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命じる目

　ぱたり、ぱたり、ぱたりと、足音が遠ざかっていく。光を携えた見回りの看護士が音と共に去っていき、暗い夜の色が残った。

　消毒液の臭いが漂う、締め切られた病室の中。カーテンにさえぎられた月明かりが、ぼんやりと部屋を照らしている。

　その中に闇がいた。人の形をして、滞るように、そこにいた。

　看護士が来たときには居なかったのに。確かにそこにたたずんでいた。ベッドが三っつ並ぶ病室の中、滑るように歩き始める。

　その動きに従って、ベッドを囲うカーテンが順にめくれていく。閉め切られて風もないのに、自らふわりと持ち上がっていた。

　眠っているのは、同じ年頃の少女たちだった。影は少女たちを物色するように眺めながら、窓際のベッドの少女に目を止める。カーテンは、影の意志に応えるように、自ら開いていった。静かな音をたてて。

　少女は焦燥した表情で眠っていた。運び込まれた翌日に一度目を覚ましたが、再び眠りに落ちてからは起きる気配がない。

　この部屋に寝ている少女たちの手首には、皆同じように包帯が巻かれていた。

　――自殺を図った痕。それも集団自殺だ。

　一命をとりとめることが出来たのは、発見が早かったから。学校と親の希望で、話が外にもれないように抑えられているが、少女たちの身体についた傷痕はもう消えないだろう。

　どうして、そんなことを。

　親も教師も、思い当たるような前兆はなかったのかと互いに問うて、沈黙した。ごく普通の家庭の、普通の少女たち。ひとりひとりが悩み事を抱えていたとしても、全員が同時に手首を切るなんて、簡単に起こることではない。おかしな噂話なども、誰も知らなかった。若者をターゲットにした怪しげな宗教とか、そういうものに引っかかった様子もなかったのに。

　問題を、警察は一言で片づけた。曰く「受験のストレスではないか」と。決めつけられないが、集団ヒステリーではないかと、医者も言った。他に原因らしいものが見つからなかったのだから、仕方がなかった。

　けれど今、人影が目を止めた少女には――その少女だけには、もう一つの要素とも言えるようなものがあった。

　ただでさえプレッシャーを抱え込むこの時期に、親が離婚の話で割れている。

　友人たちの誰にも話していなかったが、心に影を落とす大きな要因だった。

　検分するように見られて、少女は瞳を開く。他の二人は眠ったままなのに、その少女だけふと目を覚ました。

　瞳に映るのは、白い部屋に満ちた夜の闇。白いカーテンの隙間からもれる月明かり。相反して闇を滞らせたような、人影。

　少女の前には、美しい女がいた。禍々しい、血塗られたような紅の唇をつり上げて笑う、闇の化身のようなそれ。

　目にした途端、少女の表情が恐怖に染まる。

　人がいるはずないとか、看護士でないとか、そんなことではない。それを見たのが昼間でも、人がたくさんいる場だったとしても、少女は――人間なら誰でも、怯えずにいられないだろう。

　存在自体が、あまりにも凶悪だった。いたぶるような気配を隠すどころか誇示して、女はたたずんでいた。嘲るような黒い瞳を少女に向けて。そして少女は、この気配を知っていた。感じたことのあるものだった。あの日、学校の門で。

　死にたくなるような恐怖が沸きあがるのに、悲鳴が出ない。見つめられて、声が少しも出ない。

　けれども――意識は、恐怖とは別の感情を持ち始める。じりじりと細胞の隙間から侵食されていくかのように、心の中が均《なら》されていく。

　それは少女を見る、瞳のせい。

　無言の命令を発する、瞳のせい。抗うことを許さない圧倒的な瞳。それが少女の心をじわじわと、確実に侵略していっていた。

　惑わせる。溺れさせる。思考を奪う。――捕らえる。

　支配する。

　少女の瞳が生気を失い始める。黒い目で虚空を見る少女の顔には、何もなくなっていた。無表情と言うことすらためらいたくなるような、何の感情も覗かせない、生気すらもなくした表情《かお》。

　それを見て闇のような女性は笑みを深める。満足げに瞳を細めて嗤う。

　そして、消えた。

　直後、表情をなくした少女の顔に、唐突に感情が戻った。喜々とした顔で、空を見つめて嗤った。

　月すらも覗き見ることしか許されない闇の中。無音の空間での出来事。