1-5. オードブル
◇◆◇
「ボス、虹彩点が出てるよ」
街の一角をドーム状に包んだ紅の霧を前にゲズゥは屈みこむと機械の赤い瞳をフードの奥で輝かす。
赤い霧のドームとロンドミリオンの境界線となる部分にわずかに噴き出す虹色の輝きを分析するかのようにゲズゥから機械音が響く。
次元と次元の軋轢によってこぼれる虹色の輝きは次元の歪の目印であり、ロンドミリオンと言う次元が今、この赤い霧に侵食されている。
「しかもこの霧の結界少しずつだけど大きくなってるね。と言うか、結界と言う概念を超えてるね。こりゃ次元そのもの作り出してるって言った方が正確だね」
「魔神の力ならばその程度は朝飯前だろう」
「予想してたのは良いけど、このままだと時間で膨張してくこの次元にロンドミリオンが呑まれちゃうんじゃないの?」
「なに。大した問題ではないさ」
隣に立ったブックマンのまるで動じない声で腕を組んだまま目の前で揺らめく巨大な霧のドームを見た。
遥か昔。まだロンドミリオンが街と呼ぶにはあまりに何もない平地だったとき、魔神と拳を交えた記憶をブックマンは引っ張り出す。
「ギタリナグア道術……」
ぽつりとブックマンはこぼすと霧のなかへと躊躇いなく足を踏み入れる。
かつての戦いの記憶のなかで見知った魔回導に満たされた赤い霧がブックマンを迎える。
「ゲズゥ。君はそこで待機していたまえ」
「言われなくても。僕は非戦闘員だからね。それよりもこの次元を作り出している魔回導を調べたくてしょうがないよ」
好奇心を抑えられない声でゲズゥの機械の腕が二又にも三叉にも分かれ、体内からは無数の子機が出てくる。
次元を呑み込む次元を作り出す術など前代未聞のものだ。次元を専門として研究しているゲズゥとしては興味の尽きない研究対象だ。
気が付いた時にはブックマンの姿は赤い霧のなかへと呑まれその後ろ姿は既に視認できなかった。
「勝手気ままの好き放題にわいてくるぜ。
喰っても喰ってもキリがねえ」
「ほんとにね」
血によって造形された大量のクレイマン。その奥でルフサは歪な笑みを浮かべて立っている。
とめどなく流れ出る血は霧に覆われた街の地を這い、いまや足先が浸かるものとなっている。
その血を糧とし無限にわいてくる人形にジェットとオルはため息が一つこぼれる。
「ったく!」
血で出来た人形達の攻撃はどれもが決して遅くない。常人であれば容易に壊すだけの機動力と怪力を秘めているが、それらの攻撃は二人の肌に決して触れることはできない。
常人では捕らえることのできない二人は攻めてくるものを片っ端からジェットが食い千切り、オルが別次元へと転移させている。それを繰り返して対処こそしているが生産速度がそれを確実に上回っている。
「さっきまでの威勢はどうした?」
「うるせえなっ! 今すぐてめえの喉笛噛み千切ってやるからそこで待ってやが──」
血で固めた剣がジェットの首を一閃する。二人を全方位囲んだ人形達の距離はいまや目と鼻の先だ。
「人の話を途中で遮るんじゃねえよっ!」
こぼれる首を慌てて拾った体がそのまま剣を振りぬいた人形の脇を蹴り上げる。
赤い毛に包まれた足が、もはや線としてしか視認することのできない速度で蹴りを繰り出す。それを脇腹に受けた人形は、体がありえない『く』の字を描いてへし折れ、家の外壁に頭からぶつかり砕ける。
「ったく、人様の話をきちんと最後まで聞きやがれってんだ」
何事もなかったかのようにジェットが再び首を断面に置くとすぐさま接着する。
「そう言えば君は不死者だったね」
「そうよ! 死にたくても死ねない体たあ、俺様のことよ」
「不死者に次元回遊族。次元絶滅種を二人も手札に持ってるなんてブックマンは実に恵まれているな。まあ君たち二人では私に触れることもできないだろうが」
「……実際どうなんだ?」
「なにがよ?」
勝ち誇ったルフサをよそにジェットは怪訝な表情でオルの方を見た。
掌から血をこぼし続けるルフサまで直線距離で目測五〇メートル程度だろう。
ジェットならば瞬きする間に喰らいつける距離だが、その間には大量の人形が隙間なく犇めている。
「お前の次元転移で俺をあそこに運べないのか?」
「ちょっと難しいかな」
様々な武器を手に持った人形にオルの掌がそっと触れる。それと同時に姿が消える。
次元さえ接地していれば別次元すら跳躍することのできる次元回遊族のオルドリオ。
