Rapunzel Ⅰ
下らないと思いながらも街を眺めるのは、まだ自分の気持ちに区切りが付かないから。
諦めることとも少し違う。
でも持ち続けることはしたくない。
邪魔なものにかわりはないから。
「捨テ去レバイイ」
きっとそう言う。
強さでも冷たさでもない、あの人の言葉。
そしてワタシも―――
「享、どうしたの?」
不意に名を呼ばれて顔を上げると、眉を顰めた友人がこちらを見る視線とぶつかった。
「……?」
「さっきから窓の外ばっかり見て、何か考えごと?」
聞き返すように小首を傾げると、呆れた様子で笑みを浮かべて彼女は言った。
「ううん、別に」
「そりゃあさ、もう直ぐご結婚の身となれば、色々と悩みもあることでしょうけど――」
取り繕うように浮かべた微笑みの前に、彼女は人差し指をビシッと突き出し、
「人の話はきちんと聞きなさいっ」
でこピンのまねをする。
思わず目が点になって、噴出してしまった。
「ちょっとぉ~。ここは笑うところじゃないでしょ」
「ごめん。…だって、真面目な顔して言うから…」
「当たり前でしょ、これは真面目な話よ?」
「はいはい、解りました。尋木大先生」
「態度で示しなさい、賀鳥さん」
「先生、まだ賀鳥じゃないんですけど。大体、籍を入れるのは卒業してからなんだし、当分先の名前だよ、ソレは」
「でも式を挙げたら一緒に住むんだし、変わりは無いでしょう?」
ニヤニヤと笑いながら彼女――尋木 潮は言った。
『潮』と書いてシオリと読む彼女は、高校時代以来の友人で、進路の別れた今でも連絡を取り合う唯一人の人物。
進学先が近かったこともあって、月に何度かはこうしてお茶をする。
普段は獣医大に通う潮の話題が主だったけど、最近はめっきりコッチの話題ばかり。
【一月後に控えた結婚式】
そう。もう一月後なんだ。
自分のことながら、他人のことのように思えてならない。
だから、潮から三ヶ月も同じ話題で弄られるとは思ってもみなかった。
ある程度まで決まってから、招待状と共に報せた当て付けなのか、潮は『賀鳥』の名を何度も口にして、訂正するこちらの言い分には、新生活の話を持ち出してくる。
何も言い返せなくなって拗ねた視線だけ返すと、勝ち誇った笑みを口端に浮かべて、あやすように頭を撫でてくる。―――これも毎度のことだった。
「でもさ~。羨ましい限りよ、享」
「そんなことないよ……」
「謙遜するなって。あたしんトコなんて周りにオスはいるけど、どうにもなんないのばっかりよ。就職難の波はココまで来たか・ってカンジ」
頬杖をつき、カウンターテーブルの上に置かれたコーヒーを掻き混ぜながら、潮は溜息を零す。
「同年代の子はお洒落して陽の下を歩いてるっていうのに、学者論文や専門書とにらめっこして……」
「でも、好きなんでしょ?」
「……大好き。だって、あのクリっクリの目で見つめられてごらんなさいよ。疲れもフッ飛ぶわ」
患畜となる動物たちの姿を思い出したのか、潮は頬を緩めて満面の笑みを浮かべる。
彼女のこういうトコロ、凄く羨ましい。
好きなものを好きと言える素直さと、しっかりとした信念に対する気持ち。
自分には無いものばかりだ。
「――そう言えば、指輪はどうしたの? 最近着けてないけど……」
「ん、ちょっとね」
「なぁに? 独身最後の悪足掻きってヤツ~?」
「そんなんじゃアリマセン」
からかう口振りの潮に、茶化すように返した。
潮の言う通り、少し前から婚約指輪を外している。
送られたのは当然、三ヶ月と少し前。
ドラマや何かで見るような、プロポーズと同時に・というものだった。
けれどそれは、夢や希望に満ちたものではなく、まして喜びに打ち震えるような瞬間でもなかった。
