が言った。その目は優しくもあり、強くもあった。
「君は今、迷いと恐怖の中にいる。冷たい氷獄の中とでも言おうかな。そこは暗くて何も見えないだろうね。そして、陽の光を浴びようともがいている。そんなところなんだよ。そして君の前には、2つの選択肢がある。氷獄の中をさまよって、その住人となるか。もしくは、そこをもがいて、足掻いて、必死になって抜け出して、陽の光を浴びるか。前者は初めは辛いだろうが、後は楽だ。慣れてしまうだけだからね。後者はそれに比べてずっと辛い。氷獄の中をもがいて、何度も間違いを犯すかもしれないし、死すらも予感するだろう。ただその後に浴びる陽の光は、温かいはずだよ。最終的にどちらが良いとか、そこまで言えるほど僕も聡明ではないが…僕からもう1つ言えるとすれば、
ーー君の悔いのない方を選ぶことーーだね。少しは何かあると良いが、受け流してもらっても構わないよ。」
彼の話は、コキュートスの中の私に一筋の光を灯した。とても小さく凍りつきそうな、それでも抗い命の炎を燃やそうとしている。まるで、亜蓮のように。
そうだ。迷うことはないんだ。彼とまだ一緒にいたいなら、彼を助けたいなら。コキュートスの要塞を砕き外へ出なくてはならない。私にできることなどなくても、彼のそばにいなくてはならないんだ。
ーー私は彼に恋をしたのだからーー
店主の話を聞き、私は力強く立ち上がった。そしてツケにしてもらって店を出た。
「頑張るんだよ。彼を、亜蓮を氷獄から救い出してやってくれ。」
店主は私に言った。
「はい。」
力強く返事をする。
「後、亜蓮は、音楽が好きだと私に言っていたね。ピアノ、が特に好きだとか。」
彼の言葉は、亜蓮が私にしたあの話を思い出させた。ピアノの男の子の話。今私たちはまさにその舞台の上に立っている。彼が少女のために最期まで諦めなかったこと。まさに私が取るべき行動だ。
「ありがとうございます。」
そう言って、モカを後にした。
転調
彼の顔を知ってから私はしばらくやめていたピアノを再開した。受賞経験があったことが幸いしてか、勘はすぐに取り戻せた。手術は一週間後、それまでに作曲をして彼に聞かせる。彼はどこか寂しそうな目をしていた。きっと手術で死ぬのが怖いのだ。表向きではあんなことを言っていても、彼だって人で、感情もある。手術を受けることだってきっと怖いはずだ。
何より、私自身に今できることがこれくらいしかなかった。
小説を作るときよりずっと、私の中を激情が駆け巡る。彼を救うため、その一心で曲を作り続ける。私に寸暇はないのだ。
作曲を開始して数日後、私はモカを訪れた。店主は、
「今日はお代、いただくよ?」
と、少しおちゃらけて言った。妥当ではあるが。
「それで、何か進んでいるのかい?」
すぐに真剣な顔つきになり、聞いてくる。
「はい、彼のためにピアノで作曲をしているんです。」
「そうか…それはいい。亜蓮も喜ぶ。」
「あの…以前から、いえ正確には今疑問だったものが確証に変わったんですけれど…」
「何ですかね?」
「貴方は…亜蓮さんと何か関わりがあるんですか?」
今日、私がモカに来たのは近況の報告のためではない…そんな時間があるなら私はピアノに向かっている。目的は他でもなく、私の中の疑問を晴らすためだ。想定より早く氷解しつつあるが。
「…お嬢さんほどの観察眼のある方には、バレてしまいますか…」
「やっぱり…そうだったんですね…貴方は亜蓮さんの…身内の方…」
「そうです…私は亜蓮の父。正確には亜蓮の元父で、今は血縁を絶っています。彼がずっと幼いときですから、彼は私を知りません。彼は、この店に来てから、よく通ってきたのですが、私はずっと彼が実の息子であるとわかっていながら、演技をしたんですよ。」
このような形で、この店主の核心に触れるとは思いもよらなかった。彼が亜蓮さんのお父さんであることは、昨日から疑っていた。いや、実父とまではいかなかったが、何かしらのカギを握る人物であると、予想していた。
