新幹線にて
つい先日、新幹線で体験したことを、自分の心の中と絡めて文章にしてみました。
どうと言うこともない駄文ですが、お暇な方は、よろしければ。
時速数百キロの速さで、車窓の景色が後ろへと流れていく。
「旅の醍醐味の一つは、日本全国津々浦々の車窓景色を楽しむことだ」
と言ってみても、新幹線の窓から見える景色は、地域によってさして変わるようには思われない。大きな駅やその周辺部といった人口が密集している地域では、高層ビルやマンション、スーパーや娯楽施設が、所狭しと地に敷き詰められている様を、どこでも見る。またそれ以外の地域、いわゆる「田舎」と呼称されるような地域では、まず大小の山々が線路を取り囲むようにそびえていて、その周辺に、民家やスーパーと思わしき建物がポツポツと立っているか、あるいは、一面の畑が広がっている様を見る。
もちろん、何千、何万とある「ビル」や「畑」等から二つを抽出し、それらの構造や面積等が全く同じである、ということは決してないだろうし、ある地域における「山」や「民家」といったパーツの配置が、別の地域のそれと全く同じであるという例も、恐らくないであろう。しかし、それらはあくまで厳密に見た場合の話であって、ただぼんやりと窓の外を見ただけの者からしたら、ビルや民家、あるいは山や畑が車外に広がっているという点においては全く同じことである。そこに地域毎の独自性だとか、アイデンティティのようなものを、見出だすことは難しい。
それにしても、日本列島はこれだけ東西南北に広がっていて、自分はこれまで様々な地域を旅行し、様々な地域で新幹線に乗った。それなのに、どの車窓からも同じような印象しか受けないとは、いったいなぜなのだろう?俺の感受性が著しく乏しいから?車窓を流れる景色があまりに速すぎて、鈍感な俺に十分な印象を与えるほどの時間がないから?あるいは、現代という時代は、地域独特の車窓景色というものを、人々が見ることを許さないのかしら?いずれにせよ、これではあまりに味気ない。旅の景色というものは、もっと面白いものでなければならないはずだ・・・。
九州北部を走る新幹線の自由席に一人座った俺は、ぼんやりと、そんなことを考えていた。俺は、旅行が、それも、一人旅というものが好きだ。大学に入りその味を覚えてからというもの、ほとんどの旅行は、一人で計画し、一人で実行し、そして一人でその余韻に浸ってきた。今回の九州旅行も例外ではなく、俺はただ一人飛行機に乗って九州最北端の空港に降り立ち、その後、隣県に向かう新幹線に、こうして座っていた。
俺はまた、ぼんやりと思う。何度も旅行をするうちに気がついたことがある。旅行とは、ほとんど「移動」と同義である、ということだ。多くの場合、人々は「旅行」という文字から、娯楽施設であったり、美味しい食事であったり、普段は泊まらないような豪華な宿泊施設を思い浮かべる。しかし、単純に時間の比率で考えた場合、旅行というイベントの中で最も長い時間を占めているのは、大抵は移動の時間である。それも、旅行の規模が大がかりになればなるほど、その傾向は強い。
であれば、この移動の時間こそ、旅行というものを充実させる上で、最も重要な時間なのではないか?つまり、いかに移動時間を楽しく過ごすか、ということが、その旅行の成否に関わるのではないか?しかし、自分の他に誰も頼る者のいない一人旅の場合、移動中にできることと言えば、本を読むか、ぼんやりと車窓を眺めつつ特に意味もないことを夢想するか、もしくは、無理矢理自らの目を閉じて、眠くもないのに寝ようとしてみるか、これらくらいではないか?こうなってしまった場合でも、俺は、移動という時間を楽しむことが出来ていると言えるのだろうか?もしそうではないのなら、俺は、折角の旅行自体を、十分に楽しむことが出来ていないのではないか?これでよいのだろうか?ああ、こういった時、共に旅をする者がいるとしたら、どうなるのだろう?たとえ移動中にすることが、他愛のない会話であったり、ありきたりなトランプゲームであったとしても、少なくとも、暇を持て余し、こうしてぼんやりと意味のないことを考えてみたり、無理矢理に眠ってみようとするよりは、よっぽどマシなのではなかろうか・・・。
