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禍言の葉  作者: 御桜真
第9章 異形の子
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倒れるときは前のめり3

 目の前は相変わらず暗い。薄暗くてよく見えない。視界には骨っぽい自分の両手と、小汚い教室の床があるばかり。幻惑じゃない。

 よくもまあ、昔のことを、まざまざと思い出させてくれたものだ。魔族の術は、都雅の脳に記憶されている細かなことまでも、掘り起こしたのだろう。家の外見も内装も、まったく変わりがなく記憶の中に眠っていた。ここ数年、家に近寄った記憶もないのに。

 しかも、わざわざ思考が後ろ向きになるよう、細工までしてくれて。

「でも、まあ、相手が悪かったなあ」

 喉の奥で笑いがもれる。

 お母さん、なんて呼びかけたのは、一体どれくらいぶりだろう。

「都雅ちゃん、大丈夫? 気分悪くない?」

 すぐそばから声が聞こえる。都雅は、肩に置かれた美佐子の手を軽く叩いた。大丈夫だ、との意志を込めて。

 穏やかに笑う少女に、笑みを深める。側に控えるように少年の姿の菊が映る。どうかしてみると、姉弟に見える。妖怪と姉弟だなんて、おかしなことだけど。

「大丈夫だ。――悪い。面倒かけた」

 都雅の笑顔と素直な言葉に、菊が怯えた。それを無視して、都雅は顔を上げる。きつい瞳で、大穴の開いた壁を見る。

「何がどうなってる?」

「男の子二人、覚えてる? あの人たちが、彩香を運動場に連れ出したの」

「……そうか」

 淡白に応えた。今度は教室の隅で、意心地悪そうにしている崇子へ目を向ける。

「協会の人間だと言ったな。そこで何をしてる」

 言葉も声も、もういつもの調子に戻っていた。突然かけられた声に、崇子は肩を震わせる。応えない相手に続ける。

「何のためにここにいる。何のために働いてる」

「わたしは……」

「命がけになることもあるって分かってるんだろ。あたしみたいなガキでも分かってる。だから協会と取引するときに、あたしは余計ないちゃもんつけられる羽目になったんだ。お前が自分で選んだんだろうが。やる気もなくて人の足を引っ張るだけなら、はじめからこの仕事するんじゃねえ」

 きつい都雅の言葉に崇子は目を見開いてから、目を伏せてしまう。

「でもわたしは……」

 言い返そうとしたようだっが、それ以上の言葉がなかった。

 うつむいた崇子から顔を背けて、都雅はそのまま踵を返そうとした。去っていこうとした、その都雅の腕を美佐子が掴む。きつく見返した都雅を、少女は目をそらさず受け止める。

「ねえ、都雅ちゃん。一緒の学校を受験しないかってわたし聞いたよね。進学するかしないかとか、そういうのだけじゃなくて、小さくても大きくても、どっちか選ばないといけない時って、あるよね」

「……ああ」

「都雅ちゃんも、色々選んで、こうして命懸けでお仕事して、あの魔族追いかけてきて、わたしを助けてくれてるんだよね」

「そうだな」

「わたしは、菊ちゃんから事情を伝え聞いただけで、詳しく知らないけど、一つだけ聞くね。もしわたしと、雅毅君と、同時に危険だったら、どっちを助ける?」

 一瞬言葉に詰まった都雅を、美佐子は、彼女らしい強い瞳で見ている。

「都雅ちゃん。迷わないで。雅毅君を助けてね」

 以前、都雅を友達だと言った美佐子の目は、決して驕っていなかった。美佐子はよく分かっている。都雅が、結局すごくお人よしだということ。無茶な依頼だった新藤家のことも引き受けて、傷だらけになったことも、よく分かっている。

「ああ、気をつける」

 苦笑しながら都雅はつぶやいた。

 そしてまた立ち上がる。マントをひるがえして、細い体を起き上がらせる。

 押さえつけられたって、拒絶されたって、誰の思い通りにもならない。屈しない。自分の意思で、そこに踏みとどまってみせる。

 こんなに自分は駄目で、滅茶苦茶で、支離滅裂だ。でもそれで構わない。

 何度だって、立ち向かってやる。



 美佐子は、あちこちに無残な傷跡の残る教室に立ち尽くしていた。ぽっかりと壁に開いた穴を見ている。

 容赦ない力のぶつけられた跡。この世の者ではない、尋常でないものたちが争った跡だ。

「わたし、都雅ちゃんを追う」

 唐突に言い出した美佐子に、少年姿の菊が慌てて彼女の腕を引っ張った。

「何を突然言い出すのじゃ」

「だって、彩香も放っておけない。わたしにできることがあったら、したいの」

「……美佐子ちゃん。わしは美佐子ちゃんの言うことなら何だろうと邪魔はしないが、これだけは反対じゃ」

 気を引くように彼女の腕を掴んだまま、菊は翠の眼差しをうつむける。

「わしは新藤家での都雅を見ておる。わしらが共におったがために、あやつは大怪我をしたんじゃ。わしらが追って行ったところで、足手まといにしかならぬ。自身の身すら守る事もできぬのに、これ以上負担にはなれぬ。あれは、決して態度に見せぬが、律儀な娘じゃからのう」

 そうだね、と応じて美佐子は微笑する。

「でも、だからこそ、隠れて逃げてていいのかな。もともと飛び込んできたのはわたしなのに。それに、よくは分からなけど、みんながそれだけ大変だと言うんなら、ここに残っても追いかけて行っても、危険なことは変わらない気がする」

 そんな主人を見上げて、菊はやれやれという様子で首を振る。

 何を言っても止められそうにない。それに菊自身の性分としても、ただうずくまって待っていられるものでもなかった。さてどうしたものかと思ったが、おずおずと割り込んだ声があった。

「ひとつ、お願いがあるんです」

 顔を上げて、美佐子と菊が振り返る。萎縮したように身を縮めて崇子が立っていた。電気もついていない教室の中でそうしている彼女は、怯えているというよりもとても寒そうだった。

 ――何をやっている、と言われて答えられなかった。

 自分でも情けなくて、言い訳もできなかった。

「わたし、あの女の子を助けられるかもしれない」

「本当ですか?」

 美佐子が驚いて声を上げる。崇子は、ぎこちなく唇の端だけで笑った。

「難しいけど、やってみます。それで、できればここにいて欲しいんです。いてくれるだけでいいから。そうしたら、わたしもあなたと一緒に、彼女たちの後を追います。戦う自信はないけど、守るくらいならできると思う。――あんまり近くまで行けるかどうか、自信はないけど」

 今は魔族もそう近くにはいない。けれど思惑を挫くような行動をした者を、許さないはずだ。成功してもしなくても。例え近くにいなくても、一体どこで誰がそれをしようとしたのかくらい、分かるはずだ。

 だから隠れていたって、行動を起こすことは安全ではない。都雅か、奏たちが止めてくれればいいけれど、それはあまりにも甘えすぎと言うものだ。

 でも魔族は都雅に執着している様子だったし、崇子が何をしようと気にもとめないかもしれない。行動を起こしたら反撃を受けるかもという予想は、崇子の杞憂かもしれない。何が起こるか予想もつかない。起きるかもしれない、起きないかもしれないことに対して、彼女の心は逡巡している。

 心は怯える。葛藤を繰り返す。可能性であっても標的になるのなら、恐ろしい事に変わりはない。体の震えが止まらないくらい。一人だったらきっと逃げ出している。

 術者だというのに、情けない。けれどそんな申し出に、美佐子は微笑んだ。

「お願いします」

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