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白雪姫と物言わぬ鏡・5



 あれから、更に一週間が過ぎた。

 授業がすべて終わっても、終業式までは一週間以上の期間があった。そのうち半分は家庭学習日という名の休日。しかし帰宅部の私にとっては夏休みが始まったも同然だった。登校日もロングホームルームのみで一時間程度で帰れる。部活がない私や由香里は炎天下の中、普段の倍以上の時間を与えられて苦しむもしくは喜ぶ運動部を横目にさっさと下校していた。

 孝也とはあの朝以来まともに顔を会わしていない。学校に来る日数が減ったというのも原因のひとつではある。けれどもそれだけではないだろう。

私や由香里は最寄り駅の関係で、常に下校時にはテニスコートのすぐ横を通っていかなくてはならない。そんな時、毎回私は、無意識にコート内に目をやってしまう。そして自分で後悔する。私のことなんかまるで気にかけていないかのように練習に打ち込む孝也を見て。マネージャーと親しげに打ち合わせをしている孝也を見て。一年生の女の子の三人組に声をかけられている孝也を見て、結局いつも私だけ一人でぐるぐると暴れているようで無性に悔しかった。

 

 そして終業式を翌日に控えたある日の登校日。夏休みに学校で行われるという夏期講習の出欠表を提出するためだけに登校したかのような日だった。その日の放課後、いつものように私と由香里はともにコート脇をしゃべりながら歩いていた。たまたま少し遠くで練習している絵美達3人を見つけて軽く手を振ってみる。すると「美人だけど性格が悪い」という噂のバトン部部長に睨まれてしまった。その反応に肩をすくめ、バトン部から目を逸らすとその拍子にテニスコートに視線が移った。


 振り向いた孝也と目が、合った。


 まともに目が合ったのは何日ぶりだろうか、と本気で思った。けれども私が何か反応を見せる前に、孝也はさっとその目を逸らしてしまった。孝也の行動になんとも言えない気持ちが溢れる。もはや悲しいとか悔しいとか、そんな感情ではなかった。自分が大きなショックを受けなかったことに驚きながら、ただ妙に納得してしまったというか当然だろうというような気持ちだった。


 一瞬の出来事に由香里は気づかなかったのか、「どうした〜?」なんてのんきに声をかけてきた。「別にっ」と軽く笑って歩く速度を速める。

 「早く行こ。さっさと塾に行って柏さんに会わなきゃ!」

 私の言葉に由香里はまたため息をつく。

 「今日も行くの〜?ったく、頑張るわねぇ」

彼女の言葉が示すとおり、初めて柏さんに会ったときから私はほぼ毎日塾に通っている。けれどもその目当ては授業ではなくもちろん柏さんに会うことだった。つまり由香里の「頑張るわね」は私の勉強っぷりではなく、懲りずに柏さんに近づこうとしている行動に対してなのだろう。塾のシステムは授業を受ける日にちと時間を授業ごとに自分で選べるものなので、私は連続で授業をとっていた。

 「まあね。そろそろ一歩前進したいところなんだけど・・・」

 

 そんなことを呟きながらも、まだ頭の中には孝也の姿が残っていた。結局、柏さんに近づこうとしていることだって孝也への反発でしかないのだ。一歩前進だなんて、所詮言葉の上だけのものだ。柏さんにはこの上なく失礼だと思う。けれども、こうでもしていないと気持ちは落ちていくばかりなのだ。毎日柏さんに会いに塾に行くことは、最初こそ本気で柏さんをかっこいいと思い本気で好きになりそうだと思ったが、今では単なる意地でしかなかった。その証拠に、毎日毎日塾帰りはどっとテンションが落ちてしまう。私を責めるように押し寄せる柏さんへの罪悪感と、そして孝也への罪悪感。孝也が好きだ。でも柏さんと一緒にいると、ひとときの安らぎを与えられたような気分になる。嫉妬したりイライラしたり悔しがったり、そんな私が遠くに消えて、ただ笑っているだけでよくなる。毎日孝也を思いながらも、この時間だけは柏さんの癒しを求める。孝也を傷つけ、柏さんを利用して、私はいったい何がしたいのだろう。


 それでも、私は今日も塾へ向かう。




 いつも通り、授業後に柏さんのもとへ行った。授業で行った範囲について質問する。もともと英語が得意じゃない(というか得意な科目なんてない)私には、柏さんのもとへ行く口実なんて探さなくても見つかるものだった。

 「お疲れ。今日はどこ?」 

 そんな風に笑いながら、柏さんは私に付き合ってくれる。毎日毎日基本的な部分を質問にきておまけに覚えが悪い私に対しても、彼はいつも笑顔で呆れることなく教えてくれた。たまたま来ているチューターが少なく、来ていたチューターも買出しに行ったり個別部屋で他の生徒に教えていたりするらしく、事務には人がほとんどいなかった。いるのは書類整理をしている女の事務員とバイトではない専属のチューター2人(熱心に何かを話し合っている、というか議論している。けれど時おり聞こえる内容はたいしたことなさそうなものだった)、それから新人らしいバイトのチューター1人と柏さんだけだった。人が少なく、柏さんの机が現在事務にいる人たちとは少し離れていたので、柏さんはさほど周りを気にしないで説明し始めた。。