そんなことを考えているうちに、新幹線は、ある停車駅に止まった。降りる人よりも乗ってくる人々の方が多い、そんな駅だ。その乗ってくる人々の中に、家族連れの四人組がいた。彼らは、通路を挟んだ、俺の向かいの席に座った。新幹線に乗ったことがある者にはご存じかと思うが、多くの新幹線の座席は、二人掛けの席が並ぶ列と、三人掛けの席が並ぶ列とがそれぞれ縦に並び、この二つの列は、出入り口のドアを基点とする通路で分断されている。俺は前から五列目の、二人掛けの列の方に座り、この駅から乗った四人家族は、同じ五列目の、三人掛けの方に座ったのだ。
その家族は、両親と、まだどちらも幼い姉妹とで構成されていた。姉は小学校の低学年、妹はまだ幼稚園生程度に見受けられた。姉の方は、最も通路寄り、すなわち、俺から一番近い席に座り、妹は、その横に座る父親の膝に抱えられていた。姉は、父親の膝の上の妹に何か話しかけ、その度に、妹は無邪気に笑っていた。妹を笑わせた張本人である姉も笑っていた。その様を見守る父親と母親は、時おり、姉妹に対し静かにするようにと注意しつつも、その声音から、表情は明らかに微笑んでいることが感ぜられた。
俺は、小さな子供と、その親が戯れているのを見るのが好きだ。子供は、親に全幅の信頼を置き、安心して甘えきっている。またそれを受ける親の方は、子供に対して、混じりけのない、純粋な、尊い愛情を注いでいる。そこには、何の打算もない。親も子供も、お互いにそうすることで、相手から何も見返りを期待していない。ただただ、相手がたまらなく愛おしいから、相手に完全な信頼を置いているから、相手にもっと触れていたいから、このように無邪気にじゃれ合っている。そう俺には感じる。そんな、無垢そのもので、美しい光景を見るのが、俺は好きだ。
と同時に、俺はこのような親子の無垢な触れ合いを見る度に、たまらなく寂しい気持ちに襲われる。なぜか?それは、このような光景を見る度に、
「俺は、このように美しく相手を信頼しきる心を、いつしか失った」
という思いを再確認するからだ。
いつの間にか、俺は、自分が他人に対して、子供の頃のような全幅の信頼を寄せることが出来なくなっていることに気が付いていた。この「他人」という者に例外はない。友達にも、実の親にさえも、俺は、心の底からの本当の気持ちを、さらけ出すことが出来なくなっていた。相手に気に入らないことがあっても、苦笑しつつ、すんなりと引き下がるようになっていた。相手への好意の気持ちから、相手をほんの少しでもからかいたくとも、それを自重するようになっていた。また、相手が何か面白いことを言おうとした時、それが実際のところどんなにつまらないことであっても、さも面白くて仕方がないように笑ってみせ、相手の機嫌を損ねまいと苦心するようになっていた。
上記の文面を読んだだけの者の中には、あるいはこう思う者もいるかもしれない。すなわち、俺の親や友達が、そもそもまるで信頼に値しない類いの人間であるから、俺もそうなってしまったのではないか、と。しかし、事実は全くの正反対である。彼らの名誉のためも断言させてもらうが、彼らは皆、俺の宝物である。彼らはみな、本当に誠実な、いい人たちばかりで、間違いなく、信頼に値する人々ばかりである。
ではなぜ、これほど素晴らしい人たちに対して、俺は「全幅の信頼を寄せられない」と言うのか?当事者が我と彼の二人であって、彼の方の責任でないとすれば、当然、非はこちらにある、ということになる。問題は、俺が、他の人間に対して、著しく臆病である、ということなのだ。つまり、無垢な子供のように相手に完全に甘えきり、身をもたせかけようとするのが怖いのだ。なぜか。そのような行為が相手の気分を害してしまい、結果、相手がプイといなくなってしまうのを恐れているのだ。ああ、もしそうなった時に抱くであろう、絶望の恐ろしさと言ったら!もたせかけようとした我が身が空を切り、無様に転倒する、その無様さたるや!想像するだに、恐ろしい!そう思ったとき、俺は、他人を信頼することが出来なくなっていた。ましてや、本当に大事に思っている友達や家族に対しては、なおさらその思いを強く感じた。
