「すまない」と処刑台で言った騎士団長の砂時計が、ほとんど空っぽだったので処刑された令嬢は、二度目の人生で"確信度"をつけることにしました
「ロザリンド・クレイヴ。妹マリエッタ・クレイヴへの毒殺未遂の罪により、これより刑を執行する」
冬の広場に、役人の声が響いた。
わたしは処刑台の上に膝をついていた。十九歳だった。手首を縛った縄が、凍えた皮膚に食いこんでいた。
広場を埋めた群衆の向こうに、王宮の露台が見えた。王太子クラウス殿下が立っていた。その腕には、白い毛皮にくるまった異母妹のマリエッタが寄り添っていた。
マリエッタは、ハンカチで目元を押さえていた。泣いているように見えた。ハンカチの陰で、口元だけが笑っていた。
「最後に、言い残すことはあるか」
「……わたしは、やっていません」
「皆、そう言う」
役人は紙を巻きながら、もうこちらを見ていなかった。
わたしは、殿下を信じていた。殿下は公正な方だから、最後にはきっと真実に気づいてくださると。
妹を信じていた。あの子は優しい子だから、これは何かの間違いだと。
父を信じていた。父は、娘を見捨てたりしないと。
処刑台の階段の下に、黒い外套の騎士団長が立っていた。ヴィクトル・アッシュ様。わたしを牢から引き立てて、ここまで連れてきた人。
騎士団長は階段を上がってきて、わたしの前に、一杯の水を差し出した。
「……飲め」
木の器に、冷たい水が揺れていた。わたしは縛られた両手で器を受け取って、飲んだ。喉が痛いほど冷たかった。
器を受け取りながら、騎士団長は、わたしにしか聞こえない声で言った。
「すまない」
嘲っているのだと思った。罪人に水を恵んで、最後に慈悲深い顔をしてみせているのだと。この人は最後まで、わたしを憎んでいるのだと。
わたしは、全部、信じていた。
信じたいものを、百パーセント。
刃の落ちる音が、した。
*
「お嬢様、お目覚めですか。今夜の夜会のドレス、どちらになさいます?」
目を開けると、天蓋のついた寝台の上だった。
春の朝の光が、窓から差していた。侍女のベスが、二着のドレスを両腕に掛けて立っていた。若い。まだ髪に白いものが一本もない、三十歳のベス。
わたしは、自分の首に手を当てた。
つながっていた。
「……ベス。今日は、何年の、何月何日?」
「まあ、寝ぼけていらっしゃる。王国暦四百十二年、春の三月十日ですよ。王宮の春の夜会の日です。マリエッタお嬢様の、初めての」
四百十二年。
わたしが処刑されたのは、四百十四年の冬だった。
二年前の、十七歳の春。殿下との婚約が決まる、少し前。マリエッタが初めてわたしを陥れた、あの夜会の日の朝だった。
「お嬢様? お顔が真っ青ですよ。お熱でも――」
「いいえ。……夢を見ていたの。少し、怖い夢を」
「まあ。どんな夢です?」
「首を、落とされる夢」
ベスは、二着のドレスを抱えたまま目を丸くした。それから、ぷっと吹き出した。
「縁起でもない。夜会の前に、悪い夢は全部吐き出しておしまいなさいまし。そうすれば、正夢になりませんから」
ベスが笑いながら部屋を出ていった。わたしは寝台の上で膝を抱えて、長いあいだ動けなかった。
ふと、子どものころに母から聞いたおとぎ話を思い出した。
――王宮の宝物庫のいちばん奥にはね、逆さまにすると時が巻き戻る砂時計があるのよ。でも、それをひっくり返した人は、自分の命の砂で代金を払わなくてはならないの。
ただのおとぎ話だと思っていた。
*
わたしは寝台を下りて、机の引き出しから、まだ何も書いていない革表紙の手帳を出した。
一度目の人生で、わたしが死んだのは、信じたからだ。
信じたいものを、何の証拠もなしに、百パーセント信じたからだ。
だから今度は、信じていることを、全部、数字にしてみることにした。どれくらい確かなのか。どれくらい、ただそう思いたいだけなのか。
わたしはペンを取って、一ページ目に書いた。
『殿下は、わたしを愛している』