 「・・・・どうしてもわからない場合はここの間にbe動詞を入れてみるんだ。そうして訳してみれば・・・・」

優しく甘い声が響き、男の人にしてはとても綺麗な長い指が私のテキストをなぞる。ドキドキするくらい完璧な人。説明を聞きながらうっかり見とれてしまいそうで少し慌てた。けれどそんな瞬間さえも、とても心地よかった。この瞬間だけは孝也のことを忘れてしまいそうになる。後になって自己嫌悪に陥ることはわかっていた。けれど、日に日に感覚が麻痺していく。少しずつ、孝也を思い出す瞬間が減っていっている。確実に。

 


 「ありがとうございました。やっと理解できましたよ。さすが柏さん!」

ひととおり説明を聞いて、鈍い私の思考にも柏さんの言葉が刻まれてから、私は立ち上がった。柏さんもそれに合わせて立ち上がる。

 「俺のおかげと言うよりは本城さんの頑張りだよ。毎日通ってきてホントによくやってる」

 「ありがとうございます!」

 褒められたことにくすぐったいような感覚を覚えた。こんな風に人に言ってもらうのは久しぶりな気がした。頭を上げた私は満面の笑みだっただろう。


 「でも無理はしないほうがいい。あんまり焦らなくてもまだ2年なんだし」

本気で気遣ってくれている、それが伝わってきた。きっと他の生徒にも同じことを言っているのだろう。わかっているはずなのに、それでもとても嬉しかった。自分の単純さに多少呆れつつ、でも今は素直に柏さんの言葉を受け取っておくことにした。

 「大丈夫です。柏さんに会うためなら毎日通うくらい!」

 「なんだ。勉強じゃないのか」

私の返事に柏さんは大笑いした。完璧冗談だと思われてるな、と私は思った。とはいえ、言った私にも本気なのか冗談なのかいまいち区別が付けられなかったが。渦巻く暗い気持ちがまたせりあがってきそうになって、それを振り払うかのように私はまた軽い口調で言った。

 「本当ですよ。私は勉強じゃなくて柏さんに会いにきてるんですから」

 「ふーん」

 なおも笑いながら柏さんは言った。迷惑がっているようには見えなかったので、少なくとも嫌われてはいないかなと私は感じた。


 すると、ふと柏さんが笑うのをやめた。

 微笑んではいる。けれど、さっきとは違う種類の笑みだった。なんというか、先ほどまでのさわやかな印象ではなく、何かを感じさせるような微笑が口元に浮かんでいた。


 「それじゃあさ」

声は変わらず、甘い。表情の変化と耳に届くいつもの声に縛られて、動けなかった。ざわざわと胸の奥が騒いだ。

 

 「今度は塾以外で遊びに行ってみる?」


 告げられた言葉自体は、重く感じないものだった。けれどもその表情と口調は、私の鼓動を大きく波打たせるのに十分だった。

 「・・・・何言ってるんですか」

 かろうじて絞り出した声。普段と変わらないように、動揺を悟られないようにと、努めて言った。けれど私の口調を柏さんがどんな風に受けとったかは読み取れなかった。柏さんの笑みが、いつものものに戻った。

 「なんてね。冗談」

嘘だ、と咄嗟に言いそうになった。言葉を飲み込んで、私もいつものように笑って言い返した。

 「そんなのわかってますよー。私なんか誘ったってなんの得にもなりませんもん」

あははっと笑った。けれど、その喉はカラカラだった。

 突然の柏さんの変化に戸惑った。でも同時に、その誘いに即答しそうになった自分がいた。彼の言葉に乗ろうとしたのだ、私は。冗談だと言われたときも、そんなはずがないと確信していた。冗談で流さず、そのまま連れて行ってほしいと願う自分がいた。そしてそんな自分に、私は驚いている。


 彼が何を思って私を誘ったのかはわからない。ただ、そこには冗談なんて含まれていなかった。それだけは確信が持てた。だからこそ、彼の狙いは全くわからない。

 けれども、柏さんの真意など関係なしに、流されそうになった自分がいた。あの瞬間、私の中から孝也は完全に姿を消した。残っていた罪悪感、後ろめたさや悔しさ、孝也に関するものが一切私のなかに感じられなかった。

 私は柏さんに何を求めていた?孝也に見放されて、ただ癒されるために利用していただけじゃなかったのか。それとも、いつの間にか私は本気でこの人に惹かれ始めていたのか。自分で思っていた以上に、私のなかでこの人が占める割合が多くなっていたのか。

 

 この人は、毒リンゴだ。甘美な香りで私を誘惑し、みずみずしくさわやかなその味で私を侵食する。食べてはいけないもの。けれど人は、いけないと思うことにほど強い好奇心を抱いてしまう。そして、一口口にすれば、あとは簡単だ。ただ堕ちていくだけ。

 私にはガラスの棺はない。たくさんの花を添えて美しく葬ってくれ、涙を流してくれる七人の小人も。そしてクライマックスで、私を優しいキスで目覚めさせてくれるはずの、王子も。清らかで美しい白雪姫とは違う、ずるくて我侭で汚い私は与えられた毒に苦しむしかない。とろりとした甘い毒は、私をじわじわと捕えていく。



 治癒方法はあるのか。


 おそらく最も簡単な方法は。


 ただ身を任せること。


 

 ーー体を侵す甘い毒と、リンゴを受け入れてしまうことなのだ。

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