人並みというもの
久しぶりにエッセイを書いてみる。1人暮らしを始めてから3度目の春が来る。
私はたまにバイトを休むようになっていた。電話越しに嫌味を言う店長は、いつもより敬語が上手だなぁと痛む頭を押さえながら思った。定期的に来る不調は5年たった今でも、結局病名などつかない。
今は私が「嫌だ」と言えないことを身体が代わりに言っているのだと思うことにしている。不調が来たら、あぁどうしようもないぐらい嫌なのだと。じゃあしょうがない、やめよう、と。自分でどうにかできるようなハードルだったら、既にもうどうにかしているだろう。自分でどうにかできないから、不調なのだ。
不調は私が嫌がったり、無理をしたりすると起こりやすい。それを甘えとか逃げと呼ぶ人をたくさん見てきた。だから頑張ってきたけれど、21歳を前にしてなんとなくわかってきたことがある。
その人たちは「無理をしろ」と言っているのだ。
中高と学校に行くのが下手だったり、教室が怖かったり、バイトに行けなかったり、大学に行く直前に泣き出したり。私はどうにも人並みにそつなくこなすのが下手だ。けれど、できないわけじゃない。人並みのレベルにするにあたって、人よりも多くのエネルギーを使うのだ。たぶん。
だから世間が人並みを要求してくると「あ、無理でーす」と身体が応えるのだと思う。そしてその身体の持ち主である私は焦るのだ。なんで出来ないんだろう。これでは人並みではなくなってしまう、と。
一つ忘れちゃいけないことがある。それこそコーンフレークのパッケージ裏を思い出してほしい。五角形のパラメーターは決してきれいな正五角形であることはほとんどないのだ(牛乳とコーンフレークは最強タッグだが)。だから、一つのことができないからと言って、全てが平均より劣っているということには直結しないのだ。
だからって自分では何が突出してできるのかもわからないまま、21年間生きてきている。昔とても過敏だった感受性もいまではだいぶ落ち着いてきている。心臓にはいいが、創作する身としてはなかなかもどかしい。長編を書いてみたいし(ひどくエタってきた)、楽器が上手になりたいし(どれも触れるくらい)、歌も自分で満足できるぐらいになりたい。感受性は鈍くなってきたけれど、出力方法は割とあるのかもしれない。
そして最近急に気が狂いまして、それらしい大学生ごっこを辞めようと決意しました。茶色い髪、何となくおしゃれな薄い色の服、サコッシュ。そんなの辞めて、髪を黒に戻して赤い口紅を塗る。これが好きなんだと何度目かの原点回帰。
本当はもっと派手な服着て、蔦のペイントして、とかしたいのだけれど田舎大学なのでこれが限界かな。ウィルスが収束して実家に帰れたら、新宿とかをその格好で闊歩するのが夢。
どうやって生きたって私一人分の椅子はある。
最近の私のスローガンです。どんな座り方でも、格好でもそれを許容される余裕も含めて、一人分の椅子がある。なら、縮こまってるのは意外と損だな、と思えるくらい歳をとりました。
編入試験を受けます。TOEICがどうなるかわからなさ過ぎて不安ですが、どうであれ胸を張って生きていきたいものです。とっても難しいことだけどね。