買物
「ハァハァ、ハァハァ!」
逃げる。ただひたすら逃げる。闘うという選択肢は最初から持ち合わせてはいない。それはこの鎖のせいではない。例え、両腕が自由だったとしても、闘うという選択肢はなかったに違いない。
どうして、ここに…あいつが…??
さっきから頭を巡っていることだ。落ち着いて考えることができるのならば、答えを見つけ出すこともできるかもしれない。
そうすれば助かる道も、もしかしたらあるのかも…。
そう思い、なんとか頭の中を整理しようと物陰に隠れて息を整える。が、ダメだ。
自分が襲われている理由も、アイツがここにいる理由も全くわからない。
考えれば考えるほど、混乱し、恐怖だけが身体を支配する。
カラカラカラ、カンッ、カラカラカラ…
研ぎ澄まされた聴覚に耳障りな音が聞こえてくる。剣が引きずられ、アスファルトにあたっている音だ。
「…どこ、いったの?」
アイツの声が聞こえる。
静かだが、どこか狂気を感じるその声に背筋がゾクっとする。
「ねぇ…どこ…出てきてよ…」
どんどん声が近づいてくる。
もう逃げ場はなく、見つかれば間違いなく殺される。どうして逃げ続けなかったのか?例え心臓が張り裂けようとも走って、走って逃げるべきだったのに…
数秒前の自分の判断を責めずにはいられない。
「嗚呼、ここにいたんだ…」
見つかってしまった。身体は恐怖のせいか、諦めのせいか、全く動こうとはしない。
今、この瞬間、終わりを告げようとする我が人生に対して、もっとしがみつき、抗うべきなのに…。
アイツは笑う。静かに、恍惚とした表情で。
そして、ゆっくりと剣を振り上げる。
言葉はもう意味がない。直感でそう判断し、必死に思いを込めて眼で訴える。生きたいと、殺さないでくれと。
アイツはその思いを十分過ぎる程に感じ取っていたのだろう…分かったわ、というようにもう一度微笑み、そして、まっすぐに剣を振り下ろした。
ピピピピピ
勢いよく起き上がった涼の耳には間の抜けた目覚ましの音が聞こえている。
そこは先ほどまでいた薄暗く、鉄臭い研究所のような場所ではない。
白い天井、白い壁、カーテンの隙間から入ってくる日差し。見慣れたオフィスの風景だ。
今しがた見ていた悪夢のせいで涼の息はまだ少し荒く、汗もびっしょりとかいている。
「なんだ、夢か…。」
あまりにも生々しい夢の内容だったので、まだあれが夢だったのだと実感できない。
あの剣の音や声、そして身を凍らせる程の恐怖…過去に体験したものと寸分違わないものだった。
あんな夢をみるのも、ずいぶん久しぶりだよな…
一時期は頻繁に見ていた夢だった。当時はそのあまりにも生々しい夢にストレスが溜まり、ろくに食事もできていなかった。
だが、長い間見ていなかったので、もう心のどこかで折り合いがついているものだと思っていたのだが、そうではなかったらしい。
以前と変わらず、怯え、震えている自分がいる。
「もう5年近く経つというのに情けない話だ…。」
我ながら不甲斐ないとため息をつき、起こしていた上半身を再びソファに投げ出し、天井を見上げる。その天井はいつもベッドから見上げる天井とは少し違っている。
アイツは今どうしてるだろう?とぼんやり考える。
もちろんなにをしているかは知っている。有名なヤツだし、情報なら一方的に知ることができる。
だが、涼が知りたいことはそんなことではない。
アイツがどう感じ、なにを目的としているのかが知りたいのだ…。
そのまましばらくの間なにを考えるでもなく天井を見上げていたが、そろそろ起きなきゃなと思いたつ。
ソファの背もたれから居住スペースに繋がるドアを見ると、丁度扉が開いた。
驚くほど白く透き通った脚が顔を出し、順にTシャツ、人形の様に整った顔、輝く銀色の髪が現れた。
瑠姫は涼に見られていることに気づいていないのだろう。なんだか忍び足でキョロキョロしている。
このまま黙って見ているのもなかなか粋ではあったが、それも申し訳ないかなと思い、声をかける。
「おはよう。」
「!?」
声をかけられた瑠姫は驚いて涼の方をみた後、自分の姿を見て、慌てて扉に隠れた。
うーん、やはりもう少し声をかけるのを待つべきだったか。
「お、おはようございます。」
瑠姫は警戒するようにあいさつを返した。
そんな格好で出歩く方が悪いのではと思うが、そういえば着替えがないのだから仕方ない。
昨日涼のオフィスに転がり込んできた瑠姫にはもちろん着替えなどなかったので、仕方なく涼のTシャツを貸してやったのだ。
「そんな格好で出歩いて、どうしたの?」
「昨日、洗濯をしてもらったので、それを取りに行こうと思ったのです。」
