豪腕
涼がコンビニを出たところでアームストロングに襲われる2時間ほど前、買い物を終えた涼と瑠姫はオフィス兼自宅へと帰ってきた。
すると、そこにはガードレールに腰掛ける見慣れたシルエットがあった。
「遅ーい!」
ビールを片手に持った伊織が文句を言う。道端にタバコが数本とビールの空き缶が2つ転がっているのをみると、それなりには待っていたようだ。
「全く、レディを10分も待たせるなんてさ。嫌われちゃうよ、涼くん?」
え?今10分って言った?
この人10分で500mlのビールを2缶も空けて、タバコも吸ったの?
相変わらずの酒豪っぷりだが、ここでは指摘しないでおく。
それよりも…
「伊織、なんでここに?」
「えーいいじゃない、遊びに来たって。瑠姫ちゃんのことが心配だったしさー、色んな意味で。」
「な、なんだよ、色んな意味って。」
「あらー言っちゃっていいのかしらー?瑠姫ちゃんの前だけど?」
「?」
瑠姫は伊織の言っていることが分かっておらずキョトンとしている。
うん、それでいいんだよ。分かったら分かったで、なんか嫌だし。
「余計なこと言うなよ。あくまで仕事の関係なんだから。」
「ふーん?瑠姫ちゃん、涼くんに変なことされなかった?」
「!?」
どうして今の流れから、蒸し返すようなことを!?
突然の質問に瑠姫も驚いていたが、少し顔を赤らめて
「今朝、隠れて脚を見ていました。」
とムスッとしたように答えた。
「え!?いや、アレは!」
「あらー涼くんったら。
脚フェチだったの?私てっきり涼くんはむ、」
「わぁー!わぁー!
なにを言っちゃってるの?ね、やめよ?誰も幸せにならないよ、この会話。」
「ふっふーん。
ま、美味しいご飯をご馳走してくれるんならいいけどさー。」
「今なんと言おうとしたのですか?」
「もういいじゃん、この会話はおしまい!さ、ご飯にしよう。」
自宅用のドアから入るとすぐに伊織と瑠姫はシャワーを浴びるといって、バスルームへと消えて行った。
その間に涼はせっせと晩ご飯の支度を始める。
どうせ伊織は買い込んだ酒類を煽るのだろうから、肴になるようなものを用意すればいい。けれど、瑠姫はそうはいかない。15歳という育ち盛りな年頃であるし、しっかりとしたご飯を食べさせなければ。
男の一人暮らしであるため、どうしても野菜不足になりがちであったが、これからはバランスに気遣った食事を作らないと。
冷蔵庫の中身を確認して、作れるものを考える。
うん。今日はとりあえず回鍋肉、鳥肉のトマトソース煮、エビのアヒージョに海藻サラダ、味噌汁で決まりだな。
献立を決めた涼は早速調理に取り掛かる。女性のシャワーが長いとは言え、あまりのんびりしている余裕はない。
3人分って結構作りごたえあるな。
作っている途中ふと、そんなことを考える。伊織と二人で食事をすることは今まで多々あったが、3人というのは初めてのことだった。慣れない量を作るのに手こずったが、それもなんだか楽しくて涼は鼻唄まじりで手を動かす。
出来上がってみると、15歳の少女が一体どれくらいの分量を食べるのか分からなかったので、少し作り過ぎてしまったかもしれない。
一方、伊織と黙々とシャワーを浴び、瑠姫は黙って浴槽につかっている。
脱衣所に入るまでは普通に会話をしていたのだが、伊織が下着姿、裸と着ているものの数が減っていくと瑠姫もそれに合わせて、口数が減っていった。
瑠姫はバスルームに入ると自分の身体を隠すようにして浴槽へと入っていった。そして、恨めしそうに伊織の身体を見ている。
うーん、困ったなぁ…。
蛇口をひねり、熱いシャワーを浴びながら伊織は考える。
相手はお年頃な女の子である。プライドを傷つけず、かつ、この場を盛り上げるためには…。
「いやー肩凝っちゃったなー。
こう大きいと大変だし、いいことなんてないなー。」
わざとらしく独り言を言って瑠姫の反応を窺うと、効果覿面、見事に撃沈していた。
「どうせ私は肩なんて凝りませんよ…。」
「も〜ウソだって!瑠姫ちゃんたら、かわいいなー。」
伊織が瑠姫の頭をなでる。
「そんなに羨ましいの?」
「…ええ、まぁ。」
「そっか。まあ、そうだよね。女の子だもんね。でもね、瑠姫ちゃん。
瑠姫ちゃんはまだ15歳だし、これからまだまだ成長の余地があるさ。それに大切なのは大きさじゃないんだぞ。」
「??」
「大切なのはさ、バランスだよ、バランス!部分的によくても、バランスが悪かったら台無しなんだよ。」
「バランス…。」
「そ!私だって瑠姫ちゃんがうらやましいのよ?