何故ならこの結婚は、自分の意思など欠片も含まれていなかったから。
普通じゃ考えられないような、政略結婚だとかいった類の縁談。
そういうものだった。
「今時?」て言われて、「そうなの?」と返すあたりが「らしい」と潮は笑った。
厳密に言えば、政略なんて呼べるほどのものじゃなく、「優秀な跡取りが欲しい」という父の意向。
お見合いよりも性質の悪い、ほぼ強制的な婚約だ。
ただ救いだったのは、相手が見知らぬ人物ではなく、かつての家庭教師だったこと。
とは言っても小学生の頃の話で、今では全くの他人と言って良い。
そういう間柄の人物。
名前は賀鳥 秀陽。
落ち着いた雰囲気を持ち、聡明で冷静。絵に描いたような好青年。加えて肩書きもなかなかなもので、正に非の打ち所が無い。
当然ながら、秀陽氏の人柄を知る人物は諸手を上げて賛成し、拒否権は無いも同然。
ならば・と素気無い態度をとっても、軽くあしらわれて、大人の余裕というものを見せ付けられて終わった。
そして気付けば挙式まであとひと月。
差迫った期限に対して指輪を外すことだけが、今できる精一杯の抵抗だった。
夕食を済ませて、潮と一緒にお店を出ると、店の前に一台の車が停まっていた。
先に気づいた潮は、挨拶もそこそこにその場を後にし、運転手に気付いて眉根を寄せる頃には既に見る影も無かった。
露骨に顔を顰めて佇んでいると、訊いてもいないのに答えが返される。
「……連絡がつかなかったので、迎えに来ました」
どうせ父にでも言われて、母から居場所を聞き出し、わざわざ車を出したのだろう。
そうでなければこんな所まで、平日であるというのに、来る筈が無い。
「送りますから、乗って下さい」
穏やかな微笑を浮かべられ、助手席のドアを開けた。
シートベルトを締めると、車はゆっくりと走り出す。静かな車内には、ミントの香りが微かに漂っている。仕事帰りなのは、彼のスーツ姿で判っていたが、こんなところからでも、社会人と学生の違いを自覚する。賑わいた街並みが流れていくのを見ていると、不意に質問したくなって、言葉を掛けていた。
「どうして、断らなかったのですか?」
「それは以前話したとおり――」
「《家庭教師を終えても、気になる存在だったから》。それが本当なら、犯罪ですよ」
「これは手厳しい……」
「それに、あの時の言葉も――」
「《貴女を幸せにしたい》。ですか?」
今度は逆に言葉を取られ、代わりに溜息を吐く。
普通の女性なら喜ぶような、歯の浮く台詞もこの人は真顔で言ってのけてしまうから困る。
「……父や家の事を抜きに、考えられた言葉ですか?」
「勿論ですよ」
まるでどっかの三流物語よろしく、その答えは何の変哲もないものだった。退屈と言えばそうなるが、かと言って他に望む答えもないから、
「…アリガトウゴザイマス…」
エンジン音に紛れてしまう位の声で、そう返した。
親でさえ手を焼く鼻つまみ者を嫁にするなど、正気の沙汰とは思えない。
秀陽氏ほどの人物なら、他に言い寄ってくる女性もいただろうに、どうして引き受けたのか未だに理解できない。
まして好きな女性の一人や二人、いてもおかしくない歳だというのに――否、意外と、既に相手も結婚していて…とかいうのかも知れない。
それならば、『お互い様』ということになるのだろうか。
【虚飾の婚礼】
あの人なら、何て言うだろう。
自分でも可笑しいと思う。
何かというと直ぐあの人の考え方や答え方を浮かべて、その度に哀しくなる。
あの人は傍に居ない――――
気付くと、月の涙が夜のネオンに降り注いでいた。