皮肉なことに、他人の気持ちを害し、その人が自分の前からいなくなってしまうことを恐れ始めた俺は、次第に、一人で行動することを好むようになっていった。結局、他人の気持ちを害することを恐れ、四苦八苦、七転八倒するくらいなら、初めから一人でいた方が良い。そう思うようになった。一人旅を好むようになったのも、結局はこの延長線上の話だ。他人に怯える必要もなく、気儘に、自分一人のことだけを考えていればよいから、好んでいるだけなのだ。そしてそれでいて、やはり心のどこかでは、そんな自分の状態を気に病み、「もし他人と旅行をしたら、移動中ももっと楽しいのだろうか」などと考えてみるのだ。しかし今となっては、誰かを旅行に誘うなど、思いもよらないものになってしまった。もし誰かを旅行に誘いたいと思ったとしても、相手を傷つけまいとする気苦労や、それが失敗し、結局相手の機嫌を損ねてしまった場合の恐怖を思うと、心がすくんでしまう。そしてそのような状況になったが最後、誰かを旅行を誘うなどということは、思いもよらないことになってしまうのだ。
こうして、自分一人でどつぼに嵌まった結果、勝手に孤独に陥って行った自分自身を、俺は悲しく哀れに思う。そして、そのような気持ちを自ずと再確認させる、子と親の信頼関係を示す光景は、微笑ましくありつつも、やはり、一抹の寂しさを与えずにはおれなかった。
そんな複雑な気持ちを勝手に抱きながら、俺は、四人家族の団欒を見ていた。いや、正確には、背中で感じていた。臆病な俺には、通路を挟んで反対側に座る人間を、あえて凝視することなど至難のわざである。そんなことをして、相手からあからさまに不審者のような扱いをされては、元も子もない。そう思い、俺はその家族に背を向け、目は窓の外をぼんやりと眺めていた。それでいながら、背中の感覚はずっと、背後の幸せな家族に対して向けていた。
駅を出てから、十分ほども経っただろうか。突然、新幹線は真っ暗なトンネルに入った。車内の明るさが、心持ち暗くなったようであった。それまで空気に拡散していくばかりであった新幹線の発する轟音が、トンネルの壁に反射することで、よりはっきりと耳に響き始めた。そしてそれだけでなく、俺の背後にいる例の家族の姿が、ぼんやりとながら、窓に映るようになったのだ。生来、理系科目が大の苦手である俺には、光の反射とか何とか、そういった科学的なことは皆目分からぬ。分からぬがとにかく、トンネルに入ったことで、目の前の窓が、大きな鏡の役割を果たすようになったのだ。
窓、改め鏡を通して見ると、先程見た時には子供たちを見守っていた両親は、ちょうど父親が母親の方を向く形で、二人で何やら話しているようであった。従って、父親の方はその後頭部しか見ることができず、また俺から見て一番奥に座る母親の顔も、よく見えなかった。また姉妹の方は、と見ると、じゃれ合いも一旦落ち着いたようであった。父親の膝に座る妹は、父親の気を引こうとしているのか、しきりにもぞもぞと動いているようであった。姉の方は、少しうつむき加減で自分の指先同士を絡ませ合いながら、妹の様子をじっと見つめているかのようであった。先程の、いかにも仲睦まじい光景とは変わっていたものの、やはり、平和な家族の姿には変わりない。俺はそんな光景を、複雑な思いを抱きながら、目の前の急造の鏡を通してじっと眺めていた。
すると突然、鏡の中で、姉の目と俺の目が合った、いや正確には、合ったかのように見えた。目の前の鏡に反射する景色はどことなくぼんやりとしており、従って、その鏡に映る相手の正確な表情まではよく分からなかった。それでも確かに、彼女がこちらに体をねじり、その顔が俺の座る方角を向いているように見えた。それだけではない。窓に彼女の顔を見出だした俺が「あっ」と思った次の瞬間、姉はこちらに右手を上げ、その小さな手を振った、ように見えた。なおのこと驚いたその刹那、新幹線はトンネルを抜けた。車内は、元の明るさを取り戻した。俺の鼓膜を支配していた轟音は消えた。そして、少女の姿を反射していた鏡は、再び、外の風景を映す窓へと戻った。