綺麗な銀色の髪や華奢な身体つき、そしてこのツヤツヤのお肌。」
伊織は瑠姫の身体を順に撫でていく。と、瑠姫は顔を赤くして伊織の手から逃げる。
「そ、そうですか。」
「そうよー?自分の魅力に気づけていないところはまだ15歳ね。
自分の武器を磨いていけば、いーの!」
「そうですか、わかりました。」
その後は主に今日買った服のことについて二人で話した。瑠姫ももう自分の身体を隠すようなことはしない。
そして風呂から上がると、すでにご飯は出来ていてテーブルで涼が待っていた。
「あら、相変わらず美味しそうじゃない。
さすがは涼くん。いい主婦になれるわー。ね、瑠姫ちゃん。」
「そうですね。なかなかの腕前だと思います、一般家庭としては。」
相変わらず手厳しい意見も聞こえたが、気にしないことにする。
「伊織はビールでいいよね?瑠姫はお茶?」
「えー涼くん、なに言ってるのさ?
瑠姫ちゃんにもおーさーけっ!」
「その言葉そっくりそのまま返すよ。未成年に飲ますなよ。」
「私はワインで。白がいいです。」
「!?」
「やーん、瑠姫ちゃん、いけるクチ?」
「こう見えても会社の社長ですから。付き合いというものがありますので。」
「社長、コンプラはどうした!?
Blood Bankはコンプラ重視の会社だよ!?」
「まあまあ、そんな熱くならないのー。さ、ご飯が温かいうちに食べよー!」
結局みんなで乾杯をし、ご飯を食べ始める。瑠姫の感想が気になる涼だったが、瑠姫の方は特になにも言わずに食べている。
一方、伊織はいつも通り、美味しー!とかこれお酒に合うね!なんて言いながらビールを煽っている。
会話もそれなりに弾み、明るい食卓になった。ひと段落すると、空になった食器類を涼が片付ける。
その間も伊織と瑠姫は飲み続けている。どうやら意外と酒豪らしい。というよりもやはりcolorsだからか。
colorsは細胞単位で肉体が強化されている。その結果として、真っ先に注目されるのは超人的な運動能力だが、他にも強化されている部分が幾つかある。
その一つが病気への耐性だ。放っておいても、まず風邪や発熱することはないと言われている。また、万が一、ウイルスなどを体内に投与されたとしても、そのウイルスを駆除する免疫力も強化されているため、発症することはまずあり得ない。
そのため、colorsが例えば盲腸や癌といった重病にかかったケース、あるいは軽い発熱など、なにかしらの体調不良を起こしたという報告は過去一度もない。
もちろん、アルコールを分解する胃や肝臓も強化されているので、酒を大量に摂取しても酔いづらい体質になっているのだ。
しばらく3人でお酒を飲んでいると、伊織があぁ〜!と声をあげた。
「どうしたの?」
「ない!私のビールが!」
冷蔵庫の扉から顔を出した伊織は憤慨している。
「私のって…。飲んだのは自分でしょうが。ストックがまだあったはずだけど。」
そう言って涼はビールを探そうと立ち上がるが
「それっていつも涼くんが飲むやつでしょ?あれじゃダメ!
今日はこれがいいのー!」
手に持った空き缶を涼の目の前で振り回し、駄々をこねる。
こうなってしまうともう手がつけられない。仕方ない、買い出しに行ってくるか。
「瑠姫はなにか欲しいものある?」
改めて瑠姫を見ると、なんと既に2本もワインを空けている。
それ、結構高かったんですけど。
「そうですね。私専用の部屋、ベッド、浴室、お手洗い。挙げ出したらキリがありません。」
「いや、それ買い出しで頼むものじゃないよね?もしかして酔ってる?」
「酔ってません。主血であるこの私が、お酒に呑まれるなんてことはあり得ません。」
若干目の焦点がおぼつかない様子だが、これ以上カラむとめんどくさくなりそうなのでスルーする。
「じゃあとりあえずビール買ってくるから。二人とも待っててね。」
「涼くん、おつまみもねー!」
「はいはい。」
買い物に出て行った涼を見送ると二人は静かになる。
伊織がおもむろに立ち上がり、ワイングラスも持ってきて瑠姫の隣に座る。互いのグラスに白ワインをそそぎ、瑠姫のグラスに乾杯して一息に飲み干す。
「ふぅー。改めて、今日のお買い物は楽しかった?」
「ええ。あんな風に買い物をしたのは初めてだったので、とても楽しかったです。」
「そっか、それなら良かった。」
満足気に微笑んで伊織はワインをついでは飲む。
「劉 伊織。あなたにはお礼を言わなければなりません。どうもありがとう。」
瑠姫はワイングラスをずらして、深々と頭を下げる。
「いーのよ、瑠姫ちゃん。顔あげて、ほら!一緒にお酒飲もっ。
はい、かんぱーい!」
今度は二人でグラスを合わせる。
「でも最初はビックリしたよー。
まさか涼くんのところで働きたいだなんてさ。」
「すいません、そのせいで芝居まで打っていただいて。」