「ああ、それなら反対側のあのドアだよ。」
涼は瑠姫が隠れているドアの丁度反対にあるドアを指差す。
居住スペースとオフィスとで完全に区切ることができればよかったのだが、トイレや洗濯機、お風呂はどうしても場所を変えることができず、キッチン、寝室とはオフィスを挟んで反対側になってしまったのだ。
「そうですか。それではとりにいきますので、後ろを向いてください。」
「はいはい。」
ここで振り返ってみるというのもおもしろそうではあったが、相手は主血だ、下手なことはできない。
ドアが開いて閉まる音が聞こえたので、元の体勢に戻り、携帯をチェックする。
メールや着信がきていないことを確認して、ニュースサイトを開く。
トップには予想通り、昨日の電車事故、ビルの爆破、クラブでの事件が載っていた。
一連の事件の犯人として黒血の隷血であるクロウクローが逮捕・収容され、逮捕したのはロイヤルということになっている。
もちろん現場の血痕をみれば、間違いなく黄血が闘っているのは分かるので、この報道内容になっているのだろう。メディアも世間も納得のいく内容だ。
だが実際のところは違う。クロウクローを倒したのは黄血は黄血だが、ロイヤルではない。
もしロイヤルに在籍していない黄血が存在することを世間が知れば、大変な騒ぎになる。
それを恐れて、ロイヤルも今回はその点を伏せているのだろう。
それに目撃者の話を聞かずとも、クロウクローを逮捕できたのだから情報源に困ることはないだろうし。
伊織の情報通りで間違いないようだ。
ひとまずは安心だなと思い、伸びをしていると瑠姫が出てきた。
昨日着ていたシャツにスキニーパンツ姿だ。
「とりあえず朝ごはんにしようか?
その後で買い物にいこう。色々と買わないと、ね?」
「…はい。そう言っていただけると助かります。」
「よし。じゃあ朝ごはんにしよう。」
涼は起き上がり、キッチンへと向かう。
もう一人暮らし始めてから数年は経つので、涼は一般男性よりも料理はできる。
ボールに卵を入れ、手早くときほぐす。そこに牛乳、砂糖とバニラエッセンスを入れて、食パンを浸す。
フライパンを温め、黄色くなったパンを弱火で焼く。
甘い匂いが広がり、焦げないよう、適度に焼き色をつける。最後に三角にカットし、皿に乗せる。
普段はおやつ代わりに作ることの多いフレンチトーストだが、女の子のいる朝食ということで少し頑張ってしまった。
紅茶、ヨーグルトと一緒にテーブルに並べると
「ホイップクリームかアイスはないのですか?」
……ダメ出しを受けてしまった。
よく考えたら瑠姫はセレブである。庶民が少し洒落っ気を出した食事など、逆に滑稽なものに見えるのかもしれない。
「あ、ありません…。」
「そうですか。」
さして機嫌を損ねた様子もなく、瑠姫は食べ始める。が、涼のテンションは急降下だ。
大丈夫、美味しい朝ご飯さと自分を慰めいると
「本当に買い物にいくんですか?」
「ん?うん、そのつもりだけど…。」
瑠姫は俯いて黙っている。なんだか表情が晴れない。
さっき、買い物を提案した時は喜んでいたように見えたのけど、やっぱり外に出るのは不安なのかな?
今日は休日だし、街は混雑しているだろうから心配ないと踏んでいたのだが。
涼がなんと声をかけたらいいものかと考えていると、瑠姫がナイフを左手の指先にあて、素早く引いた。
「!?」
瑠姫の突拍子もない行動に涼は驚いたが、言葉が続かなかった。その後起きた、あまりにも不思議な光景に目を奪われてしまったからだ。
瑠姫の指先から流れる血はキラキラと輝き、テーブルへと落ちる。しかし、その青い血はテーブルに血痕を作るのでなく、コツン、と音をたててテーブルの上に転がった。
そこには蒼々としたサファイアがあった。
涼はごくっと唾を飲み込む。
これが瑠姫の力…!
知ってはいた。己の血を結晶化し武器とする、その能力のことを。
この武器というのは戦闘時におけるものばかりではない。瑠姫が作り出すサファイアは質が高く、また、その希少価値から破格の値段がついているのだ。
これこそが瑠姫が生きた宝石と呼ばれる所以である。
そして、瑠姫は自ら生み出すサファイアを主力商品にして宝石関係の会社を立ち上げているのだ。主血の中で唯一、戦闘能力を使わずに身を立てている。
瑠姫の能力を目の当たりにして興奮していた涼だが、その意図がわからないので瑠姫を見つめ返す。
「…??」
瑠姫に小首を傾げられてしまった。
それは破壊力抜群の仕草だったが、話が進まないので問いかける。
「このサファイアは…その…どういうつもり?」
「?