俺は、呆然と窓を眺めた。眺めつつ考えた。あの少女は、いったい、どういうつもりだったのだろう?そもそも、本当に俺の方を向いていたのだろうか?それとも、あの子の方では全然違うものを見つめていたのに、俺が勝手に、こちらを見つめていると勘違いしただけなのだろうか?いや、だとしたら、新幹線がトンネルを抜ける刹那に振ってきたあの手は何だったのか?あれも、単なる俺の勘違いで、実際のところ、こちらに挨拶をするつもりでも何でもなく、たまたま上に掲げた手がそのように見えただけなのか?いやそれにしては、あまりにはっきりと、こちらに手を振っているように見えていたのだが・・・。
こう思いつつ、俺は、自分自身の顔を、通路を挟んだ反対の席、すなわち、四人家族が座る方へと向けることが出来なかった。本来であれば、これが最も単純で、最も採用すべき確認の方法であることは分かっていた。すなわち、実際に問題の少女を肉眼で確認し、少女がまだこちらを見ていれば、先ほどトンネルで見た光景は勘違いでなかったことになる。また、少女がこちらを一顧だにしていない様子なら、先ほどの光景は単なる自分の思い違い、ということでよい。これほど簡単に決着がつくのだから、本来であれば、ためらうことなく、彼女の方を向けばよかった。ちらっと見れば、それで済む話であった。
しかしながら、ここまで自分で分かっていながら、俺は、少女の方に顔を向けることが出来なかった。なぜか?これも俺には分かっていた。つまるところ、ここでも、俺の人間に対する臆病さが遺憾なく発揮されたのだ。もし、俺が自分の肉眼で少女を見た時、まだ彼女がこちらを見たままで、偶然にもお互いの目が合ってしまったらどうしよう?そのとき、俺はどんな反応をすればよいのだろうか?もしそこで、ただ相手に親しみを示すつもりで、例えば手を振ってみたり、笑いかけてみたとしたら?そんなところを、なにも知らない彼女の両親に見られたら、確実に不審者扱いされてしまうのではないか?いや、両親以前に、少女自身から不審者のように思われてしまうのではないか?きっとそうだ。こちらには何の下心もなくて、ただ、先程こちらを見ていたのか確認したいだけなのだが、先方ではそんな風には解釈してくれるわけがない。
「おかしな男がこちらに何やらちょっかいを出してきている」
などと思われるのがオチだ。意識的・無意識的のいずれかは分からぬが、俺の心には、このような思いが渦巻いていた。そしてこの思いが、少女の方を向くという単純極まりない動作の遂行を、押し止めていた。
そうこうしているうちに、新幹線はまたトンネルに入った。トンネル独特の轟音が、再び、車内を満たす。そして俺は、再び少女の顔を、鏡の中に見出だした。間違いない!彼女はこちらを向いている。確実に、俺と目が合っている。彼女は、何をするでもなく、ただじっと、こちらを見つめているようであった。俺は俺で、鏡の中の彼女の顔から目を背けられなかった。ただ呆けたように、鏡の中を見つめていた。彼女の両親や妹はと言うと、長女と俺のこの奇妙なやり取りに、気がついていないようであった。
実のところ、俺と少女との間の、この二度目のトンネルでの無言のやり取りは、ぼんやりとしかその輪郭を思い出せない。よほど驚いたのか、あるいは、よほど無心に鏡を見つめていたのか、その理由は俺自身にもよく分からない。どれほどの時間、新幹線はトンネルを走っていたのか、あるいは、少女はどんな服装で、どんな髪型をしていたのか、それすら、今は判然としない。確かなのは、彼女が俺の方を見つめていたこと、そして、トンネルを抜ける直前に、こちらに手を振るかのような動作をしていた、ということだ。
