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「すまない」と処刑台で言った騎士団長の砂時計が、ほとんど空っぽだったので処刑された令嬢は、二度目の人生で"確信度"をつけることにしました

作者: 年商1億
掲載日:2026/11/08

「ロザリンド・クレイヴ。妹マリエッタ・クレイヴへの毒殺未遂の罪により、これより刑を執行する」


 冬の広場に、役人の声が響いた。


 わたしは処刑台の上に膝をついていた。十九歳だった。手首を縛った縄が、凍えた皮膚に食いこんでいた。


 広場を埋めた群衆の向こうに、王宮の露台が見えた。王太子クラウス殿下が立っていた。その腕には、白い毛皮にくるまった異母妹のマリエッタが寄り添っていた。


 マリエッタは、ハンカチで目元を押さえていた。泣いているように見えた。ハンカチの陰で、口元だけが笑っていた。


「最後に、言い残すことはあるか」


「……わたしは、やっていません」


「皆、そう言う」


 役人は紙を巻きながら、もうこちらを見ていなかった。


 わたしは、殿下を信じていた。殿下は公正な方だから、最後にはきっと真実に気づいてくださると。


 妹を信じていた。あの子は優しい子だから、これは何かの間違いだと。


 父を信じていた。父は、娘を見捨てたりしないと。


 処刑台の階段の下に、黒い外套の騎士団長が立っていた。ヴィクトル・アッシュ様。わたしを牢から引き立てて、ここまで連れてきた人。


 騎士団長は階段を上がってきて、わたしの前に、一杯の水を差し出した。


「……飲め」


 木の器に、冷たい水が揺れていた。わたしは縛られた両手で器を受け取って、飲んだ。喉が痛いほど冷たかった。


 器を受け取りながら、騎士団長は、わたしにしか聞こえない声で言った。


「すまない」


 嘲っているのだと思った。罪人に水を恵んで、最後に慈悲深い顔をしてみせているのだと。この人は最後まで、わたしを憎んでいるのだと。


 わたしは、全部、信じていた。


 信じたいものを、百パーセント。


 刃の落ちる音が、した。


*


「お嬢様、お目覚めですか。今夜の夜会のドレス、どちらになさいます?」


 目を開けると、天蓋のついた寝台の上だった。


 春の朝の光が、窓から差していた。侍女のベスが、二着のドレスを両腕に掛けて立っていた。若い。まだ髪に白いものが一本もない、三十歳のベス。


 わたしは、自分の首に手を当てた。


 つながっていた。


「……ベス。今日は、何年の、何月何日?」


「まあ、寝ぼけていらっしゃる。王国暦四百十二年、春の三月十日ですよ。王宮の春の夜会の日です。マリエッタお嬢様の、初めての」


 四百十二年。


 わたしが処刑されたのは、四百十四年の冬だった。


 二年前の、十七歳の春。殿下との婚約が決まる、少し前。マリエッタが初めてわたしを陥れた、あの夜会の日の朝だった。


「お嬢様? お顔が真っ青ですよ。お熱でも――」


「いいえ。……夢を見ていたの。少し、怖い夢を」


「まあ。どんな夢です?」


「首を、落とされる夢」


 ベスは、二着のドレスを抱えたまま目を丸くした。それから、ぷっと吹き出した。


「縁起でもない。夜会の前に、悪い夢は全部吐き出しておしまいなさいまし。そうすれば、正夢になりませんから」


 ベスが笑いながら部屋を出ていった。わたしは寝台の上で膝を抱えて、長いあいだ動けなかった。


 ふと、子どものころに母から聞いたおとぎ話を思い出した。


 ――王宮の宝物庫のいちばん奥にはね、逆さまにすると時が巻き戻る砂時計があるのよ。でも、それをひっくり返した人は、自分の命の砂で代金を払わなくてはならないの。


 ただのおとぎ話だと思っていた。


*


 わたしは寝台を下りて、机の引き出しから、まだ何も書いていない革表紙の手帳を出した。