どういうと言われても…。
買い物にいくんですよね?私は今、現金の持ち合わせがないのでこれで代わりにしてもらえればと思って…。」
当然のことをしたまでですが?といった感じで瑠姫は答えたが、涼はなんと言っていいのかわからず、黙るほかない。
瑠姫が能力を手に入れたのは10歳、わずか小学生の時だ。
両親はそれよりもさらに5年前、交通事故で亡くなっており、祖母の元で育っている。その祖母も瑠姫が12歳の時に亡くなっている。そこから瑠姫は会社を立ち上げて今に至る。
と、ここまでが昨日の夜、ネットで調べた瑠姫の身の上だ。
これは涼の勝手な憶測だが、12歳という幼さで自分の身体を商品として生きてきた瑠姫には自分を大切にする意識が足りないのかもしれない。ある程度の傷ならばすぐに治ってしまう、この異色の血も原因の一つではあるだろうが。
「ふぅ…。
瑠姫、これはいらないよ。洋服を買うぐらいのお金なら大丈夫だからさ。これでもそこそこは稼いでいるんだ。」
「え?でも、」
「でもじゃない。傷が簡単に治るからってそういう風に自分を扱っちゃダメだ。
俺は別にそういう理由でキミを雇ったわけじゃない。」
「では…どういう理由で雇ったのですか?」
どういう理由だろう…?涼自身にもいまいちわからない。
「とりあえずそういう、宝石目当てではないってこと!」
ガチャガチャと食器をまとめて、流しへ運ぶ。
一体どんな理由で彼女を雇ったんだろう…??
食事を終え、買い物に向かう。
瑠姫はクラブに行った時と同じ格好。涼は仕事ではないので、白いカットソーに青いカーディガンと黒のチノパンである。
エレベーターに乗り込み、1階を押したところで瑠姫が
「行く場所はさっき訊きましたが、どうやって行くんですか?車?」
「車は持ってないんだ。」
「そうなのですか?
それでは毎回ああやって盗んでいるのですか?」
「人聞きの悪いことを言わないで。拝借してるの、拝借。
車は尾行されやすいでしょ?歩いて行動した方が安全だし。
都内なら車がなくても不自由ないからね。」
「まあ…そうですね。
電車ですか…。」
瑠姫は何故か不安そうな表情になっている。
まさかクロウクローがやったようなことがまた起きると思って心配しているのだろうか?それとも…
「もしかしてさ、電車に乗るの初めて?」
「!
い、いえ…そんなことは…。
その、こっちに出てきた時に一度だけ…。」
モジモジと小さな声で瑠姫が答える。
つまりは初めてといっていいわけだ。これは…ふむ。
それから少し歩くと駅に着いた。
改札機の前に着くと涼は瑠姫にお金を渡した。
「え?
なんですか、これは?」
「降りる駅はさっき教えたよね。
切符を買ってきなよ。俺の分は大丈夫だから。」
満面の笑みで瑠姫を券売機の方へ送り出す。
瑠姫は最初言われたことが理解できなかったようで、まるまる2秒固まっていた。
その隙に涼は素早く改札を通る。さすがは1秒タッチの電子マネーだ。
振り返ると瑠姫がなにが起きたのかわからないといった状態で取り残されていた。
どうして今涼が切符も通さずに改札を通ったのか、わかっていないようだった。
自分が情けない顔をしてることに気づいたのだろう。ハッとした瑠姫は涼を睨みつけた。戦場ならこの瞬間に涼は死んでいただろうが、ここは駅の改札である。強いのは電車の乗り方を知っている方だ。
瑠姫はくるりと向きを変えて券売機へと向かう。券売機の上にある路線図を見つめて、必死に降りる駅を探している。
探すのに手間取ったが、どうやら見つけたようで券売機の前に立つ。
ここは意外とスムーズにいったようで、すぐに改札へと向かってきた。
だが、改札機に切符を入れる場所がないことに気づいて慌てている。
隣の改札機には切符を入れる場所があることに気づいて、改札を通り抜ける。
涼の前に経った瑠姫は少しドヤ顔気味だ。
かなり手こずっていたのに。だがまあちゃんと切符も買えたし、面白いものを見せてくれたので
「偉い!