一昨日、クロウクローとの戦闘の後に涼と分かれた二人は伊織の住む都内のマンションへと移動した。
その時、瑠姫が伊織に頼んだのだ。涼のところで働きたい、と。
これにはさすがの伊織も困ってしまった。あまりに突拍子もないことであったし、涼が一人でBlood Bankをやっているのにも
、それなりの理由がある。
そして瑠姫の存在はその理由に大きく触れてくる。まともに頼んだのでは、いくら伊織に逆らえない涼でも断るに違いなかった。
そこで伊織は一芝居打つことにしたのだ。全く予想しない状況からの打診であれば、涼も流れで頷くのではないかと。
作戦は予想の斜め上をいく形で成功した。まさかあっさりと受け入れて、しかも同棲まで認めるとは。
もしかしたら涼くんの中でも変わってきている部分があるのかもしれない。あの頃の弱くて情けない涼くんはもういないのかしらん。
「劉 伊織、聴いていますか?」
「あ、ごめんごめん。
ね、瑠姫ちゃん、私のことは伊織でいいよ。フルネームなんて堅苦しいじゃない?」
「そうですか。それでは…えっと…伊織。これからもよろしくお願いします。」
「はい!よろしくしますよー。」
二人は再び乾杯をし、今日の買い物の話や涼のこと、青血のことなど、いろいろな話をした。
そして、涼は遅い。一体どこまで買い物に行ってるんだなんて文句を言い合っているのだった。
「ハッ、ハッ、ハッ。」
その頃、涼は必死に走り、ひと気のない場所を探していた。たしか近くにそこそこ大きな倉庫があったはずだ。その倉庫はどこかの建築会社が使っているもので、昼夜問わずひと気がない。あそこなら少しくらい大きな音がしても、誰かがすぐに来るということはないはずだ。
「ハァハァ、あった!」
倉庫をみつけ、後ろを振り返りアームストロングが追いかけてきていることを確認する。幸いなことに、どうやら一人だけのようだ。
3m程のフェンスを飛び越え、敷地内に着地する。その時の衝撃でビールの入ったビニール袋がまた揺れる。
あ、やばい!このビールたちはもう手遅れかな…。
倉庫の窓ガラスを割って屋内へと入る。
倉庫内には鉄骨や木材、ドラム缶など建築材諸々が積み上げられている。
さて、どうするか。ここからうまく逃げれば撒くことも出来るだろうかど、それはかなり危ないよな。
コンビニから出るところを見られてる以上、ここらへんが生活圏内であることはバレているし。
でも相手がもう少し冷静だったら本当に危なかった。尾けられて、あのオフィス兼自宅がバレていたら瑠姫のことも知られてしまう。そうなれば、黒血たちの総攻撃を食らっていただろう。
不幸中の幸いか、アイツは俺を見つけるなり、すぐに襲いかかってきたからな。ここでアイツを倒せれば、引越しをする程度で済むかもしれない。
でも、どうしてアイツはすぐに襲ってきたんだ?俺のことを見ても血の衝動は感じないのだから、身体が反応してしまったわけではないはずだし。
余程のバカか、それともすぐ殺さなきゃならない理由でもあるのか?
そこまで涼の思考が進んだところで大きな破壊音が聞こえた。
どうやら倉庫の扉を壊して入ってきたらしい。
涼はビニール袋をそっと置いて、積み上げられたドラム缶の上に登り様子を窺う。
「鬼ごっこはここで終わりかぁ?手間かけさせやがって。
出てきやがれ!ぶっ殺してやる!」
どうして、こう黒血の連中は決まって口が悪いのだろう?しかもボキャブラリーが少ないし。
アームストロングが涼のいるドラム缶の横を通り過ぎようとしたところで、ドラム缶を蹴飛ばし、頭上へ落とす。
「んん?」
アームストロングはドラム缶をなんなく掴んで受け止める。掴んだ際に強い握力でドラム缶が少し歪む。
「そこにいたのかよ、えぇ!?」
アームストロングはドラム缶を涼に向かって投げつける。
涼はジャンプをして避けるが、投げられたドラム缶は積まれていたドラム缶を蹴散らして、その中身の塗料を撒き散らす。
「すごい腕だな。」
コンビニで襲ってきた時は常人よりもふたまわり大きい程度の両腕だったが、今は皮膚が赤黒く変色しており、黒く太い血管が浮き出ている。
「へっ。てめえ、ホントにcolorsかよ?赤色の間違いじゃねえのか?聞いてはいたが、本当に血の衝動を感じないとはな。」
「さあ、どうだろうね?
ところで、どうして俺の場所が分かったんだ?」
「ふん。寝ぼけたこと言ってんじゃねえぞ。あれだけクラブで大きな騒ぎを起こしたんだ。客どもが何人か覚えてたぜ。
まあ顔は分かっても場所はわからなかったからな。おかげで昨日からずっと探し回ってたってわけだ。」
「そっか。そいつはお疲れ様。」
ロイヤルの方は心配していなかったが、黒血の方はダメだったか。
となると、コイツを倒しただけではダメか…?
「ちなみに俺の顔を分かってる人ってあんただけ?」
「ふん。心配か?
少し前まではもう何人かいたけどな、もういねえよ。」
「?