 一度目の人生で、わたしが死んだのは、信じたからだ。


 信じたいものを、何の証拠もなしに、百パーセント信じたからだ。


 だから今度は、信じていることを、全部、数字にしてみることにした。どれくらい確かなのか。どれくらい、ただそう思いたいだけなのか。


 わたしはペンを取って、一ページ目に書いた。


『殿下は、わたしを愛している』


 少し考えてから、その横に書き足した。


『一度目の確信度:百%』


 その下に、もう一行。


『今の確信度:三十%』


 露台の上で、殿下はマリエッタの肩を抱いていた。それでも、ゼロにはできなかった。二年間、婚約者だった人だ。まだどこかで、信じたいと思っている自分がいる。


 だから、三十。


 信じたい気持ちと、本当のことは、別だ。数字にすると、それがよく分かった。


 わたしは、次々に書いていった。


『マリエッタは、優しい妹だ』 一度目:百%。今:十五%。


 ハンカチの陰で笑っていた口元を、わたしは見た。けれど、見間違いだった可能性も、ほんの少しだけ残しておく。


『父は、わたしを愛している』 一度目:七十%。今:二十%。


 父は、処刑の日まで、一度も牢へ面会に来なかった。


『騎士団長は、わたしを憎んでいる』


 ペンが止まった。


 牢から引き立てられたとき、騎士団長の手は、わたしの腕を掴んでいた。乱暴ではなかった。むしろ、凍えて足のもつれるわたしが転ばないように、支えていた気がする。


 処刑台の前で、水をくれた。すまない、と言った。


 嘲りだと思った。でも、嘲るつもりの人が、わざわざ冷たい水を汲んでくるだろうか。


『騎士団長は、わたしを憎んでいる』 一度目:九十五%。今:六十%。


 書き終えて、手帳を眺めた。


 数字は、全部、下がっていた。一度目の人生のわたしは、何もかもを信じすぎていたのだ。


*


「ベス。今夜の夜会のことなのだけれど」


 髪を結いに戻ってきたベスに、わたしは鏡越しに言った。


「はい、お嬢様」


「マリエッタが、わたしの杯を欲しがったら――」


 そこまで言ったとき、左の手首が、ちりっと熱くなった。


 思わず袖をめくった。手首の内側に、薄い金色の線で描かれた、指の先ほどの砂時計が浮かんでいた。その中に、細かな砂が詰まっている。上の器から、ひと粒の砂が、さらりと下へ落ちた。


「お嬢様? マリエッタお嬢様が、どうかなさいました?」


 ベスは、わたしの手首を見ても、何も言わなかった。見えていないのだ。


「……いいえ。言い直すわね。今夜、マリエッタが倒れる――」


 また、手首が熱くなった。砂が、ひと粒落ちた。


 わたしは、口を閉じた。


 未来のことを話そうとすると、砂が落ちる。


 この砂が尽きたらどうなるのか。おとぎ話の続きを、わたしは覚えていた。命の砂で、代金を払う。


「お嬢様、本当にお加減が悪いのでは」


「大丈夫よ。……ねえ、ベス。一つだけ、聞いてもいい?」


「何なりと」


「もし、わたしが恐ろしい罪を犯したと、みんなが言ったら。殿下も、お父様も、宮廷じゅうが言ったら。あなたは、どうする?」


 ベスは、櫛を持つ手を止めた。


「お嬢様がそんなことなさるはず、ありません」


「みんなが言っても?」


「みんなが言っても、です」


 ベスは、また櫛を動かし始めた。何でもないことのように。


「わたしは、お嬢様が窓辺の蜘蛛一匹つぶせずに、手紙の上に乗せて庭へ逃がしているのを、十年見てまいりました。宮廷の偉い方々は、それをご覧になっていないでしょう。わたしは見ています。それだけのことです」


 鏡の中で、わたしの顔が、くしゃりと歪んだ。


 思い出したのだ。一度目の人生で、わたしが牢に入れられたとき。ベスは毎朝、牢の格子の前まで黒パンを届けに来てくれた。裁きの場でも「お嬢様はそんな方ではありません」と言い張った。そして、屋敷を追い出された。