少し考えてから、その横に書き足した。
『一度目の確信度:百%』
その下に、もう一行。
『今の確信度:三十%』
露台の上で、殿下はマリエッタの肩を抱いていた。それでも、ゼロにはできなかった。二年間、婚約者だった人だ。まだどこかで、信じたいと思っている自分がいる。
だから、三十。
信じたい気持ちと、本当のことは、別だ。数字にすると、それがよく分かった。
わたしは、次々に書いていった。
『マリエッタは、優しい妹だ』 一度目:百%。今:十五%。
ハンカチの陰で笑っていた口元を、わたしは見た。けれど、見間違いだった可能性も、ほんの少しだけ残しておく。
『父は、わたしを愛している』 一度目:七十%。今:二十%。
父は、処刑の日まで、一度も牢へ面会に来なかった。
『騎士団長は、わたしを憎んでいる』
ペンが止まった。
牢から引き立てられたとき、騎士団長の手は、わたしの腕を掴んでいた。乱暴ではなかった。むしろ、凍えて足のもつれるわたしが転ばないように、支えていた気がする。
処刑台の前で、水をくれた。すまない、と言った。
嘲りだと思った。でも、嘲るつもりの人が、わざわざ冷たい水を汲んでくるだろうか。
『騎士団長は、わたしを憎んでいる』 一度目:九十五%。今:六十%。
書き終えて、手帳を眺めた。
数字は、全部、下がっていた。一度目の人生のわたしは、何もかもを信じすぎていたのだ。
*
「ベス。今夜の夜会のことなのだけれど」
髪を結いに戻ってきたベスに、わたしは鏡越しに言った。
「はい、お嬢様」
「マリエッタが、わたしの杯を欲しがったら――」
そこまで言ったとき、左の手首が、ちりっと熱くなった。
思わず袖をめくった。手首の内側に、薄い金色の線で描かれた、指の先ほどの砂時計が浮かんでいた。その中に、細かな砂が詰まっている。上の器から、ひと粒の砂が、さらりと下へ落ちた。
「お嬢様? マリエッタお嬢様が、どうかなさいました?」
ベスは、わたしの手首を見ても、何も言わなかった。見えていないのだ。
「……いいえ。言い直すわね。今夜、マリエッタが倒れる――」
また、手首が熱くなった。砂が、ひと粒落ちた。
わたしは、口を閉じた。
未来のことを話そうとすると、砂が落ちる。
この砂が尽きたらどうなるのか。おとぎ話の続きを、わたしは覚えていた。命の砂で、代金を払う。
「お嬢様、本当にお加減が悪いのでは」
「大丈夫よ。……ねえ、ベス。一つだけ、聞いてもいい?」
「何なりと」
「もし、わたしが恐ろしい罪を犯したと、みんなが言ったら。殿下も、お父様も、宮廷じゅうが言ったら。あなたは、どうする?」
ベスは、櫛を持つ手を止めた。
「お嬢様がそんなことなさるはず、ありません」
「みんなが言っても?」
「みんなが言っても、です」
ベスは、また櫛を動かし始めた。何でもないことのように。
「わたしは、お嬢様が窓辺の蜘蛛一匹つぶせずに、手紙の上に乗せて庭へ逃がしているのを、十年見てまいりました。宮廷の偉い方々は、それをご覧になっていないでしょう。わたしは見ています。それだけのことです」
鏡の中で、わたしの顔が、くしゃりと歪んだ。
思い出したのだ。一度目の人生で、わたしが牢に入れられたとき。ベスは毎朝、牢の格子の前まで黒パンを届けに来てくれた。裁きの場でも「お嬢様はそんな方ではありません」と言い張った。そして、屋敷を追い出された。
わたしは、それを気にも留めていなかった。殿下が助けに来てくださることばかり、待っていたから。
ベスが部屋を出ていってから、わたしは手帳を開いて、新しい一行を書いた。
『ベスは、わたしの味方だ』 一度目:五十%。今:九十五%。
数字は、下がるばかりではなかった。
信じすぎていた人がいた。そして、信じなさすぎていた人もいたのだ。
*
「お姉様、おはようございます!」
朝食の席で、マリエッタが金色の巻き毛を揺らして、天使のような笑顔を向けた。十六歳。一度目の人生と、寸分違わぬ笑顔だった。
