定時ぴったりだね ~時司の愚痴日誌
仕事が終われば、帰る。
それは契約に書かれるまでもない、労働の前提だ。
けれど、その当たり前は職場という空間に入った途端、どこか違う意味を持ち始める。
「おっ、定時ぴったりだね」
「はい、本日の業務は終わりましたので。お先に失礼します」
「そうか・・・で、帰るのか?」
「他に対応すべき業務があるようでしたら、」
「・・・いや、特には」
言葉はあくまで穏やかで、形も整っている。だが、その実態は確認ではない。帰る理由ではなく、帰る事そのものを問い質す、静かな牽制だ。
受け流す事は難しくない。笑ってしまえば摩擦は生まれない。ただし、その笑いの処理を担うのは、いつもこちら側だけである。
更に奇妙なのは、その後に続く労働時間である。三十分程度の残業はなかった事にされる。暗黙の了解という便利な言葉で。
記録されず、当然、対価も発生しない。
そこにあったはずの時間だけが、静かに切り取られていく。労働は確かに行われているのに、その一部だけが都合よく蒸発する。
では、その残業時間を含め、全ての時間が全て生産的かといえば、必ずしもそうではない。
パソコンに向かい続ける人の隣で、笑い声と雑談が緩やかに広がっていく。同じ空間にいながら、並行して別の時間が流れている。
「ちょっと見てよ」
「うちの猫がさ、昨日これでさ」
「可愛いわね」
「それで、うちの孫がね・・・」
差し出されたスマートフォンの中で、猫が無邪気に転がる。
それを囲む笑い声は、たしかに場を和ませる。
円滑なコミュニケーションのため・・・そう説明されれば、確かに否定はしにくい。だが、その潤滑油に頼らなければ回らない仕組みそのものに、問題はないのだろうか。
更に言えば、そのコミュニケーションが生むのは円滑さだけではない。自然に輪に入れる人と、そうでない人。その差は静かに積み重なり、やがて見えにくい隔たりになっていく。
もし、その時間をほんの少しだけ手放せば、残業というものは案外あっさり消えるのではないか・・・そんな気もしてしまう。
どこか、タバコ休憩をめぐる議論と似た匂いがする。
許される雑談と、切り捨てられる時間。その線引きは、いつも曖昧なままだ。
帰るべき時間に帰る事は、いまだに小さな決断を要する。
そこにいるだけでは評価にはならない。だが、いるだけで仕事をしている事にはされる。
効率が語られる時代に、時間だけが置き去りにされている。
そんな皮肉を横目に今日も私は席を立つ。
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