どういうことだ?」
「さっき俺らのアジトにロイヤルの野郎共が突入してきたらしい。しかもあのイカれ野郎が…。おかげでアジトは壊滅。全員死んだか、生きていても捕まってるだろうな。」
…なるほど。涼はこれでやっと合点がいく。
それでコイツは俺のことをすぐに襲ってきたのか。もたもたしていたら自分の身が危ないから。
それに今言っていたイカれ野郎というのは、もしかして…。
「だからよぉ、俺としてはこのまま手ぶらじゃ帰れねえわけよ。
せめてクロウクローをやったてめえくらいは手土産にしないとな!」
アームストロングは左側に積んであった鉄骨を掴んで持ち上げると、涼に向かって投げつける。
涼はそれを躱して、資材の山に隠れる。
どうやら、コイツさえ倒せば引越しもしないですみそうだ。
俄然やる気が湧いてきた。
涼は右手首にあるブレスレットに力を込めて、2つの魔法陣を展開する。
相手は近接格闘型だ。無理に接近しないでも、ここには武器になるものがいくらでもある。
「ちっ。鬼ごっこの次はかくれんぼかよ。さっさと出てきやがれ!」
アームストロングは鉄骨を振り回して、資材の山をなぎ倒していく。
涼は展開した2つの魔法陣を回転させて、雷を創り出す。そして、その雷をいくつかの球体に変形させる。
「飛雷光!」
物陰から放たれた雷玉はアームストロングではなく、積み上げられた様々な資材へと向かっていく。
雷玉を受けた資材は雪崩れの様に、アームストロングの方へと崩れていく。
「くだらねえ。」
アームストロングは鉄骨を振り回して、降りかかる資材を薙ぎ払う。
資材の雪崩れに気をとられている隙に、今度は飛雷光を直接打ち込む。
「!?」
雪崩れの隙間から現れた飛雷光をもちろん躱すことなどできずに、アームストロングは直撃を食らう。
この技には小規模な爆発を起こし、さらに相手を一時的に痺れされる効果がある。アームストロングは直撃を受けて、鉄骨を取り落とした。
「うおぉぉぉ!」
物陰から飛び出した涼はクロウクローの爪を砕き、倒した雷迅拳を繰り出す。
「ぐっ!」
アームストロングは痺れた腕をかろうじて動かし雷迅拳を防ぐ。
それでも、アームストロングは吹き飛ばされ、ドラム缶の山へと突っ込む。
「あぁーいてえな。
んだよ、ひょろっこいくせに…なかなかやるじゃねえか。」
立ち上がりながらアームストロングがグチる。
どうやらあまりダメージは与えられなかったようだ。涼の手応えからしても不思議はない。間に入ったあの太い腕を殴った瞬間、涼は分厚いタイヤを殴ったかのような感触だった。
「なんだかよー血の衝動を感じねえから、イマイチだったけどよ。いまのでスイッチ入ったぜ。」
アームストロングは不敵に笑うと、両拳を握りながら地面につけて前傾姿勢になる。
すると、アームストロングの背中が一瞬隆起した、ように見えた。それはあまりにも早かったので、涼は見間違いかと思ったが、そうではなかった。ボコボコと音をたてて、アームストロングの肉体は隆起を繰り返し、変貌を遂げていく。
そして変貌を遂げたアームストロングの姿は、恐ろしいものだった。
あーウルトラマンの怪獣にこんなんいたな。なんだっけ?あ、ジャミラだ、ジャミラ。
涼の感想通りジャミラのような姿にはなってはいるが、今のアームストロングはもっと歪な形をしている。
肩甲骨あたりから盛り上がった筋肉は頭を覆い、大木程の太さになった腕と繋がっている。表面は滑らかではなく、膨れ上がった筋肉でデコボコしている。
上半身だけが膨れ上がったアームストロングは異形としか言いようがなかった。
「ふぅーこの姿で暴れられるとはな。久々だぜ。」
そう言ってアームストロングはコンクリートの床に十本の指を突き刺した。身体全体を持ち上げ、両腕を後ろへと引き絞る。
その一連の動作は奇怪でしかなく、涼はただ見ていただけだった。
だが、アームストロングの変貌した身体を見て思ったことがあった。
こいつ、どうやって動く気だ?と。
あまりにも上半身が大きくなっているため、変化していない普通の脚では歩くこともままならないように見えたのだ。
そして、アームストロングは今まさにその問題点を克服しようとしていたのだった。
まさかと涼が思った瞬間、アームストロングはしっかりと床を掴み、引き絞っていた両腕を一気に解放し、涼へと突っ込む。
そのスピードは涼の予想を上回り、反応も遅れたために避けることが出来なかった。
猛スピードで突っ込んできたアームストロングの体当たりをまともに喰らい、壁へと激突する。
「ガッ!」
壁にぶつかり、倒れこんだ涼はたまらず吐血する。鮮やかな黄色い血が床に血痕を作る。
吐血量からして、内蔵のどこかをやられているかもしれない。骨も何本かイッている。
なんつう威力だ。
「おい、もうおしまいか?」
すぐ横に立っていたアームストロングが容赦なく腕を振り下ろす。涼はギリギリのところで躱し、距離をとる。
涼を掠めた腕はコンクリートの床を穿ち、大きな穴を開ける。
もう一発まともに食らったらおしまいだな…。
「へへっ。ちゃ〜んと黄色い血が流れてやがるな。滾るぜ。」
アームストロングは拳についた黄色い血を見て嬉しそうに言う。
さっきの様に飛ばれては止める術はないので、ヒットアンドアウェーに切り替える。細かい動きとスピードならば涼の方が数段上だ。
痛む身体を無視して、素早く動き、何度か雷をまとった拳をぶつける。だが、硬く太い腕で防がれてしまい、ダメージはほとんど与えらえない。
「なんだ?終わりかよ?」
アームストロングは笑い、両腕を乱暴に振り回して、鉄骨やドラム缶などを涼に向かって投げ始める。
涼はそれを躱したり、飛雷光で叩き落とす。
アームストロングは投げつけるのをやめて、再び両腕を床に突き刺し身体を浮かせる。
腕を引き絞り、力を溜めて今にも弾丸以上のスピードで涼に向かってこようとする。
どうする?