よくできました。」
と褒めてあげる。
「ふふん。当然です。」
鼻高々である。かわいいものだ。
電車に乗り込み15分程で目的の駅に着いた。
予想通り、休日だけあってかなり混み合っている。これならば瑠姫が周りに気づかれる可能性も低いだろう。
そこからは時間があっという間に過ぎていった。
涼は女性の買い物というものに付き合ったことがなかった。伊織は自分でショッピングをするので、一緒に出かけてもお酒を飲むだけだ。
そんな涼なので、あまり気の利いたことは言えなかったと思う。だが、幾つかのショップを回って分かったのは、瑠姫の好みは15歳らしく、かわいらしいデザインのものであるということだ。
伊織の着るものは無地が多いが、その分色味や装飾品で印象を与えている。余計なものはあまりないシンプルなイメージだ。
他方、瑠姫はリボンやフリルなどがアクセントで入っているもの、特にワンピースを好んで買っていた。
よく、女性の買い物は長くて男性は付き合いれず、飽きてしまうといった話を聞く。が、涼はそんなことは全く思わなかった。
試着室から得意気に、あるいは少し恥ずかしがりながら姿を見せる瑠姫のファッションショーをみているのはとても楽しかった。惜しむらくははニット帽を外すことができなかったことである。
気づくと買い物を初めてからまるまる4時間が経っていた。
そろそろ涼が持てる荷物としては限界を迎え始めていた。これが春先だから良かったが、冬だったら確実に持ちきれない量になっていただろう。
ってかこんなに持ってたら注目されちゃうじゃんか!
まずいなと思い、瑠姫に帰ろうと提案しようとしたところで、先を歩く瑠姫が足を止める。
どうしたの?と言葉が喉まで来たところで、瑠姫が止まった理由が分かり、言葉を飲み込む。
瑠姫が立ち止まり見つめているのは涼には、いや、多くの日本男児には高いハードルである店だった。そう、ランジェリーショップだ。
当然、生活必需品であるため寄る必要があるのだが…
「また試着したら見せてくれる?」
自分から寄るとは言い出しづらいかと思い、冗談っぽく言ってみると、無言で脛を蹴飛ばされた。
「痛いよ。
はい、これ財布。俺はあそこのベンチで座ってるから。」
無言で財布を受け取り、店内へ入っていく。
冗談だったのに、すごい怖い顔してたな…。伊織に通じる冗談が通じなくて困る。
ベンチに腰掛け、両腕に抱えていた荷物を下ろす。
今日の買い物の間、瑠姫の表情には笑顔が多かったように思う。
クロウクローの一件の時は終始無表情で口数も少なかったイメージだが、あれは警戒モードだったのだろう。
当然と言えば当然だ。だが、買い物中は15歳の少女らしい顔をしていたので、涼は少し安心した。
携帯を開くと伊織からメールの返信がきていた。買い物にいくことが決まった時にメールしておいたのだ。
「私に通じるからって変なこと言っちゃダメだよ。」
……みてたのか?あまりにも的確なコメントに焦り、盗聴器が仕掛けられていないか本気で探す。
盗聴器がないことを確認し、改めて女の勘について恐怖していると瑠姫が店から出てきた。
手には小さな紙袋を下げている。
さすがにそれを持つよとは言えず、そのまま帰途につく。
帰りの電車の中では終始無言だった。怒っていらっしゃるのだろうか?
最寄り駅で降り、歩いていると
「今日はありがとうございました。
あんな風に買い物をしたのは初めてだったので、とても楽しかったです。」
「楽しかったんなら良かった。俺も楽しかったし。でも、買い物初めてだったの?」
あれだけの会社の社長なら好きなだけ買い物できそうな気もするのだが。
「その…やはり私は主血ですから。クロドアや他の隷血たちが護衛についてると言っても、ああいった風に好きなようにとはいかなかったので。」
「そっか。なら良かった。」
口では良かったと言ったが、不用意だったかなと思い反省する。
青血が総出で護衛をしても危険だと判断されてしていなかったことを、涼一人の護衛でやってしまったのだ。
その分目立たないという利点はあるが、万が一の時は弱い。
主血ということは分かっているつもりだ。だがそうはいっても、一度間近で接してしまうと15歳の女の子として扱ってしまう。
血の衝動を感じない涼としては、なおのことだ。隷血が主血に対して感じる衝動というものは一段と強いらしいが、そもそも血の衝動自体感じたことがない涼にはその感覚が分からない。
相手を見た瞬間に殺そうと思うだなんて…一体どんな感じがするのだろう…?
「どうしたのですか?」
「え?いや、なんでもないよ。
今日の晩ご飯はどうしようか?なにか食べたいものは?」
「そうですね…。
それではフレンチのコースなんかはどうでしょうか?」
「……作れません。」
「ふふ。知っています。仕返しです。
夕食はお任せしますよ。朝も美味しかったですから。」
どうやら切符の件の仕返しをするタイミングをずっと狙っていたらしい。
やはりこういうところが15歳の女の子だというのだ。
「さーて、じゃあなにを作ろうかなー。」
冷蔵庫に残っている食材を思い出しながら、ゆっくりと二人で帰る。
まあ、こういうのもたまには悪くないか。