なぜなら、私は一度として彼にピアノの話をしたことはなかったからだ。彼がピアノの話を持ちかけたのは、おそらく彼が亜蓮さんと関係を持っていたから。そして、彼が亜蓮さんのことを名前で呼び捨てで呼んだまさにその時に確証に変わったのだ。
「何故、今まで演技をしていたんですか?そして、彼一体何があったんですか?」
強欲にも、私は全てを知ろうとする。
「ええ、理沙さんには全てを話しましょう。少しお待ちを、店を閉めたことにしなくてはいけません。」
「さて、お話を始めましょう。」
店主、いや亜蓮さんのお父さんは始めた。
「私は、若いときにピアニストの妻を迎えました。そして子供をもうけた。それが亜蓮です。亜蓮は、おとなしく、しかし何処か才覚を感じる子供でした。超然としていた。そして、彼は母の弾くピアノに常に興味を持っていた。ショパンだとか、ベートーヴェンだとか、とにかく興味を持っていましたよ。時に鍵盤の上に座っていることさえありました。母も亜蓮の興味に応えてピアノを毎日聞かせて、弾かせた。そんな穏やかな毎日が続くと私も思っていました。しかし、長きの平和は惨劇によって償われてしまったのです。」
彼は間をおいて続けた。
「妻が、ドイツの音楽祭に出演する際に、飛行機事故で亡くなったんです…私は亜蓮と第二子の弟とともに留守をしていましたが、その訃報を聞いた途端に、自分を見失ったのです…愛する妻を失ってしまった…そして、そのストレスから、息子達を捨てようとした。所詮は言い訳ですが、初めは自制もしていましたが、ピアノを弾き始めた亜蓮に…妻をどうしても重ねてしまって…私の中の激情が、抑えられなくなったのです…そのまま私は妻の親戚一家に息子達を預け、放浪しました…そして今に至ります。まさか、彼と店主と客という形で再開するとは。そして、彼のあの白髪の理由は、本当の両親と決別していたことを知ったことによる、精神的ストレスと聞きました…そして、おそらく、今回の癌もそれが起因したのだと…全く、私は父親として最低の行為に走ってしまった…」
彼は懺悔した。しかし、私は彼を憎んだり、恨んだりしなかった。彼の妻を亡くした悲しみは、おそらく私の悲しみの遥先をいっていたからだ。気づけば彼は泣いていた。老練の彼が涙を流すなど思いもよらなかった。
「大丈夫です。貴方の辛さは何者にも変えがたい…ただ亜蓮さんは、こうして今、自由に生きています。そして闘っている。もし貴方が、父として亜蓮さんと向き合うなら、貴方も亜蓮さんを応援すべきですよ。貴方なりの方法でいい。亜蓮さんにその気持ちはきっと届くはずです。」
私は彼に伝えた。諫める、とは少し違うが、彼に勇気を与えるため、言葉を投げかけた。
「貴方は…妻によく似ています。太陽のような、妻に。」
彼は、いつしか涙を止めていた。そして私に向き直って言った。
「わかりました。私も、父として、亜蓮を助けます。共に彼を救いましょう。」
彼は、いや、名を拓馬という亜蓮さんのお父さんは私と共に歩むと決めた。父として、息子へのせめてもの贖罪として。支えると。
ピアノ
ついに、手術の前日が来た。彼には、医者に外出許可を取るように頼んでいた。そして、モカに呼んだ。モカには実は、小さなステージがあって、ピアノ一台ほどを置けるようになっている。そこで私は今晩、彼にピアノを披露する。彼のお母さんがよく弾いていたという曲を自分なりにアレンジしたものだ。そして拓馬さんは、全てを話すという。やはり父として、もしもの最期を見届けるために。
「妻がピアノを弾く時に着ていた衣装です。もしよければ、これを着てステージに立ってほしい…」
私は快く引き受けた。
亜蓮さんは約束の時間の少し前に来た。
「マスター。今日は閉店のはずだけれど…理沙さんは本当にここへ?」
「ええ、そうですよ。」
あくまで初めは、マスターでいた。ただすぐに彼は、切り出した。
「すまない、亜蓮くん…君に大切な話がある。もしかしたら、明日手術を受ける君には酷な話かもしれない。ただ最後まで聞いてほしい…」
「…はい…」
少しばかりの沈黙を破って、拓馬さんが続けた。
「私こそが、実は君の実の父なんだ。君が、ずっと探していた、ね。」