考えもまとまらないうちにアームストロングは突っ込んできた。今度はなんとか上に飛んで躱したが、アームストロングは予想外の行動に出た。
ロケットの様に飛んできたアームストロングは身体をひねり回転を加えた。それだけであれば躱すだけですんだが、アームストロングは涼が躱したところで床に向かってパンチを放ち、無理矢理進行方向を捻じ曲げたのだ。
「!?」
さすがに空中では身動きがとれず、涼はアームストロングの体当たりを正面から食らう。
「がはっ!?」
そのまま天井へと突き刺ささり、涼の身体は天井に埋もれる。天井を突き破らなかったのが不思議なくらいの威力だった。
アームストロングは天井に腕を突き刺してぶらさがる。
「おい、もう死んじまったのか?」
アームストロングが嘲りながら問いかけるが、涼の答える声はない。
リィーン。
だらりと垂れ下がった右腕のリングが音を鳴らした。
その瞬間、魔法陣が4つ展開し、輝きを増す。
「な、、!」
アームストロングがなにかを言う前に雷玉が30コ程現れ、アームストロングを襲う。
「ん!?ぐ…!」
自由な片腕で防御するが、雷玉全てを防ぐこともできずに、天井板とともに天井から落ちる。
大きな音と大量の砂埃を巻き上げて落下したアームストロングは唸り声をあげて立ち上がる。
「ぐぉおぉぉぉ!
いいぜ?こいよ!捻り潰してやる!」
「叫ぶよりも前にそこから早くどいた方がいい。」
「なに?」
涼は指を鳴らして一筋の雷を落とす。瞬間、倉庫内に炎が立ち上がり、爆発を起こす。
アームストロングが落ちた時に舞い上がった砂埃を利用して、粉塵爆発を起こしたのだ。
涼はゆっくりと天井に埋まった身体を引き出して、炎のない場所へと着地する。
「がぁぁぁあ!」
爆炎に焼かれたアームストロングが苦しげに声をあげながら、涼の前に現れる。どうやら強固な肉体も火には弱かったようで、あちこち酷く爛れている。
「てめえ!よくも、よくも…!」
アームストロングは両腕を広げてタックルを繰り出す。
上に飛んでは足を掴まれそうで、火の回っていない方へと逃げるが、壁際に追い込まれてしまう。
周りにはすでに炎が広がっていて逃げ道はない。
「ハァハァ、手こずらせやがって。ここで殺す!」
アームストロングが強烈な右ストレートを放つ。涼はこれをジャンプして躱す。アームストロングの拳、頭という順番で踏みつけ、宙返りをして後ろをとる。が、アームストロングは涼の敏捷さを計算に入れていたのか、身体を回転させて、宙返りを終えた涼を右腕で掴む。
「!?」
完全に後ろをとり、攻撃をしようと考えいた涼はアームストロングの動きに反応できず動きを封じられる。
「はっはっは。やぁーと捕まえたぜ。
ちょこまかと動きやがって。このまま握り潰してやる。」
アームストロングは徐々にその異常な握力を強めていく。涼の身体がメキメキと音を立てて、軋んでいく。
「う!かはぁっ!」
涼は口から黄色い血を吐き出し、それがアームストロングの腕にかかる。
「つくづく気味の悪い野郎だ。血の衝動のねえcolorsなんてよ。」
「ははっ。たしかにそうなのかもね。」
涼は今にも身体が潰されそうだというのに、明るく笑う。
アームストロングにはそれが気に食わない。
「テメエ、マゾか?
もう少しでテメエの身体は粉々になるんだぜ?」
「ハァ…ハァ。
たしかに、このまんま、じゃね。」
涼はニヤッと笑い、掴まれていない右腕を高々と上げる。
その腕には5つの魔法陣が展開され、高速で回転し始める。
「廻れ!」
「なにっ!?クソがっ!」
アームストロングはさらに握力を強め、涼の身体を壊そうとするが涼が右腕を斜めに振り下ろす方が早かった。
「袖雷!!」
右腕に発生した眩いばかりの雷はまるで、袴の袖の様に靡いてアームストロングを打つ。
「がっ!?」
雷撃を受けたアームストロングは壁を突き破り。外へと放り出される。
倉庫の入り口と丁度反対側にあたる
この壁の向こうは川が流れており、アームストロングはそこへと落ちていく。
バッシャーンと大きな音を立てて川に落ちるが、起き上がる様子はなく、そのまま流されていった。
「ハァ、ハァ、ハァ。危なかった…。」
とりあえず一命を取り留め、涼は大の字になり寝そべる。だが、先程の粉塵爆発の影響で倉庫内はすでに火の海と化している。
のんびりしている余裕はない。
「あっ!!ビール!」
本来であれば、そんなことは些事であるが、涼にとっては死活問題である。
火の手が及んでいないことを祈り、ビールの入ったビニール袋を探す。
奇跡的にビニール袋は無事だったが、中に入ったビール缶は温い。いや、むしろ熱い。
「……いや、持ち帰ることに意義があるはずだ。」
とても今しがた死闘を繰り広げた男の言葉とは思えないが、それだけ伊織が怖いということだろう。
ビニール袋を抱えた涼の目にあるものが飛び込んでくる。それは倉庫の壁にかけられた、非常時用の電話だった。
昨今のcolors騒動でこういった非常時用電話などを付ける場所が増えているのだ。
どうしよう…?