 わたしは、それを気にも留めていなかった。殿下が助けに来てくださることばかり、待っていたから。


 ベスが部屋を出ていってから、わたしは手帳を開いて、新しい一行を書いた。


『ベスは、わたしの味方だ』 一度目:五十%。今:九十五%。


 数字は、下がるばかりではなかった。


 信じすぎていた人がいた。そして、信じなさすぎていた人もいたのだ。


*


「お姉様、おはようございます!」


 朝食の席で、マリエッタが金色の巻き毛を揺らして、天使のような笑顔を向けた。十六歳。一度目の人生と、寸分違わぬ笑顔だった。


「今夜、楽しみですね。でもわたし、ひとりだと心細いの。お姉様、ずっとそばにいてくださる? お姉様、大好き」


「ええ。もちろんよ」


 父が、新聞から目を上げずに言った。


「ロザリンド。今夜はマリエッタの初めての夜会だ。姉なのだから、面倒を見てやりなさい」


「はい、お父様」


 一度目の人生でも、まったく同じ会話をした。わたしは、そのとおりにした。そして、妹の面倒を見ていたせいで、妹の倒れる芝居のいちばん近くにいた。


 わたしは紅茶をひと口飲んでから、試してみることにした。


「今日は午後から、にわか雨が降りますわ」


 手首は、熱くならなかった。


 継母が、窓の外の青空を見て、くすりと笑った。


「まあ、こんなに晴れているのに」


 一度目の人生で、この日の午後は、確かに一刻ほど雨が降った。それは、わたしが何をしても、しなくても、変わらないことだ。


 わたしは、もう一つ試した。


「お父様。今夜、マリエッタを夜会に連れていくのは、おやめになったほうが――」


 手首が熱くなった。砂が、ひと粒落ちた。


「何を言う。マリエッタの晴れの日だぞ」


 父が眉をひそめた。マリエッタが目を潤ませて、わたしを見た。


「お姉様……わたしが一緒だと、お嫌なの?」


「いいえ、冗談よ。ごめんなさいね」


 わたしは微笑んで、手首を膝の下に隠した。


 部屋に戻って、手帳に書いた。


『未来のことを話すと、砂が落ちる』 確信度:三十%。


『未来を変えようとする言葉にだけ、砂が落ちる』 確信度:七十%。


 午後になって、空が急に暗くなった。窓を叩く雨を眺めながら、わたしは二行目の数字を、七十から八十五に書き換えた。


 言えないのなら、仕方がない。


 言わずに、自分で確かめて、自分の手で動くしかない。


*


 王宮の春の夜会は、一度目とまったく同じだった。


 同じ楽団の同じ曲、同じ燭台、同じ香水の匂い。同じ顔ぶれの貴族たちが、同じ冗談に同じように笑っている。


 ただ一つ違うのは、ドレスの隠しに、小さく折りたたんだ手帳が入っていることだった。


「ロザリンド嬢。今夜も隙がないな」


 王太子クラウス殿下が、型どおりの挨拶に来た。金の髪、整った顔立ち。二十歳。一度目の人生で、わたしはこの人の言葉の一つ一つに、胸を高鳴らせていた。


「お褒めにあずかり光栄ですわ、殿下」


「マリエッタ嬢は、今夜が初めてだそうだな。さぞ心細いだろう。姉として、よく気にかけてやってくれ」


「殿下は、お優しいのですね」


「優しいのではない。私は、誰に対しても公正なだけだ」


 殿下はそう言って、広間の向こうへ歩いていった。そして、マリエッタと話し始めた。


 一度目の人生では、気にも留めなかった。殿下は誰にでもお優しいのだと思っていた。


 今は、見えた。


 殿下は、マリエッタと話すときだけ、少し身をかがめる。マリエッタが笑うと、殿下も笑う。わたしと話していたときには、一度も見せなかった顔だった。


 頭の中の手帳で、わたしは数字を書き換えた。


 殿下は、わたしを愛している。三十%から、十%へ。


 胸が、少しだけ痛んだ。それでも、数字は正直だった。


*


「今夜は、葡萄酒を飲まないほうがいい」


 テラスへ続く扉の陰で、低い声がした。


 振り向くと、騎士団長が立っていた。黒い礼装の騎士服に、短く刈った灰色がかった髪。二十五歳。平民の出で、剣の腕だけで騎士団長になった人だと聞いている。一度目の人生で、わたしはこの人と、ほとんど言葉を交わしたことがなかった。最後の「すまない」を除いて。


