梅雨落下雨粒
注意点なし。
雨が降ってきた。
学校の帰り、終点を降りて住宅街に少し入ったころだった。朝から重たい曇天ではあったが、降られるとやはり憂鬱だった。殊更、今日は傘を忘れてしまっていた。
鼻先にぽつり、とあたると途端に勢いを増した。通り雨だろうか。確証は微塵もなかったが、とにかく雨宿りできそうな場所を探しながら走っていた。濡れた地面の独特なにおいがあたりを満たす。びしゃびしゃと足元から聞こえるたび、靴の中に水が溢れた。鞄を傘代わりにしているが無意味なもので、すでに濡れ鼠である。
周囲が変貌した。
「あら、こんにちは。」
突然かけられた声に――周囲に誰もいなかったのだし、恐らく間違いはない――私は足を止めた。場にそぐわない底抜けに明るい声だ。
「雨宿りされていきませんか?」
声のほうを向くと、ちょうど庭先に差し掛かっていたらしい、縁側に座る、紫陽花をあしらった浴衣の女性が私へ笑いかけていた。私は数瞬迷ってから、
「いえ、あと少しで着きますので。」
と返したが、
「その頃には雨も上がりましょう。ちょっとお休みになられてください。」
ほら、そこから、と女性は小さな木扉を示した。いいですから、と言おうとしたのだが、私の口がまごついている間に女性はすっと立ち上がってぱたぱた奥へ消えた。
私はただただ呆けていたが、言葉に甘えて木扉を押して軒下へ駆け込んだ。
頭の鞄を下ろす。水を払っている間に女性が戻ってきた。
「さあさあ、拭いてください。風邪を引きますよ。」
礼を言いつつバスタオルを受け取った。確かに寒かった。
「お座りになってお待ちください。暖かいものを持ってきますね。」
そんなことを言われても、ずぶ濡れで座るのはさすがに気が咎めた。家の中を――興味は多分にあったが――じろじろと見回すも失礼なので、視線を庭に投じた。樋から溢れたのだろうか、そんな物もとからないのだろうか、軒先からは勢いよく雨水が流れ落ちている。
その先は見事な紫陽花園であった。青みの強い紫が幾重にも重なって向こうまで続いている。これほどか、とその姿に強く心魅かれた。
「遠慮なんていりませんよ、座ってください。」
女性が、今度はお盆を両手に、湯気を立てた一杯の湯のみを運んできてくれた。女性は私の近くに座り、自分の隣を指し示した。戸惑ったが、大人しく従った。立ち疲れていたのは事実だ。
「さあどうぞ。」
バスタオルを畳んで脇に置き、礼とともに湯飲みを受け取った。何度か息を吹きかけ、慎重に口をつける。少しとろみのある甘い液体が舌を包んで、のどへ流れ込んだ。
「紫陽花の蜜湯です。おいしいでしょう?」
私は頷いた。甘いものは苦手だが、これは何の抵抗もなく飲むことができた。紫陽花の蜜と言うのも今まで聴いたことがなかったが、これほど上手な甘みを醸し出すならば、たまにでも飲んでみようかと思った。
私がそれを瞬く間に飲み干してしまうと、女性はまた奥へと消えてお代わりをくれた。
「遠慮はいりませんよ。たくさんありますから。」
女性はそう微笑んで言葉を続ける気配があったが、はたと奥を振り返った。
「すみません、お客さんみたいです。」
女性は、はーい、と返事をしつつどこか――当然のごと玄関だろうが――へ足早に向かった。
少しするとガラガラと戸の引かれる音がして、さほど遠くないのか、かすかに話し声が聞こえた――まあ、カシワバさん、お久しぶりですね、お元気そうで何よりです。ニシさんもお元気そうで、相変わらず鮮やかなお召し物ですな。いえいえ、カシワバさんほど白の似合う方はいらっしゃいませんよ。そう言っていただけると嬉しいですなあ。ああそうだ、今もう一人のお客さんがいましてね。ほう、どなたでしょうか、クロヒメですか、まさかミヤマというわけはありませんでしょう――
