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おしりを出した子一等賞

作者: 宮瀬勝成

キボウは希望を持って生まれた。

 トラックをただ走る。1番最初にゴールをするだけで、富と名声が手に入る。こんな単純な「競走」の世界に俺はいる。


 父親も母親もアスリートだった。父と母は競走界でかなり有名だったらしい。


「あんたの親はすごかったんだ。特にお父さんは最強で、日本では誰にも負けなかったんだぞ。世界大会は2番だったが、あれは本当に惜しかった」


そんな言葉はこれまで何万回と聞いてきた。しかし、女たらしだった父は、たくさんの女との間に子供を作っていたらしい。俺は父と会ったことは一度もない。どこで何をしているのかすら知らないし、興味もない。


「あんたはどんなに強くなっても、あんな男になっちゃいけないよ」


母の口癖だった。そんな母は、端麗な顔立ちをしていて、女子競走界ではアイドル的な人気だったという。


 両親がこれほどのアスリートだったのだから、俺も注目されないはずがない。幼い頃から、母を指導したモリタさんと共に暮らし、徹底的に鍛えられた。母に会うことも少なくなっていったが、会うたびに「大きくなったねえ」と目を細めてくれた。


俺の名前である「キボウ」はモリタさんが命名した。「誰にも負けない選手になってほしい」という母の願いが由来らしい。

モリタさんによると、母はいつも私のことを案じていたらしい。「俺がお前の話をすると目を輝かせ、なかなか帰してくれないんだ」とモリタコーチはよく笑っていた。


 アスリートの血が流れているせいか、モリタコーチの指導がいいのか、はたまた両方なのか分からないが、俺がレースに出始めると、優勝を重ねていった。


 私が最も得意だったのが、中距離だった。その中でも2000メートル走だ。これは父も母も負けなしだったという。血は争えない、というやつだ。しかし、大きな大会になればなるほど、その距離のレースは少なくなっていき、異なる距離での出場がほとんどだったが、それでも私は負けなかった。


 世間は俺を「競走界のプリンス」と呼んだ。それもそうだ。生まれたときから活躍を期待され、それに応えたのだから。


 中距離走となると、一種の作戦が勝利の鍵を握る。スタートからゴールまで全力疾走で駆け抜けることはできない。多くの選手が5割から6割の力で力を溜めてトラックを回り、最後の直線で一気に全力を出す、というのが定番だ。中には、瞬発力を活かし、最後方からとてつもない脚力でまくる人もいるが、私は違う。スタート直後は全力。先頭でレースを始める。


スタジアム、テレビを含めると何十万人が見ている中で、一人ポツンと先頭を走るのは快感だ。敵も曲がりなりにもアスリート。誰が勝つのかワクワクしている中で、視線を独占する。差が縮まるのか、そのまま俺が逃げ切るのか。


大抵は私まで届く人などいなかった。


 日本で負けることがないことで、私は逆につまらなくなっていった。端的に言うと歯ごたえがない。いくらおいしい食べ物があっても、草のような触感だと、飽きてしまう。それと同じだ。もっと強い相手と戦いたい。レースに勝ってもうれしくない。そんなことばかり考えていた。


 ある日、モリタさんが私に提案してきた。「世界で戦ってみないか」。

私には断る理由などない。またとないチャンスだ。私が鼻息を荒くしているところで、モリタさんが付け加えた。「次に出てもらいたいのは、お父さんが唯一負けたレースだ」


 会ったこともない、他人からの又聞きでしか知らない父親だった。私は父が嫌いだ。母を捨て、気の赴くままに暮らしている。私がアスリートとしてつらい練習に耐えているのも、父への反骨心があってからかもしれない。絶対超えてやると昔から思っていた。それが叶う機会ができたのだ。なんとしてでも勝つしかない。




 パリの西のセーヌ川沿いにそのスタジアムはあった。周りには木々が生い茂り、場内の芝生は青々と輝いている。葉の薫りが鼻を通り、肺に渡る感覚が分かる。「スタジアムというよりは森の中で走るみたいだ」と感じた。世界で1番美しい競技場だと言われることだけある。普段以上の実力が出せそうな気がした。


 俺はスタートラインの後方でその時を待った。足踏みしたり、軽く弾んだり、身体が冷めないようにしていた。

5万人を収容するスタジアムは満員だった。日本はもちろん欧州各国にもテレビやインターネットで生中継がされている。賞金総額は530万ユーロ。1等賞になるとその半分が手に入る。


「相手はお前が思っている以上に強いぞ。でもお前なら勝てる。俺が合図を出すタイミングで最後の力を振り絞るんだぞ」


 試合担当のコーチであるタケトヨさんが俺の背中を叩いた。実は俺にはコーチが2人いる。モリタさんは育成と調整を担当するコーチで、試合直前から終わりまでは口を一切出さない。その代わり、このタケトヨさんが試合の展開や、ラストスパートを切るタイミングを指示する。


 タケトヨさんは、俺が試合に勝ち始めたときにやってきた。なんでもモリタさんと昔からの付き合いらしい。競走界では名の通ったコーチらしく、海外での経験も豊富だと聞いた。そして、このフランスでのレースも、父親とタッグを組んで敗れた。