消防車を呼ぶのがいいのか、ロイヤルを呼ぶのがいいのか。
もし一般人がこの倉庫の状態をみれば間違いなく、消防車を呼ぶだろう。だが、涼はアームストロングが
この件に絡んでいることを知っている。川に落ちて、そのまま流されたところをみると、戦闘不能状態になっているようではあった。しかし、いつ復活して、腹いせに周りの人間を襲うとも言えない。
黒血とはそういうcolorsたちだ。
それであれば、ロイヤルに連絡をして人員を回してもらうのが上策だろう。例え、それで通報した者が怪しまれるとしても、だ。
涼は意を決して、ロイヤルへの緊急ダイヤルをプッシュする。
「プルル…プルル…」
静かなオフィスにけたたましい電話の着信音が響く。
司令命令の緊急出動でロイヤル庁内の実行部隊は皆出払っている。本来であれば、黄血が出払う時は緊急回線を転送するようにしておくのだが、今回の出動があまりに急であったため、その作業を失念していたようだ。
だが、今このオフィスには偶然、一人のロイヤルがいた。
自分以外に誰もいないオフィスで、コンビニ弁当を食べていた峨門はため息をついて電話に出る。
ロイヤルへの緊急回線はその80%が悪戯だったり、誤報である。どうせ今回もそうだろう。
「はい。こちらロイヤル緊急回線です。どうかしましたか?」
「えーと、家の近くの倉庫ですごい物音がしまして。様子を見に行ったら火災が起きているんですけど。」
電話の向こうから聞こえてくる声は若い男の声だ。話している内容の割りには妙に落ち着いている。
「火災?
それなら消防署に連絡してもらわないと。」
そう言いながら、峨門はすぐ動けるように席を立つ。
「場所はどこですか?」
電話相手の男は住所だけでなく、その倉庫を保有している会社名まで告げた。
「そうですか。ありがとうございます。今から現場に消防隊を向かわせます。それで…」
電話の相手はありがとうございますと言って電話を切る気配がしたので、峨門は思わず大声になる。
「それで、どうしてロイヤルに連絡を?」
電話の向こう側からは返事はなく、少しの間があった。
「えっと…音がして家の外に出たら、その…信じられないんですけど人間じゃないなにかが倉庫の壁を破って出てきて…そのまま川に落ちたんですけど…それで…」
「え?」
男の話す内容はとんでもないものだったが、男の口調は終始落ち着いている。
違和感だらけの通報である。峨門が繰り返し質問をしようとすると、電話はガチャッと切れてしまう。
「ツー、ツー…」
無慈悲な電子音が耳につくが、それを聞いているわけにもいかない。
峨門はすぐに消防隊へと連絡をし、出動している伊良原にも電話をかける。
「プルル…プルル…ガチャッ」
「はい、こちらロイヤル所属、三級隷血伊良原公人です。」
なんというか電話ひとつに出るだけでも真面目なヤツである。
「あぁ俺だ、峨門だ。」
「峨門さん?どうしたんですか?
今日はもう帰られたはずじゃ?」
そう、午前中に司令に会い、午後から非番を言い渡された峨門だったが帰ってもやることがなく、結局ロイヤル庁内に居座っていたのだ。
司令の緊急出動にも応えようと思ったのだが、副司令に来るなと言われてしまった。
「まあ、ちょっとな。
それでよ、今緊急の電話がきた。珍しく信憑性の高そうな情報だ。オマエは今どこにいる?」
伊良原は自分が現在アームストロングの捜索にあたっていることと、現在地を伝える。
「なんだよ、結構近いじゃねえか。
いいか、今から言う住所へいけ。もしかしたら、そのアームストロングかもしれねえ。
近くを流れてる、川があったろ?あれをできるだけ下流から倉庫の方へ上っていけ、いいな?」
そう言って峨門は先程、電話の男から言われた住所を伊良原に伝え、電話を切る。
「ふぅ…。」
峨門自身も現場に行こうかと思ったが、少し距離がある。今行ったところで、後処理にしか立ち会えないだろう。それなら明日現場に行けば十分だと考える。
それにしても、自分でも不思議なくらい、あの男のことが信じられた。
普段からそれっぽい電話など、何度も出ているのに今回ばかりは本当のことだと思えた。
「刑事の勘ってやつかね?」
峨門はタバコに火をつけて、煙を吸い込む。オフィス内はもちろん禁煙であったが、喫煙ルームまでいくのが億劫だった。火災報知器も離れているし大丈夫だろう。
峨門はそのままタバコをふかし続けた。何故か頭から離れない、あの電話の男の声を反芻しながら。
ウゥーウゥーと消防車のサイレンが聞こえてきたのは、涼が緊急回線にかけてから、わずか10分後だった。
我ながら怪しげな電話をかけたなと思い、ちゃんと消防隊が来るか心配だったので、倉庫から少し離れたところで様子を見ていたのだった。
消防署に連絡をしてくれたということは、おっつけロイヤルも来てアームストロングを捜してくれるだろう。
あとは一般人の被害がでないことを祈るばかりだ。
腕時計をみると、オフィス兼自宅を出てからすでに1時間以上が経過している。携帯は持ってきていないので、きっと今頃、伊織や瑠姫が心配しているはずだ。いや、案外心配していないかもしれない。悲しいことだが。
大きなビニール袋を二つぶら下げて涼は歩き出す。正直なところ、結構なダメージが身体には残っていたが、こんなところで休んでいるわけにもいかない。
20分程かけてオフィス兼自宅のビルまで戻って来た時には、もう精も根も尽き果てていた。
ドアのチャイムを鳴らすと、中からドタドタと急いだ様子で駆けてくるのが聞こえる。
やはり、帰りが遅いのを心配していてくれたようだ。
ドアが開き、伊織が顔を出す。
「おっそーーーい!!