月日というものは、人の心情に関係なく進み過ぎ去り、決して立ち止まることなどしてはくれない。
「時間が解決してくれる」というのは、その流れに翻弄される者の言葉で、流れに抗う者には通じない。
現実とは所詮そんなもので、無情にも挙式当日はやって来た。
生憎の雨の中、式の準備は着実に進められた。
控え室では、椅子に括り付けられるようにして腰掛けている本日の主役に、来場した親戚や知人達が挨拶をしていく。
一般的な結婚式と何らかわらない光景だった。
ただしそれは、ゴテゴテに塗られて着飾られた当人の気持ちを抜かして・の話だ。
嘘・偽りに汚れたこの身体を包むドレスは、目が眩むほど真っ白で、内面から滲み出た色でくすむことさえ恐れない、清廉な美しさを携えている。
髪に飾られたティアラは荊の冠のように刺々しく、チョーカーは首輪のように苦しく、ハイヒールは鉄の靴より冷たく、ドレスは甲冑より重く感じられた。
沈みきった様子でいると、気を利かせた潮が立ち上がり、それを機に他の人々も、控え室を後にし始めた。
独り残された室内には雨音だけが響き、瞳を閉じると先日の光景が浮かぶ。
あの日の夜も、同じようにシトシトと雨が降り、月の姿は見えなかった――。
式の日程を確認に来ていた秀陽氏は、その夜父の勧めから泊まることとなった。
「こちらにいらしたんですか……。ご一緒しても?」
縁側に設けられた籐椅子に座り、外を眺めていたところへ秀陽氏はやって来た。その申し出には一瞥しただけで黙っていると、肯定と取ったのか、向かいの席に腰掛けた。
「当日は、晴れると良いですね」
唐突にそんなことを言われ、思わず視線を動かすと、微笑んだその瞳とぶつかった。
「享さんは、雨がお好きですか?」
「……何故ですか?」
「雨の日はいつも、外を眺めていらっしゃる」
そんなに見られていたのか・と思うほど、意外な言葉だった。柔らかな秀陽氏の物言いに、再び視線を外に戻して応える。
「……嫌いではありません」
「では、私との結婚はお厭ですか?」
単刀直入に質問され振り返ると、少しだけ翳った瞳がそこにはあった。
「……貴女はまだお若いし、その上相手が歳の離れた人物ともなれば、仕方の無いことかもしれませんね。私も、自分が二十歳の頃ならば逃げ出すことも考えたでしょう。……享さん、今ならまだ間に合います。本当の気持ちを教えてくれませんか?」
秀陽氏の眼は、初めて見る色を浮かべていた。
何故、そんな眼で見られなければならないのだろうか。そんな――傷ついたような、切なさを含んだ眼で。
確かにお互い、デメリットの多い結婚になるだろう。でもだからと言って何故、そんな視線を向けるのか。
「……厭だということは、ありません」
見つめ返してくる視線に怯んだということもあるが、その言葉は本心だった。すると小さく息を吐き、
「ならば私は、この先ずっと貴女の敵にはなりません。ですから時折でも良いので、笑って下さい」
微苦笑を浮かべた瞳は、あまりにも優しいものだった。
もっと非難を含んでいたなら、楽だったろうと思う。だから同時に、言わなくてはならないような気がした。
「……でも、心はあげられません」
真っ直ぐにその瞳を見据えながら口にすると、驚いた様子を一瞬だけ見せて、直ぐに微笑を返した。
「心はいつだって、自分自身だけのものですよ」
柔らかい声だった。宥めるものでも、はぐらかすものでもなく、本心からの優しさが詰まったものだった。
心苦シイ。
この人を騙し続ける道からは外れたが、偽りの世界を作る片棒を担がせることからは、逃れられそうに無い。
自責の念よりも、慰謝に近い思いの方が強かった。
――コン、コン。