「今夜、楽しみですね。でもわたし、ひとりだと心細いの。お姉様、ずっとそばにいてくださる? お姉様、大好き」
「ええ。もちろんよ」
父が、新聞から目を上げずに言った。
「ロザリンド。今夜はマリエッタの初めての夜会だ。姉なのだから、面倒を見てやりなさい」
「はい、お父様」
一度目の人生でも、まったく同じ会話をした。わたしは、そのとおりにした。そして、妹の面倒を見ていたせいで、妹の倒れる芝居のいちばん近くにいた。
わたしは紅茶をひと口飲んでから、試してみることにした。
「今日は午後から、にわか雨が降りますわ」
手首は、熱くならなかった。
継母が、窓の外の青空を見て、くすりと笑った。
「まあ、こんなに晴れているのに」
一度目の人生で、この日の午後は、確かに一刻ほど雨が降った。それは、わたしが何をしても、しなくても、変わらないことだ。
わたしは、もう一つ試した。
「お父様。今夜、マリエッタを夜会に連れていくのは、おやめになったほうが――」
手首が熱くなった。砂が、ひと粒落ちた。
「何を言う。マリエッタの晴れの日だぞ」
父が眉をひそめた。マリエッタが目を潤ませて、わたしを見た。
「お姉様……わたしが一緒だと、お嫌なの?」
「いいえ、冗談よ。ごめんなさいね」
わたしは微笑んで、手首を膝の下に隠した。
部屋に戻って、手帳に書いた。
『未来のことを話すと、砂が落ちる』 確信度:三十%。
『未来を変えようとする言葉にだけ、砂が落ちる』 確信度:七十%。
午後になって、空が急に暗くなった。窓を叩く雨を眺めながら、わたしは二行目の数字を、七十から八十五に書き換えた。
言えないのなら、仕方がない。
言わずに、自分で確かめて、自分の手で動くしかない。
*
王宮の春の夜会は、一度目とまったく同じだった。
同じ楽団の同じ曲、同じ燭台、同じ香水の匂い。同じ顔ぶれの貴族たちが、同じ冗談に同じように笑っている。
ただ一つ違うのは、ドレスの隠しに、小さく折りたたんだ手帳が入っていることだった。
「ロザリンド嬢。今夜も隙がないな」
王太子クラウス殿下が、型どおりの挨拶に来た。金の髪、整った顔立ち。二十歳。一度目の人生で、わたしはこの人の言葉の一つ一つに、胸を高鳴らせていた。
「お褒めにあずかり光栄ですわ、殿下」
「マリエッタ嬢は、今夜が初めてだそうだな。さぞ心細いだろう。姉として、よく気にかけてやってくれ」
「殿下は、お優しいのですね」
「優しいのではない。私は、誰に対しても公正なだけだ」
殿下はそう言って、広間の向こうへ歩いていった。そして、マリエッタと話し始めた。
一度目の人生では、気にも留めなかった。殿下は誰にでもお優しいのだと思っていた。
今は、見えた。
殿下は、マリエッタと話すときだけ、少し身をかがめる。マリエッタが笑うと、殿下も笑う。わたしと話していたときには、一度も見せなかった顔だった。
頭の中の手帳で、わたしは数字を書き換えた。
殿下は、わたしを愛している。三十%から、十%へ。
胸が、少しだけ痛んだ。それでも、数字は正直だった。
*
「今夜は、葡萄酒を飲まないほうがいい」
テラスへ続く扉の陰で、低い声がした。
振り向くと、騎士団長が立っていた。黒い礼装の騎士服に、短く刈った灰色がかった髪。二十五歳。平民の出で、剣の腕だけで騎士団長になった人だと聞いている。一度目の人生で、わたしはこの人と、ほとんど言葉を交わしたことがなかった。最後の「すまない」を除いて。
「……今、何とおっしゃいました?」
騎士団長は、答えなかった。
代わりに、ほんのわずかに顔をしかめて、手袋をはめた左の手首を、右手で押さえた。
わたしは、息をのんだ。
その仕草を、わたしは今朝、鏡の前で、自分でしていた。
「騎士団長様。どなたのご命令で、そのようなことを?」
「……誰の命令でもありません」
「では、なぜ」
騎士団長は何か言いかけて、唇を結んだ。それから、短く頭を下げた。