「……今、何とおっしゃいました?」


 騎士団長は、答えなかった。


 代わりに、ほんのわずかに顔をしかめて、手袋をはめた左の手首を、右手で押さえた。


 わたしは、息をのんだ。


 その仕草を、わたしは今朝、鏡の前で、自分でしていた。


「騎士団長様。どなたのご命令で、そのようなことを?」


「……誰の命令でもありません」


「では、なぜ」


 騎士団長は何か言いかけて、唇を結んだ。それから、短く頭を下げた。


「失礼いたします」


 黒い背中が、広間の人混みの中へ消えていった。


 葡萄酒を飲まないほうがいい。


 一度目の人生で、この夜、何が起きたかを、わたしは知っている。マリエッタが、わたしの手から葡萄酒の杯を受け取って、ひと口飲んで、唇を青くして倒れたのだ。「お姉様の杯を飲んだら、急に胸が」と言って。


 医師は、毒を見つけられなかった。それでも、噂だけは残った。クレイヴ家の姉は、妹に何かを盛ったらしい、と。


 あれが、すべての始まりだった。二年後の処刑台まで、一本の道でつながっている。


 なぜ、騎士団長がそれを知っているのだろう。


 わたしは、頭の中の手帳に新しい一行を書いた。


『騎士団長は、未来を知っている』 確信度:四十%。


 手首を押さえる仕草は、ただの癖かもしれない。偶然の可能性を、まだ消してはいけない。


 それでも、わたしは給仕から受け取った葡萄酒の杯を、その夜、一度も口に運ばなかった。


*


「お姉様!」


 夜会が半ばを過ぎたころ、マリエッタが駆け寄ってきた。


「喉が渇いちゃった。その葡萄酒、少しだけ分けてくださらない?」


 わたしの手には、口をつけないまま持っていた、赤い葡萄酒の杯があった。


 一度目の人生で、わたしは、この杯を妹に渡した。何も考えずに。だって、妹は優しい子だったから。


 わたしは、杯へ伸ばされたマリエッタの手を見た。


 白い指に、小さな銀の指輪がはまっていた。花の形の、可愛らしい指輪。その花の真ん中に、爪の先ほどの、小さな蓋がついている。


 一度目の人生では、気づかなかった。気づこうとしなかった。


 マリエッタは、優しい妹だ。十五%から、五%へ。


「ごめんなさい、マリエッタ」


 わたしは、にっこりと微笑んだ。


「この杯は、もうぬるくなってしまったわ。新しいのを取ってあげる」


 マリエッタの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。


「え……で、でも、わたし、お姉様のがいいの。お姉様と同じ杯で飲みたいの」


「まあ、甘えん坊ね。でも、お行儀が悪いわ。ほら、殿下が見ていらっしゃるわよ」


 わたしは通りかかった給仕を呼び止めて、銀の盆から新しい杯を取り、マリエッタの手に持たせた。


「はい、どうぞ。今、皆様の前で、新しい瓶から注がれたばかりの杯よ」


 それから、自分の杯を近くのテーブルに置いて、三歩、離れた。


 マリエッタは、新しい杯を持ったまま、しばらく突っ立っていた。


*


 マリエッタは、周りを見回した。


 殿下が、こちらを見ていた。近くの貴族たちも、何人かこちらを見ていた。


 妹の頭の中で、決めてきた筋書きが回っているのが、わたしには分かった。ここで倒れるはずだったのだ。お姉様の杯を飲んで、胸を押さえて。


 マリエッタの右手が、杯の縁を覆うように動いた。指輪の蓋が、かちりと小さく鳴った気がした。


 マリエッタは、杯をひと口飲んだ。


 それから、胸を押さえて、よろめいた。


「あ……お姉様……胸が……」


 唇が、みるみる青くなった。マリエッタは、わたしのほうへ倒れかかるように、膝をついた。


 広間が、ざわめいた。殿下が駆け寄ってきた。


「マリエッタ嬢! どうした!」


「お、お姉様の……杯を……」


「わたくしの杯でしたら、こちらに」


 わたしはテーブルの上の杯を手に取って、殿下に見せた。


「まだ、ひと口も減っておりませんわ」


 殿下は、なみなみと葡萄酒の残ったわたしの杯を見た。それから、マリエッタの手の中の杯を見た。


 沈黙が落ちた。


「……マリエッタ嬢が飲まれたのは、給仕の杯だったようだが」


 近くにいた年配の伯爵が、ぽつりと言った。


「ええ。ロザリンド嬢は、杯を渡しておられませんでしたわ。わたくし、ここで見ておりましたもの」


 伯爵夫人が、扇の陰で言った。