不意にノックの音が響いて、現実に引き戻された。
きっと、ひどく滑稽な式のお迎えだろう。
そう思いながら返事をする。雨音に整えられた呼吸と気持ちは、穏やかというよりもどこか冷めていた。
少なくとも、この扉が開くまでは――――
「どう…して…?」
唇から言葉が零れた。
「オメデトウくらい、言わせて欲しかったから」
相変わらずの、懐かしい口調。声。微笑み―――
扉を開けて入ってきた姿に、懐かしさが込み上がり、何か応えなければ・と思う度、胸が詰まる。呼吸さえ忘れてしまって、眼が釘付けになる。壊れた螺子巻き人形のように、身体は動かない。次第に視界が揺らぎ、水の中でその姿を歪めて行く。
――駄目。
視界をクリアにしようと瞬きをすると、スッと影が動いた。その瞬間、泣きたくなった。
「相変わらず…。でも、涙はまだとっておきなさい」
右手の親指が、目許を拭う。温もりに紛れて、微かに冷えた空気が伝わった。
「新婦が泣くのは、ご両親への挨拶の時でしょ?」
くすりと小さな笑みを零すと、ハンカチを取り出して、両手で頬を挟み、幼子をあやすように額を合わせた。涙は止まる気配も無く、次から次へと溢れてくる。
――この涙で、あなたを繋ぎ止められるのなら、もう少しだけ、このままで居させて……。
一度掻き乱された心に収拾がつくには、時間が掛かりそうだった。
言葉は全て嗚咽に紛れ、姿は涙で霞む。だけど正直、それで助かった。きっと、言わなくても良いことまで口走ってしまったことだろうから。
「……どうして此処に?」
言葉が出るようになって、涙を抑えながら訊ねると、
「ヒミツ」
悪戯っ子のような笑みを浮かべて、人差し指を立てる。その仕種もよく目にしたものだった。
これには涙ではなく、笑顔で応えることができた。
「そ、花嫁さんは笑顔でいないとね」
満足そうに微笑んで、ポンと肩を叩く。これも、変わらない対応だ。母のように、大らかな心持を思わせる、穏やかな態度。
「――っと、そろそろ時間だね。主役を遅刻させたら悪いから、退散するよ」
壁に掛けられた時計を見ると、確かにもう直ぐ予定の時間だった。そして今度は肩口の髪の毛を直し、ハンカチを握らせると、言葉もそこそこに踵を返した。
まだ話し足りない気もあったが、引き止めては返って悪い気がして、扉に向かう背を見送る。
微かに甘い香りが鼻先に流れた。
「待って、リョウ」
「ん?」
声を掛けると、くるりと振り返って笑い掛けてくれた。
「……今日は、本当にありがとう」
「いいえ。綺麗な花嫁さんを見れて良かったよ」
顔をほころばせて「眼福」と口にする姿に、ホッとする。変わることの無い時間が、其処にはあるのだと、実感できた。でも懐かし過ぎて、胸が詰まる。
「……お倖せに」
言葉を出せずに居ると、花弁が開くような微笑みと、祝福の言葉を贈って扉を開く。去り際に振られたその手に、ぎこちない微笑を浮かべるのが精一杯だった。
堪えた涙は、扉が閉じられると同時に零れ、向う側に消えた背中を見つめながら、言えなかった言葉を口にする。
「―――――」
涙は止まるところを知らず、残り香のするハンカチを濡らし続けた。この想いはようやく、昇華されるのだ。
少し経った後、潮が再び様子を見に入って来た。潮は室内の様子に驚きの声を上げ、次いでぐちゃぐちゃな花嫁の顔に気付き、大慌てでメイクを直してくれた。そしてやっと、気持ちが落ち着いた。鏡を見ると先の化粧よりもずっと、自分らしくなれていた。
今なら素直に、新郎――秀陽さんの手を取れる気がする。
いつの間にか雨は上がり、雲間から太陽が覗いていた。
―好きな人ができた今も、あなたの代わりはいない―