なにやってたの?1時間もかけて一体どこまで…!?」
開口一番、文句を言われたのにはさすがに泣きそうになったが、涼のボロボロな姿をみると、伊織は驚き、口をつぐんだ。
「ど、どうしたの!?そのケガ?」
「あはは、ちょっと、ね。
これ、はい。」
ビールの入ったビニール袋を伊織へと渡す。伊織はそれをポカンとした顔で受け取る。
「涼が帰ってきたのではないのですか?」
廊下の奥から瑠姫が現れた。迎えに出た伊織が遅いので様子を見に来たのだろう。
「うん、帰ってきたんだけど…さ。」
「?」
「まあいいから、中入れて。もう立ってるのもツラい。」
涼は中へと入る。
瑠姫が涼の有り様を見て、驚き質問してくるがスルーしてリビングへと向かう。
「あぁーーー。」
うめき声をあげながらソファへと倒れこむ。全身が熱く、ヒリヒリと痛い。
「涼、一体どうしたと言うのですか?
まさかcolorsと闘ってきたのですか?!」
「うん。まあね。」
「そんな!?一体誰と?」
「瑠姫、話は後にして。
とりあえず今は休ませてほしい。それにここの場所がバレたりはしてないから。」
「なっ…。でも。」
「瑠姫ちゃん、ここは休ませてあげよ。命がけのおつかいになるとは私も思わなかったし。」
「…わかりました。それなら傷の手当てをします。」
「救急箱なら寝室のクローゼットの中よー。」
リビングを出て行く瑠姫の背に伊織が声をかける。
「じゃあ私は命がけで買ってきてもらったビールでも飲もうかしら。」
伊織がルンルンとプルタブを開けた瞬間、ビールが勢いよく噴き出し、伊織の顔や髪を濡らす。
「ありました。さぁ手当て、を…?」
瑠姫が救急箱を持ってリビングに戻るとそこには、さっきまではなかった不穏な空気が流れている。
伊織を見るとビールを片手に、後ろから見てもわかるくらい、頭部が濡れている。
「伊織?」
おそるおそる瑠姫が呼びかけると、それが合図になったのか伊織が怒り出した。
「涼くーん!?なんの嫌がらせなの?私ずっと待ってたのに!」
「わ!待って、伊織!相手は怪我人です。」
瑠姫の制止も無視して、伊織は涼をクッションで叩く。
「痛い!悪かったよ!
何度か揺らしちゃって…噴き出すかもしんないって伝えるの忘れちゃった。」
「忘れちゃったじゃない!
もうベタベタ!せっかくお風呂入ったのにー。」
なおも伊織は涼を叩き続ける。
こんなんならアームストロングと闘っていた方がマシだったかもしれないと思い、ため息をつく。
すると
「だから、ため息はつくなっていつも言ってるでしょうがー!」
とまたさらに攻撃された。
あぁ、もう一生買い出しになんて行かないぞと心の中で、出来もしない誓いをたてるのだった。
遠くの方で消防車のサイレンの音が聞こえる。方向的に、例の倉庫がある方だ。
伊良原は峨門に言われた通り、できるだけ川の下流から倉庫までの道のりを辿っている。
注意深く川の中を見ながら歩くが、怪しげなものは見当たらない。
川が大きくカーブし、道もそれに合わせて沿っている。伊良原がそのカーブを曲がると、そこには目を疑うような物体があった。
異様な程に大きな右腕を持つそれは、肩甲骨のあたりから筋肉が隆起しているのか、頭部の右半分を覆っている。 だが、それ以外は普通の人間と同じ体型をしている。
川から上がってきたのか、その身体は濡れていて、ポタポタと水滴を垂らしている。
伊良原はそれを見た瞬間に身体中の血が沸き立つのを感じた。そして、今だかつて感じたことのないような激しい衝動に駆られる。
こいつを排除しなければ、と強い声が頭の中に響く。
と同時に、これが、これが血の衝動なのか!と冷静な自分の声もする。
伊良原は初めての血の衝動に戸惑いを覚える。自分の中に二人の人間がいるようだ。アレを殺せと叫ぶ自分と冷静に今の状況を判断しようとする自分。
その二人がせめぎ合い、伊良原はアームストロングを前にしているというのに動きがとれない。
「ん?あぁ?誰だ、テメエ。」
伊良原に気づいたアームストロングは睨みつけるが、その声は弱々しい。
「ちっ。テメエ、colorsか。しかもそのバッジ…ロイヤルかよ。」
アームストロングも伊良原を見て血の衝動を感じたようだ。瞬間で正体を見抜く。だが、伊良原はまだ初めての血の衝動に戸惑い、戦闘態勢に入れない。
「クソが。ついてねえ。
ん?テメエ、まさか…?」
アームストロングは吐き出すように悪態をついたが、伊良原の様子を見て余裕の笑みを浮かべる。
「なんだよ、まさか初めてかよ?