「知ってるか?このレース誰が勝つか、賭けが行われてるみたいなんだ。残念ながら、お前は3番人気だ」

タケトヨさんが笑った。


「なんだそれは」


俺はむっとした。当然、世の中のすべての人が、俺が勝つだろうと、予想していると思っていた。なめられたもんだ。


「おいおい、機嫌悪くするなよ。でもお前なら逆に燃えるだろ。世界中に深い衝撃を与えてくれ。ディープインパクトだ」


「当たり前だ」


 スタートラインに立つ。それまでざわついていた場内が一気に静まりかえった。頭から首、腹、そして足へと、意識を集中させる。俺にとってスタートダッシュが生命線だ。足に力を込める。「大丈夫、大丈夫だ」自分に言い聞かせる。今までにはないことだ。初めての海外で緊張しているのか。武者震いがする。こんなに速い心臓の鼓動でスタートするのはいつ以来だろうか。


「バンッ」

レースが始まった。




「よし」

俺は瞬間的にそう思った。絶好のスタートだ。いつも通り、集団の先頭で試合を運べる。一気に後続を突き放して、終盤まで行こうと足に力を込めた。後ろから聞こえる足音が徐々に遠ざかっていく。


いつもならそうだった。


 横目で背後を見る。2人が俺にぴたりとついてきていた。しかも、俺をペースメーカーとしているかのように、表情には余裕があった。最後の直線でかわすと舌なめずりをしているようだった。日本ではあり得なかったことだった。俺のスタートダッシュについてくる奴がいるなんて。突き放さないといけない。俺は焦った。もっと速く。もっともっと。足を一生懸命動かす。しかし、差が大きく開かず、2人はじっと俺を観察している。


「焦るな。ここで消耗してどうする。後ろの2人以外は大丈夫だ。いつも以上に突き放せているから、抜かれることはない。我慢比べだ」


タケトヨさんの声が聞こえた。


 確かに言われてみればそうだ。ここで争っても意味がない。レースは2400㍍。ここで1番になっても、最後の最後で抜かれては元も子もない。自分のペースで走ることが大事だ。俺は身体の力をスッと抜いた。


「そうだ。楽に行くんだ。熱くなるなよ」


タケトヨさんがよしよしとうなづいた。


 俺の背後を走っていた奴が、1人前に出てきた。身体1個分の差というところだろうか。考えてみれば、2番手でレースを進めるのは始めてだ。なんとなく気持ち悪いというか、ぎこちない。でも、タケトヨさんが「それでいい」と言うのだから信じるしかない。


「耐えろ、耐えろ」


 自分に言い聞かせる。幸い、疲れをあまり感じずにレースを進められている。今度は俺が1番手の背後にぴたりとつく。いつでも抜けるぞ、と今度は俺がプレッシャーをかける。


 地鳴りのような歓声が一段と大きくなってきた。選手がコーナーを曲がり、最後の直線にさしかかろうとしていた。


「よし行くぞ」


タケトヨさんが合図を出した。お尻にバチンという電気が走り、足先へとビリビリと伝わっていく。


 最後の直線に入ったところで、1番手に並んだ。さあヨーイ、ドンだ。


「行けー!」


タケトヨさんの声が聞こえた。スタンドで見ているモリタさんの声も聞こえた、気がした。


 俺は前だけを見つめる。あと少し、あと少しだ。身体中の細胞を走るためだけに使う。圧勝じゃなくてもいい。この隣を走る得体の知れない奴より、ハナ差で勝てばいい。





「ロンシャン競馬場に日本の希望が輝きました!日本史上初の凱旋門賞馬がついに誕生しました!」


 どっと沸く歓声に混ざって、イヤホンから興奮した声の実況が聞こえてきたが、私もそれどころではない。キボウが勝ったのだ。私は両手を天に突き上げ、言葉にならぬ言葉を発していた。


 キボウの父も母も三冠達成の名馬だった。当然、キボウは誕生した途端、注目されてきた。そんな金の卵を育てる私にとっても大きなプレッシャーだった。「無事之名馬」と言うが、キボウに限っては、勝ち続けなければいけなかった。


 しかし、そんなことは杞憂だった。キボウは才能に溢れていた。身体も大きく、弾力がある筋肉。スタートダッシュや、最後の直線で見せる切れ味は抜群だった。それらも十分すぎる魅力だが、一番驚いたことが、他のどの馬よりも、頭が良いということだ。


自分はサラブレット、競走馬だということを理解しているようだった。勝つにはどうすればいいかということを考えていたように見える。信じられない話だと思うが、走るたびに反省をし、課題を改善しようとしていたのだ。


私がキボウの前で独り言のように、改善点をつぶやいていると、翌日の調教では、明らかにそれを意識していた。まるで私の言葉を分かっているようだった。そのため私はキボウに話しかけるのが好きだ。レースや調教について話すこともあったが、彼の両親の話をしたこともある。それをキボウはいつも穏やかに聞いていた。


人間のように考え、行動する。キボウはそういった意味で頭がよかった。



キボウがデビュー戦から3連勝をしたところで、彼をタケトヨ騎手に任せることにした。タケトヨ騎手は馬との会話を大切にする人だ。キボウ・タケトヨコンビなら合うだろうなと考えた。彼らなら世界で勝てるかもしれないと。


まさか本当に世界を獲るとは。




「キボウやったな、おめでとう」


控え室に帰ってきたキボウに声をかけた。私はレース中にキボウと一緒にいることができなかった。レースはスタンドから、今年から始まった日本のネット中継の実況を聞きながら見守っていた。なので、パドック以来の再会である。


「お前が世界で一番だ。一等賞だ」


その時、キボウがヒヒーンと鳴いた。そうか、やっぱりお前は本当に人間の言葉を理解しているのだな。私は、顔がほころび、なんとなく喜んでいるように見えるキボウの鼻筋をポンポンと叩いた。


キボウはみんなの希望となった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 久しぶりに面白いお話に出会えました。 次作も期待です。
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