「失礼いたします」
黒い背中が、広間の人混みの中へ消えていった。
葡萄酒を飲まないほうがいい。
一度目の人生で、この夜、何が起きたかを、わたしは知っている。マリエッタが、わたしの手から葡萄酒の杯を受け取って、ひと口飲んで、唇を青くして倒れたのだ。「お姉様の杯を飲んだら、急に胸が」と言って。
医師は、毒を見つけられなかった。それでも、噂だけは残った。クレイヴ家の姉は、妹に何かを盛ったらしい、と。
あれが、すべての始まりだった。二年後の処刑台まで、一本の道でつながっている。
なぜ、騎士団長がそれを知っているのだろう。
わたしは、頭の中の手帳に新しい一行を書いた。
『騎士団長は、未来を知っている』 確信度:四十%。
手首を押さえる仕草は、ただの癖かもしれない。偶然の可能性を、まだ消してはいけない。
それでも、わたしは給仕から受け取った葡萄酒の杯を、その夜、一度も口に運ばなかった。
*
「お姉様!」
夜会が半ばを過ぎたころ、マリエッタが駆け寄ってきた。
「喉が渇いちゃった。その葡萄酒、少しだけ分けてくださらない?」
わたしの手には、口をつけないまま持っていた、赤い葡萄酒の杯があった。
一度目の人生で、わたしは、この杯を妹に渡した。何も考えずに。だって、妹は優しい子だったから。
わたしは、杯へ伸ばされたマリエッタの手を見た。
白い指に、小さな銀の指輪がはまっていた。花の形の、可愛らしい指輪。その花の真ん中に、爪の先ほどの、小さな蓋がついている。
一度目の人生では、気づかなかった。気づこうとしなかった。
マリエッタは、優しい妹だ。十五%から、五%へ。
「ごめんなさい、マリエッタ」
わたしは、にっこりと微笑んだ。
「この杯は、もうぬるくなってしまったわ。新しいのを取ってあげる」
マリエッタの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
「え……で、でも、わたし、お姉様のがいいの。お姉様と同じ杯で飲みたいの」
「まあ、甘えん坊ね。でも、お行儀が悪いわ。ほら、殿下が見ていらっしゃるわよ」
わたしは通りかかった給仕を呼び止めて、銀の盆から新しい杯を取り、マリエッタの手に持たせた。
「はい、どうぞ。今、皆様の前で、新しい瓶から注がれたばかりの杯よ」
それから、自分の杯を近くのテーブルに置いて、三歩、離れた。
マリエッタは、新しい杯を持ったまま、しばらく突っ立っていた。
*
マリエッタは、周りを見回した。
殿下が、こちらを見ていた。近くの貴族たちも、何人かこちらを見ていた。
妹の頭の中で、決めてきた筋書きが回っているのが、わたしには分かった。ここで倒れるはずだったのだ。お姉様の杯を飲んで、胸を押さえて。
マリエッタの右手が、杯の縁を覆うように動いた。指輪の蓋が、かちりと小さく鳴った気がした。
マリエッタは、杯をひと口飲んだ。
それから、胸を押さえて、よろめいた。
「あ……お姉様……胸が……」
唇が、みるみる青くなった。マリエッタは、わたしのほうへ倒れかかるように、膝をついた。
広間が、ざわめいた。殿下が駆け寄ってきた。
「マリエッタ嬢! どうした!」
「お、お姉様の……杯を……」
「わたくしの杯でしたら、こちらに」
わたしはテーブルの上の杯を手に取って、殿下に見せた。
「まだ、ひと口も減っておりませんわ」
殿下は、なみなみと葡萄酒の残ったわたしの杯を見た。それから、マリエッタの手の中の杯を見た。
沈黙が落ちた。
「……マリエッタ嬢が飲まれたのは、給仕の杯だったようだが」
近くにいた年配の伯爵が、ぽつりと言った。
「ええ。ロザリンド嬢は、杯を渡しておられませんでしたわ。わたくし、ここで見ておりましたもの」
伯爵夫人が、扇の陰で言った。
「新しい瓶から注いだ杯だと、姉君がおっしゃっていたな」
「では、なぜ姉君の名を……?」
ひそひそと、声が広がっていった。