自分の色以外のcolorsに会うのはよ?」
アームストロングが右腕を持ち上げ、攻撃をしかけようとする。
ここでようやく、伊良原は武器を出さなければと考える。
右手に魔力を込め、武器を創り出す。
「”命月”」
黄色い光と共に現れた武器は日本刀だった。
その刀身は紅く、幅もいささか広い造りになっている。鍔はなく、かわりにダイヤ型の飾り金がついている。
命月を構えて、アームストロングに相対するが、伊良原の手は震えている。
初めての血の衝動に殺戮衝動よりも自分自身の戸惑いの方が大きいのだ。
「んだよ、そんなへっぴり腰じゃ、斬れるもんも斬れないぜ!」
アームストロングが前進してくる。大きな右腕を引き、パンチを繰り出そうとしている。
アームストロングの動きはしっかりと捉えられているが、伊良原の身体は動かない。パンチをもろにうけて、10m程飛ばされる。
「ハッ。ロイヤルだと思った時はどうなるかと思ったが、ラッキーだったな。まだ俺は天には見放されてねえようだ。」
アームストロングは己の幸運に安心しきっていた。が、次の瞬間強烈な殺気を、感じて身構える。
「バカな。なんだ?まさか…溺れたのか?」
アームストロングのパンチを食らい、吹き飛ばされた伊良原は地面に叩きつけられた時に、ひときわ大きな鼓動を聞いた。
ドクン!
その瞬間、身体の震えは止まり、頭を混乱させていた戸惑いも完全に消えた。
ゆっくりと立ち上がった伊良原の眼には周りがとてもクリアに映っていた。道路も、柵も、ベンチも、木々も、そしてもちろん、アームストロングも。
命月をしっかりと握りなおし、アームストロングをはたと見据える。
やることは、たった一つだけだ。
前かがみになり、突進する。
アームストロングの顔にももう笑みはない。
命月の刀身が紅い光を帯びる。
アームストロングの拳と命月が激突する。
なんの変哲もない日本刀であれば、アームストロングの強化された拳の前では簡単に折られてしまう。だが、命月は折れなかった。折れないどころか、アームストロングの拳を切り裂いた。が、血はあまりでない。
「アチィィィ!!」
アームストロングは斬撃の痛みよりも熱さに驚き、叫ぶ。
命月は高熱を帯びている、いわば、和製ライトセーバーだ。
伊良原は優位に立ったにもかかわらず、表情を崩すことなく再び剣をかまえる。
なんだ、コイツは?溺れたヤツらは何人も見てきたが、こんな風になる奴は初めてだ。
「く、クソがぁーー!」
切り裂かれた腕でなおも襲いかかってくるアームストロングだったが、伊良原はひらりと躱して斬りつける。
そして何度も、何度も斬りつける。
「あっ!がっ!う、もう、や、め…て…。」
息も絶え絶えになっていたアームストロングだったが、構わずに冷徹に命月を突き刺し続ける。
アームストロングの心臓がようやく止まると、伊良原の自意識が戻ってきた。
「ハッ、ハッ、ハッ。」
自分が浅く早い息遣いをしていることに気づく。そして、目の前に広がった光景に伊良原は吐き気を催す。
そしてそのまま、もどしてしまう。
「ハァハァハァ。」
地面についた腕だけでなく、身体全体が震えている。
それほどまでにアームストロングの有り様は酷かった。身体のあちこちに焼け焦げた穴が空いており、腹は大きく切り裂かれて臓物が飛び出している。
「これを、私が…!?」
アームストロングがグチャグチャにされる様子を伊良原はたしかに見ていた。だが、身体は別の誰か、あの殺人衝動を感じた時に叫んだ声の主が動かしていた。
それを伊良原は為す術もなく見ていただけだった。
「私は溺れていた…のか?」
黒い血がアームストロングの死体から流れ出し、血溜まりをつくる。
血溜まりは段々と広がり、伊良原の両手を黒く染める。
この黒い血は今はもう血の衝動を感じさせることはない。生きたcolorsの血であれば、例え皮膚の下にあるだけでも血の衝動を感じるというのに。
初めての実戦で伊良原は痛感していた。
もう引き返すことは出来ない。これが、これがcolorsなのだと。