「……え?」
亜蓮が、滅多に見せない動揺を見せる。ステージ裏で、私も見守る。
「いきなりすまないね。ただ君は、私の息子だ。君には弟がいるね?名前は翔太。」
「…はい。」
「そして、君は音楽が大好きで、私の妻、飛鳥のピアノをずっと見ていた。鍵盤の上に座っていたこともあったんだ。」
「…おっしゃる通りです…」
1つ1つを独白する拓馬。そして全てあっていることに驚きつつも、あくまで静かに返答する亜蓮。
「そして、飛鳥は、ドイツに向かう時に飛行機事故で死んだ。」
「…あってるよ…」
初めて敬語が抜けた…そして亜蓮が
「…母さんの死が、辛かったんだな?」
拓馬に聞いた。
「俺がピアノを弾いてから、母さんにそれを重ねたあんたは俺たちを避けた。だから俺たちは本当の両親がいなかった。そういうことか…こんな形で真実がわかるとはね…」
「本当に…すまなかった!」
沈黙を破る声で拓馬が謝罪する…
「俺が…俺の身勝手が…亜蓮も、翔太も苦しめた…本当に、本当に…すまない!」
涙を流し謝罪する。
「父さん…いや、親父…もう泣くな。」
「…え?」
「親父は生きててくれたんだろ。俺はどっかで、死んだのかと思った。だけどそんなことはなくて、しがないコーヒ屋の店主をしていて、俺を影から見守ってた。まあ、もうすでに独り立ちしてた俺だったけど。でも、あんたはここで俺の相談に乗ったり、俺の本の話を笑顔で聞いたりしてくれた。それだけで、もう十分だ。それが親父だったとわかって、それだけで十分だ。ありがとな、親父。」
彼らしい、あまりに優しい言葉だった。こんな息子を持った、拓馬さんが私には羨ましくも思えたほどだ。
「っく…ううっ…ありがとう…ありがとう…亜蓮…君が、飛鳥の意思をつごうと、必死にピアノを弾いてくれて、ありがとう…」
どうやら、親子の縁は無事、戻ったようだ。亜蓮の優しさに、拓馬の贖罪は晴らされた。
さて、とうとう私の番だ。2人はというと親子として談笑をしていた。私がステージ裏から拓馬さんにハンドサインを送り、準備ができたことを伝える。彼はそれを理解し、亜蓮に告げた。
「亜蓮、明日がお前の手術の日だが、お前は正直、怖いと思っているだろう?」
「…ああ、怖いよ。やっぱり死ぬのは嫌だ。理沙の前ではカッコつけたけどさ。」
苦笑する亜蓮さん。拓馬さんはその笑みを見て続ける。
「お前が怖いのは痛いほどわかる。だから、お前に勇気を与えるために、ある人がピアノを弾いてくれるそうだぞ。」
「えっ?」
驚いて彼はステージを見る。ピアノの置いてあるステージ。私はそこに向かって歩き出した。彼にも、命の炎を灯すために。
「理沙…」
ステージに立つ私を見て、亜蓮は呟いた。
「亜蓮さん、今日は、私が貴方のためにお母さんが、飛鳥さんが弾いていた曲を弾きます。所々違うかもしれないけれど、私なりのアレンジを加えてます。この曲で、貴方が明日手術を受けて成功することを祈ってます。貴方に、加護があらんことを。」
赤いドレスを見にまとった私は、そう言ってピアノに向かった。彼は、私を見て意外そうに、そしてどこか懐かしそうにしていた。まるで、あそこに母がいるかのように。
飛鳥さんが弾いていた曲はショパンのものだという。落ち着いた感じの曲で、まるで誰かに優しく包まれたような曲だ。その曲を私なりに編曲しつつ、飛鳥さんの意思を込めている。さて、舞台は整った。あとは自分のやれることをするだけだ、あの少年のように。
私は、鍵盤にゆっくり、力を込めていった。
曲は、どこか郷愁を感じさせるように響いた。拓馬さんと亜蓮さんは、すでに懐かしさに浸っている。2人で、飛鳥さんの、母のピアノを聴いていた時のように。
演奏を加速させる。少しずつ盛り上がる部分だ。私はすでにピアノにのめり込んでいた。終わりのない小説を作るように、何処までもどこまでも筆が動いていく感覚に浸る。
「母さん…」
亜蓮さんが呟いた。そしておもむろに席を立ち、こちらに近づいてくる。そして…