マリエッタの青い唇が震えた。頬が真っ赤になって、それから真っ青になった。
「あ、あの……わたし、その、急に立ちくらみが……」
「医師を呼べ」
低い声が、広間を割った。騎士団長だった。騎士たちが人垣を下がらせ、宮廷医師が呼ばれた。
医師はマリエッタの脈をとり、杯の匂いを嗅ぎ、首をひねった。
「……毒の兆候は、ございませんな。お若い方が、夜会の熱気にあてられたのでしょう」
殿下は、戸惑ったような顔で、わたしとマリエッタを見比べていた。
「ロザリンド嬢。……きみは、何か知っているのか」
「いいえ、殿下。わたくし、何も存じませんわ」
わたしは膝を折って、礼をした。
「妹は、少しはしゃぎすぎたのでしょう。夜会は初めてですもの。どうか、休ませてあげてくださいませ」
騎士たちに支えられて広間を出ていくマリエッタの背中を、殿下はしばらく黙って見送っていた。その眉のあいだに、一度目の人生では一度も見なかった、小さな皺が寄っていた。
殿下の頭の中の数字も、ほんの少しだけ、動いたのかもしれない。
わたしは、マリエッタの右手を見ていた。
花の指輪の蓋が、わずかに開いていた。白い指先に、ほんの少しだけ、青い粉がついていた。
一度目の人生で、この夜、宮廷に広まったのは、姉が妹に何かを盛ったという噂だった。
二度目の人生で、この夜、宮廷に広まったのは、妹が給仕の葡萄酒で勝手に倒れて、なぜか姉の名前を口にしたという噂だった。
*
夜会を抜けて、わたしは王宮の庭へ出た。
薔薇の生垣の向こう、噴水のそばに、黒い騎士服の背中があった。月を見上げていた。
「騎士団長様」
騎士団長は、ゆっくりと振り向いた。
「……ロザリンド嬢」
「葡萄酒のこと、ありがとうございました」
「私は、何もしていません」
「いいえ。あなたが教えてくださらなければ、わたし、今夜もあの杯を、何も考えずに渡していたと思います」
今夜も、と言ったわたしの言葉に、騎士団長の肩がかすかに動いた。
わたしは、一歩近づいた。
「手袋を、外していただけますか」
騎士団長の目が、わずかに見開かれた。
「……なぜ」
「確かめたいのです。わたし、今度の人生では、確かめたことしか信じないと決めたので」
長い沈黙のあとで、騎士団長は、黙って左手の手袋を外した。
月明かりの下で、その手首の内側に、金色の線で描かれた小さな砂時計が浮かんでいた。
わたしのものと、同じ印だった。
けれど、中の砂は、まるで違った。わたしの砂時計の上の器には、まだたっぷりと砂が残っている。騎士団長の砂時計は、上の器の底に、ほんのひとつまみほどの砂が、しがみついているだけだった。
*
息が、止まりそうになった。
「あなたも……戻って、きたのですね」
騎士団長は、答えなかった。
答えられないのではない、と分かった。わたしたちが戻ってきたことは、もう起きてしまったことだ。答えても、砂は落ちない。それでも、この人は黙っていた。
答えれば、わたしが、その砂の少なさの理由に気づいてしまうから。
――逆さまにすると時が巻き戻る砂時計。ひっくり返した人は、自分の命の砂で代金を払う。
「宝物庫の砂時計を、ひっくり返したのは、あなたですね」
騎士団長は、目をそらした。それが、答えだった。
わたしの砂は、たっぷりある。この人の砂は、ほとんどない。
この人は、自分の命の残りのほとんどを差し出して、わたしを、ここへ連れて戻ったのだ。
「……どうして」
声が、震えた。
「一度目の人生で、あなたは、わたしを憎んでいたのではなかったのですか」
騎士団長は、わたしを見た。それから、ゆっくりと首を横に振った。
「処刑台の前で、水をくださいましたね」
「……ああ」
「すまない、とおっしゃいました。わたし、嘲られたのだと思っていました。ずっと」
騎士団長の喉が、動いた。
「救えなかった」
低い、かすれた声だった。砂は、落ちなかった。