雨は弱まる気配を見せない。庭にますます紗がかかってゆく。紫陽花がぶれて広がる。――まあまあ、ミヤマさんにそんなことが。そうなのです。それは、本当にお気の毒です、お見舞いに行かねばなりませんね、ご一緒にいかがでしょうか。今日はそのつもりで伺ったしだいです、日取りはまた近いうちにでも。そうですね、なるべく早いほうがいいわ、いつまで降るか分からないもの、ああそれで……。そうですな……。もうすぐ……。あそこには――
二人の声が反響する。紫陽花の残像が膨らむ。急激に迫りくるそれに私が体を後ろに倒すと、どぼん、と鈍い音がした。
すると、どうしてか知らないが、私は水の中を落ちていた。見上げる水面にはさっきまでいた縁側が、その天井が、そして曇天が見て取れた。
私は鞄が心配になった。雨が吹き込めば濡れてしまう、が、いまさら庇ったところで手遅れであるのだった思い至った。
縁側がゆっくりと遠ざかる。私は緩やかに沈んでゆく。やがて見えなくなると、今度はたくさんの気泡が浮き上がってきた。よく見ると、大小様々のそれらは大小様々のものを包んでいることに気がついた。
赤いミニカー。重たそうな信楽狸。大輪の花を彫り込んだオルゴール。開かれたままのオレンジの雨傘。蛍光色のサンダルが片方だけ。雨蛙のキーホルダー。道端に落ちていそうな小石。ひれを揺らめかす金魚。未完成の千羽鶴。
ふと、一際大きなものが私をゆっくりと抜いた。その気泡の中には子供が入っていた。近くにはランドセルの泡もある。よくよく見渡せば、スーツ姿の女性や入院着の男性、作業着のおじいさんも見つけられた。皆が皆、眠たげに瞼を下ろしていた。なるほど、ならば私もここに落ちることは当然であって、いつか泡に包まれて浮かび上がるのだろう。
しばらくすると、気泡の群れは過ぎ去り、再び何もなくなった。少しだけ静かになったような気がした。かと思えば急に暗くなった。重々しい振動があたりに伝う。じっくりと耳を澄ませると、それはごぽごぽという、微かだが恐ろしい音であると分かった。
沈むにつれて音は大きくなる。近づきたくはなかった。できることなら早々に浮き上がりたい。しかし、一向にその気配はない。ならばこの状況、どうして私が抗えようか。なすすべなく落ちるのみなのだ。
ごぼり、とすぐ近くで一際大きな音がした。ぐんと背中を力強く引っ張られる。そばを空っぽの大きな気泡が急浮上していった。
次の瞬間、私は明るい空間に放り出されていた。曇天が目前にある。そう認めるや否や急速に離れ始めた。落ちる、と私は思った。周囲の風景――と言っても水滴か空しかない――は歪に湾曲している。周囲の水滴を次々に追い抜いて落下を続ける。
私はぎゅっと目を閉じた。加速する浮遊感を全身で感じた。このまま落ち続けるとどうなるのだろう。落ちた先に、何があるのか。何があろうとも、きっと大変なことになるに違いない。私は今、落ちているのだ。
そのとき、瞼の裏に光が差した。思わず目を開くと曇天の雲間が切れて、一条の陽光が私を照らした。がむしゃらに手を伸ばした。落下は続く。
突然、ドン、と強い衝撃を受けた。
視界が暗くなって一瞬、私は縁側の天井を見上げていた。女性の微笑が私を見下ろす。相変わらず、底抜けに明るい笑顔だ。
「なんとか間に合いましたね。」
確かに、雨が上がっていた。
*****
後々、園芸部に聞いたのだが、よく見られる西洋紫陽花には蜜はないのだと言う。なるほど、あの紫陽花園を二度と見なかった。
どうも、紅炎です。
七割くらいの力で書いた代わりに推敲は丁寧にしました。雰囲気は以前書いた小説(未投稿)と似ているかなって思います。
梅雨って好きですよ。移動には不便ですけど、歩くのが好きです。紫陽花以外にもいろんな花が見れます。梅雨の初めに蒸した桃饅頭みたいはつぼみを見かけまして、娘さんみたいできれいでしたよ。
あ、受験勉強? いやだなあ、しているに決まっているじゃないですか。はははーふう。
では、またいつか。