Drift
私は
私じゃないような、不思議な感覚の中に漂っている。
生暖かい水の中で、身体を丸めながらゆっくりと浮遊する、上も下もない無重力の世界。
このまま私は目を覚まさずここにとどまっていたい。
何も求めず、与えず、干渉される事も無く、この無の空間で眠っていたい。
そう…思っていたのに。
誰かが私を呼んでいる。
放って置いて欲しいのに、その人は違う名前で、私を呼んでいる。
私はそんな名前じゃない。
あなたは誰なの…?
目が覚めると、私の指は虚しく空を掻いていた。
「夢…」
窓の方に目をやると、カーテン越しに強烈な日光が当たっているのが分かる。
ベッドから降り、両手で一気にカーテンを開いた。
私は目を細める。
目の前に広がるのは、真っ白な入道雲と、透き通るような青。その下には様々な色、形の家々。
幼稚園の送迎バスを待つ、子供と母親達。
犬の散歩をしているお隣の老夫婦。
穏やかで平和な風景だ。
私は羨望の眼差しでそれを見つめていた。
階段を降りてすぐの所にキッチンがあるが、朝食を作る母の姿は無い。
父が単身赴任で家に居ないのをいい事に、毎日愛人の部屋に泊まって帰って来ない。
溜め息をついて、私はトースターの中で香ばしい匂いを放ちながら焼けていくパンを見つめていた。
憂鬱な朝の時間が、私の体を押し潰すかの様に過ぎて行く。
それを振り払おうと、わざとテキパキと動いてみるが、集中力に乏しい私はすぐにまた鬱になる。
ふと時計を見ると、既に八時を過ぎていた。さすがに慌てて身支度を整えた私は、少し焦げたパンで朝食を済ませ、家を飛び出した。
電車に揺られながら、私、佐貫 馨は今朝の夢の事を思い出していた。
何とも心地の良い夢だった。
けれど、言い知れぬ気持ち良さと、安堵の中に居るというのに、私は窮屈そうに体を折り曲げてそこに蹲っていた。
それから、誰かが私を呼んでいた。
男とも女ともとれる声で、でも、私のものではない違う名前で。
それに、違う名前でなのに、自分が呼ばれていると分かったのも不可解だった。
解釈しようとする程疑問が増えていく、何て不可思議な夢なんだろう。
いや、夢はいつもそんな物か。
そもそも夢は、自分の意図しない方向に発展する事が多い。
だから、私の見た夢だって、別段おかしくも無いのかもしれない。
ふと窓の外に目をやるとのどかな街並みが広がって、自分の部屋から見る風景と代わり映えしないのが辛かった。
「妊娠?」
私は目の前で頬杖をついて、気だるげに話す親友に思わず聞き返した。
「ん。…できちゃった」
「できちゃったって、ちょっと優子、まだ高校生なのに」
私は彼女、三橋 優子を凝視した。
「もち、中絶するわよ。子供なんか要らない」
口の端を上げて、優子は苦笑いした。
「…相手は?彼氏?」
「…うん。でも正昭ったら、あたしが子供出来たって言ったら、『おろして』の一つ返事なんだもん、何か一気に冷めちゃった。」
学校でこんな話をする彼女の神経を疑うと同時に、冷めるも何も、あんたも悪いのよ、と言いたかった。
「だからさー、馨もカンパしてくんない?手術費高いんだよねぇ…ちょっとでいいからさぁ」
優子は急に猫撫で声で哀願した。
私は大きな溜め息をついた後、優子に諭した。
「妊娠した後にとやかく言っても、現実は変わらないし、その子を産もうなんて思わないわよね」
「でも、中絶は人を殺すのと同じ事だと自分に言い聞かせておくべきよ。そうしないと赤ちゃんが可哀想よ」
私の説教に、少しの間ムッとしていた優子だったが、やがてみるみる顔を青ざめさせて慌てて走り去ってしまった。
「これが戒めだと思ってくれればいいんだけど…」
私は程なくして無くなってしまうであろう魂を、心の中で追悼した。