「証拠は、見つけた。殿下に出した。宮廷にも出した。誰も、見なかった。殿下は、妹君の涙のほうを信じた。私は、君を処刑台へ連れていく役を命じられた。それが、逆らった罰だった」
騎士団長は、外した手袋を握りしめた。
「それでも、もっと何かできたはずだった。それが、私の義務だった。……だから、今度は。妹君は、来年の秋に、王都の薬師の――」
騎士団長の左手首が、ぴくりと跳ねた。
月明かりの中で、わたしは見た。ほとんど空っぽの上の器から、ひと粒の砂が、こぼれ落ちるのを。
「やめてください!」
わたしは思わず、騎士団長の手首を両手で掴んでいた。冷たい手だった。
「もう、何も言わないでください」
「しかし、君は――」
「わたし、一度目の人生で、人の言葉を信じすぎて死にました。殿下の言葉も、妹の言葉も、お父様の言葉も。だから今度は、自分の目で確かめたことしか信じません」
わたしは、彼の手首の砂時計を、指でそっと覆った。
「あなたが教えてくださらなくても、わたしは、自分で確かめにいきます。だから、この砂を、わたしのために一粒も使わないで」
*
騎士団長は、しばらく黙って、わたしを見下ろしていた。
「……確かめる、と言ったな」
「はい」
わたしは、ドレスの隠しから小さく折りたたんだ手帳を取り出して、開いてみせた。
「信じていることに、全部、数字をつけることにしたのです。確信度、と呼んでいます。証拠を見たら、数字を変えるのです。たとえば、これ」
『殿下は、わたしを愛している』の横に並んだ、百、三十、十の数字を指さした。
「……下がっているな」
「今夜、また下がりました。それから、これ」
『ベスは、わたしの味方だ』。五十、九十五。
「上がるものも、あるのです。一度目の人生のわたしは、信じすぎていただけではありませんでした。信じなさすぎていた人も、いたのです」
騎士団長の目が、手帳の、次の行で止まった。
『騎士団長は、わたしを憎んでいる』 一度目:九十五%。今:六十%。
わたしは慌てて手帳を閉じようとした。騎士団長の指が、その手を、そっと止めた。
月明かりの下で、その口の端が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのだ、と分かった。一度目の人生で、一度も見たことのない顔だった。
「……君らしい」
「笑いごとではありません」
「ヴィクトルでいい」
「……え?」
「名前で。騎士団長様は、長い」
過去でも、未来でもない言葉だった。砂は、落ちなかった。
*
その夜、屋敷に戻って、わたしは手帳を開いた。
今朝書いた数字の横に、今夜の数字を書き足していく。
『殿下は、わたしを愛している』 今夜:三%。
『マリエッタは、優しい妹だ』 今夜:二%。花の指輪の蓋。青い粉。
『父は、わたしを愛している』 今夜:二十%。保留。
『ベスは、わたしの味方だ』 今夜:九十八%。
それから、あの一行。
『騎士団長は、わたしを憎んでいる』
今朝書いた「六十%」に線を引いて、その横に書いた。
――今夜:一%。
ゼロにしなかったのは、意地悪ではない。証拠は、まだ一晩分しかない。地図は、一晩では描き終わらない。
その下に、新しい行を書いた。
『マリエッタの指輪には、何かが入っている』 確信度:七十%。
『ヴィクトル様は、わたしを助けるために、時を巻き戻した』
ペンを持つ手が、少し震えた。
――確信度:八十五%。
残りの十五は、まだ本人の口から聞いていない分だ。
左の手首の砂時計を、灯りにかざした。わたしの砂は、まだたっぷりとある。あの人の砂は、指でつまめるほどしかない。
今夜、あの人はわたしのために、二粒を払った。
あと何粒、残っているのだろう。
わたしは、手帳のいちばん最後のページを開いた。真っ白なページだった。いつか、ここに書く一行がある気がした。それが何なのかは、まだ分からない。
二度目の人生では、確信度は、証拠で決める。
――そして、できることなら、もう少しだけ、あの人の数字を上げてみたい。