「新しい瓶から注いだ杯だと、姉君がおっしゃっていたな」


「では、なぜ姉君の名を……?」


 ひそひそと、声が広がっていった。


 マリエッタの青い唇が震えた。頬が真っ赤になって、それから真っ青になった。


「あ、あの……わたし、その、急に立ちくらみが……」


「医師を呼べ」


 低い声が、広間を割った。騎士団長だった。騎士たちが人垣を下がらせ、宮廷医師が呼ばれた。


 医師はマリエッタの脈をとり、杯の匂いを嗅ぎ、首をひねった。


「……毒の兆候は、ございませんな。お若い方が、夜会の熱気にあてられたのでしょう」


 殿下は、戸惑ったような顔で、わたしとマリエッタを見比べていた。


「ロザリンド嬢。……きみは、何か知っているのか」


「いいえ、殿下。わたくし、何も存じませんわ」


 わたしは膝を折って、礼をした。


「妹は、少しはしゃぎすぎたのでしょう。夜会は初めてですもの。どうか、休ませてあげてくださいませ」


 騎士たちに支えられて広間を出ていくマリエッタの背中を、殿下はしばらく黙って見送っていた。その眉のあいだに、一度目の人生では一度も見なかった、小さな皺が寄っていた。


 殿下の頭の中の数字も、ほんの少しだけ、動いたのかもしれない。


 わたしは、マリエッタの右手を見ていた。


 花の指輪の蓋が、わずかに開いていた。白い指先に、ほんの少しだけ、青い粉がついていた。


 一度目の人生で、この夜、宮廷に広まったのは、姉が妹に何かを盛ったという噂だった。


 二度目の人生で、この夜、宮廷に広まったのは、妹が給仕の葡萄酒で勝手に倒れて、なぜか姉の名前を口にしたという噂だった。


*


 夜会を抜けて、わたしは王宮の庭へ出た。


 薔薇の生垣の向こう、噴水のそばに、黒い騎士服の背中があった。月を見上げていた。


「騎士団長様」


 騎士団長は、ゆっくりと振り向いた。


「……ロザリンド嬢」


「葡萄酒のこと、ありがとうございました」


「私は、何もしていません」


「いいえ。あなたが教えてくださらなければ、わたし、今夜もあの杯を、何も考えずに渡していたと思います」


 今夜も、と言ったわたしの言葉に、騎士団長の肩がかすかに動いた。


 わたしは、一歩近づいた。


「手袋を、外していただけますか」


 騎士団長の目が、わずかに見開かれた。


「……なぜ」


「確かめたいのです。わたし、今度の人生では、確かめたことしか信じないと決めたので」


 長い沈黙のあとで、騎士団長は、黙って左手の手袋を外した。


 月明かりの下で、その手首の内側に、金色の線で描かれた小さな砂時計が浮かんでいた。


 わたしのものと、同じ印だった。


 けれど、中の砂は、まるで違った。わたしの砂時計の上の器には、まだたっぷりと砂が残っている。騎士団長の砂時計は、上の器の底に、ほんのひとつまみほどの砂が、しがみついているだけだった。


*


 息が、止まりそうになった。


「あなたも……戻って、きたのですね」


 騎士団長は、答えなかった。


 答えられないのではない、と分かった。わたしたちが戻ってきたことは、もう起きてしまったことだ。答えても、砂は落ちない。それでも、この人は黙っていた。


 答えれば、わたしが、その砂の少なさの理由に気づいてしまうから。


 ――逆さまにすると時が巻き戻る砂時計。ひっくり返した人は、自分の命の砂で代金を払う。


「宝物庫の砂時計を、ひっくり返したのは、あなたですね」


 騎士団長は、目をそらした。それが、答えだった。


 わたしの砂は、たっぷりある。この人の砂は、ほとんどない。


 この人は、自分の命の残りのほとんどを差し出して、わたしを、ここへ連れて戻ったのだ。


「……どうして」


 声が、震えた。


「一度目の人生で、あなたは、わたしを憎んでいたのではなかったのですか」


 騎士団長は、わたしを見た。それから、ゆっくりと首を横に振った。


「処刑台の前で、水をくださいましたね」


「……ああ」


「すまない、とおっしゃいました。わたし、嘲られたのだと思っていました。ずっと」


 騎士団長の喉が、動いた。


「救えなかった」


 低い、かすれた声だった。砂は、落ちなかった。


「証拠は、見つけた。殿下に出した。宮廷にも出した。誰も、見なかった。殿下は、妹君の涙のほうを信じた。私は、君を処刑台へ連れていく役を命じられた。それが、逆らった罰だった」