その力を以てしてロマンを求め様々な次元を飛び回る一族の力を持ったオルからすれば、任意の場所にジェットを跳ばすなど難しいことではない。ここが普通の次元ならば。
「ここってどうやら結界じゃなくて次元そのものがあいつの手で作られてるっぽくて凄く奇妙な世界なの」
「だから?」
「次元の波が不規則にうねってるせいで、あんたがどこに跳ぶか責任持てないってことよ。下手したら次元の狭間で全身バラバラだし」
「……なんだよ。俺のこと心配してくれてるのかよ──いでっ!」
だらしなく笑うジェットに対してオルは非力ながら頭を殴りつける。
「心配してるわけじゃなくて、ここであんたが居なくなると、私一人でこいつら処理しないといけないって話をしてんの」
「またまた~。本当は俺のこと心配してくれてるんだろ。この照れ屋さん──いでっ! いででっ!!」
呆れたような溜息とともにオルの拳が何度もジェットの頭を殴る。
その間にも迫ってくる人形を二人は確実に処理するが、やはり数は減るどころか増える一方だ。
「ここって……どこ?」
ルフサは頭を傾げあたりを一度見渡してみた。
暗く、まるで明かりのない世界。
寒くも暑くもなく、ただ妙な浮遊感だけが全身を包んでいる。
「初めまして」
「わっ──ん?」
目の前に突然現れた女性に対してルフサは目を見開いて驚いたのちにその姿をじっと凝視した。
腰まで伸びた銀色の太い三つ編みが一本に地味なハイネックとロングスカート。まるで精彩に欠いた出で立ち。
「わ、私?」
普段、自分の姿など特別なことが無い限りはまじまじと見ない。その自分、ガーネット=ルフサが目の前にいるとつい見てしまう。あえて違いをあげるならば煌々と輝く深紅の瞳と眉尻が持ち上がった勝気な笑みだ。
「リードマン。こうして会うのは初めてだな」
「その声ってもしかして……」
聞き覚えのある声。
この世界へと呼びこまれたのも、そして自分の体を奪われた事も、全ての元凶にある声だ。
「本に封印されてた、えっと、魔神の…………イーロッドさん……だっけ?」
頼りにならない記憶を辿るルフサは腕を組み唸りながら恐る恐る言葉を出してから目の前で笑みを浮かべた自分を見る。
自分で自分と話すのは前例がないだけに不思議な気分だ。
「そうだ。しかし、実に非力な体だな。
不便極まりない。
弱点が多すぎる。使っていてケアすることが多いゆえにとてもじゃないが全力を出す事ができないぞ」
「そんなこと言われても、ごく普通の体ですよ」
「よほど貧弱な種族なんだな」
強気な笑みを浮かべたイーロッドは凹凸の少ない体を服越しに遠慮なく触る。
顔から始まりゆっくりとその手は体の稜線に沿う下へと降りていき首、胸へと続き腹部。そして……
「ああー!! あああぁぁぁっっ!! そんなところ勝手に触らないで下さいよ! エッチ! スケベッ!!」
「な、なんだ!? 離れろ。私が貴様の貞操観念など知るか」
しがみついてくるルフサを振り払おうと全身を捻じってみせるが、顔を真っ赤にしたルフサは必死にしがみつく。
ここで離したらお腹から更に下へとその手が伸びる。幾ら自分の体を操られているからと言って、はいそうですか、などと頷けるわけがない。
「だだ、ダメです! それ以上はっ!」
「貴様と遊んでる時間など私にはない。もうすぐ奴が来る」
「だ、誰か来るんですか?」
「ああ。積年の恨みにして最大の障害だ」
深紅の瞳が輝きが増すと同時に瞳の奥に鎮座する車輪の速度が増す。
赤い霧、ブラグマ内にいる全ての者の動きが把握できるイーロッドは、たった今足を踏み入れた者のその足取り、気配、雰囲気、呼吸まで全てを覚えている。
「貴様はこの闇のなかでリードマンとして私に協力する準備をしておくんだな。
その間に私が封印された体を取り返してこよう」
一方的な言葉を叩きつけると返事も確認せずに強気な笑みを浮かべたままイーロッドの姿は消え、再びルフサ一人が暗闇に取り残される。
「協力って言われても何すれば……」
「ちっくしょう! ほんと幾ら倒してもキリがねえぜっ!!」
幾ら蹴り払おうと、喰いちぎろうと、次元の彼方へと飛ばそうと、ジェットとオルを取り囲む軍勢の数はまるで減ることが無い。
心底から辟易とした声でジェットは苛立ちを混ぜて吐き出す。
鋭い牙からは喰いちぎってきた人形の四肢がこぼれる。