二度目のトンネルを抜けた時、俺は思った。今度は間違いない。彼女は確実に、こちらを見ていた。あれほど目が合っていたのだから、そうに違いない、と。それにしても、なぜあの子はこちらを向いていたのだろう?そう考えたとき、瞬間的に閃くものがあった。彼女は、他人を容易に信頼できなくなってしまった俺の孤独な気持ちを嗅ぎ取って、そんな俺の貧しい心を癒してあげようと思って、こちらを向き、手まで振ってみせてくれたのではないだろうか?今こうして書いてみると、ずいぶんと気障で、勝手極まりない解釈であるが、その時の俺は、ある程度の確度で、その可能性が正しいのではないかと疑った。そうだ、きっとそうだ。考えてみれば、子供の嗅覚というものは不思議なものとよく聞く。大人では到底感じとることが出来ないような、ちょっと離れた所に座るものの気持ちを感じとることも、あるいは出来てしまうのかもしれない。そもそも、俺は先程まで、少女自身とその家族の幸せそうな光景を見て、幸福と孤独の入り交じった感情を抱いていたばかりだ。それを、あの子は敏感に感じ取ったのかもしれない。そしてそれを哀れに思い、トンネルの中で窓が鏡になったのを幸いに、その鏡を通して、俺を励まそうとしてくれたのかもしれない。
もしそうなら、ほんの一瞬でもいい、彼女の方をきちんと向いて、感謝の意を示すべきだ。別に、声に出し「ありがとう」と言う必要はない。それこそ、ただ微笑んでみせるだけでいい。とにかく、ちょっとでも彼女の方を向いてあげるべきだ。俺はそう思った。
しかしここまで考えても、俺の視線は、相変わらず、新幹線の窓にべったりとくっついたままであった。依然として、少女の方に、顔を向けられなかった。ここまで考えながら、俺はなお、恐れていた。少女の方をまともに向いて、その結果、自分が相手の態度から傷つけられることを。信頼していたこの無垢な少女に、裏切られるのではないか、ということを。そして、この恐怖の結果として、俺の目は、少女の方を向くことはなかった。ひたすら、窓の外を眺めていた。
この情けない事実が示すものは明らかだった。結局、俺は、自分の頭の中で勝手に作り上げた無垢な少女すら、信じることが出来なかったのだ。裏切られ、傷つけられることを恐れた。自分に好意を示してくれたと思い込んでいる相手さえ、信頼しきることが出来なかった。情けない、いや、無残だと思った。ここまで、臆病だとは。ここまで、人を信じられなくなっているとは。もはや自分に、横に座る四人家族のような幸福は永遠に訪れはしない、永遠にこのような心の平穏は訪れない、そう宣告されたようであった。俺は、自分自身に酷く落胆し、絶望するしかなかった。
やがて、新幹線は次の駅に差し掛かった。俺の降りる駅だ。降りる支度をしなければ。沈んだ心のまま、俺は、簡単な荷物の整理をした。もはや少女の方を向くなど思いも寄らなかった。ただ早く、この空間から逃れ出たかった。
ようやく、新幹線は駅に到着した。俺は席を立った。四人家族の方は、席に腰をつけたままであった。俺は自分の席から離れる時、最後の勇気を振り絞って、ちらっ、と少女に目をやった。少女は、こちらを見てなどいなかった。彼女は再び、その妹と楽しそうにじゃれ合っていた。両親はそれを、温かく見守っていた。そこには、彼らが新幹線に乗った直後のような、幸せな家族団欒の姿があった。
「やはり、先ほどのトンネルでの出来事は俺の勘違いだったのだ」
無理矢理にそう思いながら、少女とその家族に背を向け、足早に出口へと向かった。幸福を感じる余裕は、もはやなかった。ただただ、自分が今後、一生手にすることが出来ないであろうこの光景を、これ以上見たくなかった。いよいよ通路端の出口に差し掛かった、その時、
「寂しい人だね」
という、幼い少女の声が聞こえたような気がした。いや、確かに聞こえた。
いったい、あの声は誰の声であったのだろうか?誰に向けられたものであったのだろうか?俺はそれを確かめようともせず、新幹線から降り、一目散に改札口へと下る階段へ向かった。ようやく階段を下る、その一段目に足を踏み出した時、ふと後ろを振り返ると、もうそこには、新幹線も、少女も、四人家族もいなかった。ただ、空っぽのプラットホームが広がっているのみであった。