 騎士団長は、外した手袋を握りしめた。


「それでも、もっと何かできたはずだった。それが、私の義務だった。……だから、今度は。妹君は、来年の秋に、王都の薬師の――」


 騎士団長の左手首が、ぴくりと跳ねた。


 月明かりの中で、わたしは見た。ほとんど空っぽの上の器から、ひと粒の砂が、こぼれ落ちるのを。


「やめてください!」


 わたしは思わず、騎士団長の手首を両手で掴んでいた。冷たい手だった。


「もう、何も言わないでください」


「しかし、君は――」


「わたし、一度目の人生で、人の言葉を信じすぎて死にました。殿下の言葉も、妹の言葉も、お父様の言葉も。だから今度は、自分の目で確かめたことしか信じません」


 わたしは、彼の手首の砂時計を、指でそっと覆った。


「あなたが教えてくださらなくても、わたしは、自分で確かめにいきます。だから、この砂を、わたしのために一粒も使わないで」


*


 騎士団長は、しばらく黙って、わたしを見下ろしていた。


「……確かめる、と言ったな」


「はい」


 わたしは、ドレスの隠しから小さく折りたたんだ手帳を取り出して、開いてみせた。


「信じていることに、全部、数字をつけることにしたのです。確信度、と呼んでいます。証拠を見たら、数字を変えるのです。たとえば、これ」


 『殿下は、わたしを愛している』の横に並んだ、百、三十、十の数字を指さした。


「……下がっているな」


「今夜、また下がりました。それから、これ」


 『ベスは、わたしの味方だ』。五十、九十五。


「上がるものも、あるのです。一度目の人生のわたしは、信じすぎていただけではありませんでした。信じなさすぎていた人も、いたのです」


 騎士団長の目が、手帳の、次の行で止まった。


『騎士団長は、わたしを憎んでいる』 一度目:九十五%。今:六十%。


 わたしは慌てて手帳を閉じようとした。騎士団長の指が、その手を、そっと止めた。


 月明かりの下で、その口の端が、ほんの少しだけ動いた。


 笑ったのだ、と分かった。一度目の人生で、一度も見たことのない顔だった。


「……君らしい」


「笑いごとではありません」


「ヴィクトルでいい」


「……え?」


「名前で。騎士団長様は、長い」


 過去でも、未来でもない言葉だった。砂は、落ちなかった。


*


 その夜、屋敷に戻って、わたしは手帳を開いた。


 今朝書いた数字の横に、今夜の数字を書き足していく。


『殿下は、わたしを愛している』 今夜:三%。


『マリエッタは、優しい妹だ』 今夜:二%。花の指輪の蓋。青い粉。


『父は、わたしを愛している』 今夜:二十%。保留。


『ベスは、わたしの味方だ』 今夜:九十八%。


 それから、あの一行。


『騎士団長は、わたしを憎んでいる』


 今朝書いた「六十%」に線を引いて、その横に書いた。


 ――今夜:一%。


 ゼロにしなかったのは、意地悪ではない。証拠は、まだ一晩分しかない。地図は、一晩では描き終わらない。


 その下に、新しい行を書いた。


『マリエッタの指輪には、何かが入っている』 確信度:七十%。


『ヴィクトル様は、わたしを助けるために、時を巻き戻した』


 ペンを持つ手が、少し震えた。


 ――確信度:八十五%。


 残りの十五は、まだ本人の口から聞いていない分だ。


 左の手首の砂時計を、灯りにかざした。わたしの砂は、まだたっぷりとある。あの人の砂は、指でつまめるほどしかない。


 今夜、あの人はわたしのために、二粒を払った。


 あと何粒、残っているのだろう。


 わたしは、手帳のいちばん最後のページを開いた。真っ白なページだった。いつか、ここに書く一行がある気がした。それが何なのかは、まだ分からない。


 二度目の人生では、確信度は、証拠で決める。


 ――そして、できることなら、もう少しだけ、あの人の数字を上げてみたい。


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