演奏をする私の腿を枕に頭を預けた。もしかして、こんな風に飛鳥さんの演奏を聴いていたのだろうか…不思議と羞恥はなく、演奏に集中できた。曲も最高の盛り上がりの部分に入っている。
彼はゆっくりと聴き入りながら目を閉じている。夢を見ているのだろうか。母とともに、ピアノを弾く夢を。
曲が終結に向かう。私も最後の一押しと思い念を入れる。拓馬さんは厳かに、しかし、優しくピアノを弾き、そのそばに寄り添う亜蓮さんを見ていた。亜蓮さんは私の腿から頭を話し、曲に聞き入った。そして、私も完結に向かう。左右の五指の先まで集中して、曲を完成させる。そして、1つの壮大な物語を思わせる曲が、終結した。
拓馬さんは終結を見届けると拍手をした。そして私に寄り添う亜蓮さんがいう。
「ありがとう。理沙。素晴らしい演奏だったよ。母の面影を見た気がする。明日の手術、頑張るよ。最後まで生きる。そして、帰ってくるよ。あのお話の少女に成せなかったことを僕が代わりに成し遂げる。」
力強く、彼は宣言した。
「頑張って、亜蓮。祈ってるよ。」
私も彼の宣言に応えた。するとおもむろに亜蓮が、
「もう少しだけ、いいかな?母さんの感覚にそっくりなんだ。」
と、私の腿に頭を預けてきた。演奏中にも一度だけしてきたが、それはあくまで演奏中だったから、私も集中できたわけで…
今思うと、とてつもなく恥ずかしい!
「はははっ!まるで本当に飛鳥を見ているようだな。亜蓮、お前もすっかり子ども気分になって、理沙さんはお母さんじゃなくで、お前のお嫁さんだぞ?」
拓馬さんの、マスターとして、そして遅々としての茶化しが入る。私は顔を赤らめながらも、安らかに眠る亜蓮さんの白髪染まりの頭を撫でる。飛鳥さんはこうしたのだろうか。わかるわけではないが、私にできることはこれくらいであった。母とまではいかないものの、彼の大切な人として。
後日、彼の手術は成功して、彼は退院してきた。奇跡的に後遺症もなく、再発リスクも低い状態だったそうだ。私はすぐに彼に駆け寄った。
「退院おめでとう!亜蓮!きっと帰ってきてくれるって信じてた!」
「ありがとう。理沙。また、君と本の話ができると思うと嬉しいよ。」
お互いに手術の成功を喜び合う。それを少し離れて、拓馬さんも見ていた。
「おかえり、亜蓮。」
拓馬さんも彼に言った。弟も来ていたようで、すでに話も知っていた。弟も兄の決断に賛成するようだ。
「また、家族としてやり直そう。この3人、いや4人、かな?」
そう言って拓馬さんは私の方を見る。
「あの…もし仮にそういうことだとしても、せめて大学はお互いに、卒業してからがいいかと…」
私は苦笑しながら言った。4人の明るい笑い声が、風に乗って、飛鳥さんがいるであろう空へ飛んでいく。
私と亜蓮の恋の物語は、これからもずっと続いていく。
エピローグ
「これで、お母さんのお話はおしまい。」
「父さんと母さんってそんな出会いがあったんだ…私も、その奇跡があって今ここにいるんだね…」
「そうね、お父さんとお母さんはもしかしたら結婚できなかったかもしれないわ。でも、お父さんが生きていてくれたから、あなたも今生きているのよ?明日香。」
「うん。私、父さんと母さんの娘でよかった。ありがとうお母さん。」
「ありがとね、明日香。明日はお父さんが新しいお話を書いたのを見せてくれるわ。楽しみしましょう。」
「うん!」
ある日の夕方、夕焼けに染まる民家の中、グランドピアノに腰かけた娘と母が談笑する。
母から娘へと物語を紡ぎながら。
どうも、Asukaです!自分の連載中のシリーズに加え、今回はかつて書いていた作品を改編して、短編小説として投稿いたしました。さて、この物語は本で繋がる2人の男女の物語というコンセプトなのですが、この作品にはかなりこだわりを入れて書いていました。表現技法であったり、文体。あとはキーワードなどにもこだわりましたね。とにかく今回は短編でありながら個人的に一番の傑作だと思っております。この作品はしっかりとみなさんにも読んでもらいたいです。
感想や評価、今回もお待ちしております。
皆様の応援を力にこれからも精進していきますので、応援よろしくお願いします!