「ロンドミリオンが私の次元に呑み込まれるまでここの住人達にはせいぜい踊っていてもらおう」
「実際、このままだと永久にこいつらの相手をしないといけないわね」
次元の集約点となるロンドミリオンを今も目に見えないほどゆっくりと、それでいて確実に赤い霧が侵食している。
──ロンドミリオンの調停者であるガルディオンは如何なる存在であろうとこの次元に害を成す存在を封殺する。
聖骸の蒼き津液によって今、次元を喰らう者を葬る
どこまでも落ち着き決して焦ることのない声が深紅の霧に響くと同時に蒼い光を纏った円陣を魔回導が形成されていく。
激しくなる蒼き輝きと無数に増える空気に刻まれた円陣。それらがジェットとオルの二人、取り囲む軍勢。そして護られるように最奥に立つルフサへと向けられる。
──天魔すら凌駕する聖骸の血よ。魂無き人形を刻印へと昇華させよ。
放て、象形源刻
霧から響く声と共に蒼き輝きは閃光となり大通りを貫く。
無数の円陣から放たれる蒼き閃光はどれも通りを覆うのに十分すぎるほど巨大な輝きだった。
瞬間、真紅の霧は蒼き閃光の輝きと混ざり合う。
真紅の霧と蒼き輝きを放つ無数の円陣の奥から姿を現したのは頭蓋を四つ持ったスーツ姿の男だ。
身長こそあるが線は細く、着こなした灰色のスリーピースからは争いごとなどとはまるで無縁の穏やかな空気が流れている。
「久方ぶりだな。ブックマン。貴様とこうして顔を合わせるのは実に年ぶりだろうか」
「さてね。封印してから一〇〇〇年を越えたところで数えるのはやめたよ」
ブックマンはおもむろにジャケットの内ポケットから手袋を取り出す。
白く、指先までぴったりと吸いつくような手袋だ。
「ボス!」
「ジェットとオルも無事で何よりだ」
二人に振り向いたブックマンの首から上に浮かぶ四つの頭蓋骨が笑ったように見えた。
「貴様を倒せば私の障害物となる存在はいない。ブックマン! ここで積年の恨みを晴らさせてもらおう」
「残念だけど、君にはもう一度本の中へとお帰り願おう」
再び真紅の霧。そして大地を埋めるかのように流れる血から幾多もの人形が出てくる。そしてすぐさまルフサを、魔神イーロッドを護るようにブックマンとの間に軍勢は割って入る。
大通りが再び赫然とした人形で埋め尽くされる光景にブックマンの頭蓋骨の一つが深いため息を吐く。
「実に幼稚な術だ」
再び蒼の魔導円陣が一つ浮かび上がる。
──象形源刻
蒼き一本の閃光が魔導円陣から放たれる。
その輝きは大通りを埋め尽くしていた魂なき人形達を全て一枚の紙へと還る。そこに刻まれた人形を模した一文字。
紙が吹雪のように舞い落ち、血だまりへと溶けていく。
「ジェットとオルはこの術の中だけでも助けられる人を助けること」
「ボス! 俺達も──」
「すまないが私の術で君たちを巻き込まない保証はない」
ガルディオンの長であるブックマンの優しい声は暗に二人を『足手まとい』と言っている。そしてその言葉に二人は反論できなかった。
「ボス」
一歩下がったジェットの呼びかけに四つの頭蓋骨が同時に動く。
「ん?」
「勝てるんだろうな?」
「一度勝てた相手に負ける道理はない。それが魔神であってもだ」
「んじゃ任せたぜ」
オルとジェットはすぐさまその場を離れるように大きく跳躍し赤い霧へとその身を隠すように消える。
二人っきりになったブックマンは再び目の前の女性を見た。
服が派手に破け腹部が大きく露出した少女の浮かべた笑みはまさしく遥か昔に封印した魔神の表情を連想させられる。
「ずいぶんと可愛らしい姿になったもんじゃないか」
「侮るな。体こそ非力だが、積年の恨みこそが私の力の源。このブラグマでロンドミリオンを、貴様を倒し、再び次元を滅ぼす魔神として体を取り返し復活してみせる!」
意気込むルフサの周りに赤い霧が集約されていく。
「やはり魔神はどんな姿になろうと魔神か」
ため息交じりの声と共にブックマンの周りに六つの本が浮かび上がる。
内在する桁違いの質量が空気を通して伝播するように建造物の外壁が微振動を起こし亀裂を刻んでいく。
──ギタリナグア道術──
──六封環術式──
大地を覆う血は赤い霧と混じり合い全てを破壊しつくす真紅の衝動を形にした巨大な十字架となり、ブックマンの開いた六つの本からはあらゆる封術式を秘めた文字が宙へと躍り空間を埋めていく。
──吹き飛べ! ベイルクロスッ──
──封じろ。聖法崑字──