「沈黙の壕に封じられた罪」
沖縄の地面は、静かに語る。潮の匂いとサトウキビの葉擦れの下で、八十年前の声がまだ眠っている。けれど私たちは、その声を「過去」と呼び、都合よく土で覆い、白い壁と観光の灯りで塗り替えてきた。遺骨収集は祈りの行為であるはずなのに、いつの間にか数字と書類と補助金に変換され、骨が“管理”され、“在庫”と呼ばれる瞬間が生まれてしまう。これは、そうした現代の歪みが、戦争の記憶と結びついて再び人を殺す物語だ。主人公の久高湊は、人の感情が色として見える。便利な能力ではなく、逃げられない呪いとして。彼が見る灰色や黄土色の向こうには、誰かの嘘と利己、そして見捨てられた声がある。比嘉渚の碧は、それらを濁らせない祈りの色だ。二人が降りていくのは、洞窟の闇だけではない。沈黙で封じられた構造そのものだ。もし読後に、足元の土が少しだけ重く感じられたなら、それは物語があなたの中の「聴く耳」を呼び覚ました証だと思う。さあ、碧い沈黙の扉を開けよう。光を持って。
『碧き沈黙の壕』前編
第一章 色彩の檻
夜明け前の国道五十八号線は、巨大な深海魚の背中のように、ぬらりと黒光りしていた。
亜熱帯特有の重く湿った雨が、タクシーのフロントガラスを執拗に叩き続けている。
ワイパーが往復するたび、滲んだ那覇のネオンサインが、溶け出した油絵の具のように崩れては、また結像した。
運転席の久高湊は、こめかみを指の関節で強く押し、耳の奥で鳴り止まない不快な「ノイズ」を追い払おうとしていた。
——うるさい。
雨音ではない。
タイヤが水を弾く音でもない。
眠りにつかない街、那覇。
そこに漂う無数の人間の情念が、視覚情報に誤変換され、脳髄へ直接流れ込んでくる感覚だ。
三年前、県警捜査一課のエースだった湊は、張り込み中に脳梗塞で倒れた。
生死の境をさまよい、奇跡的に復帰したとき、世界は変質していた。
右半身に残る微かな痺れ。
そして、視野の端にこびりつく「色」。
医者は「脳機能障害による共感覚の一種」だと診断し、死んだ祖母が生きていれば「マブイ(魂)の声を聞くサーダカ(霊感の高い者)の血が目覚めた」と誇っただろう。
だが、湊にとっては、それは呪いでしかなかった。
嘘は「灰色」に。
欲望は「紫」に。
そして殺意は「赤」に見える。
刑事としてこれほど便利な能力はないはずだった。
しかし、人の心の汚泥を直視し続けることは、湊の精神を摩耗させ、やがて彼を組織から弾き出した。
正義感の強い刑事ほど、真実が見えすぎると壊れるのだ。
今の湊は、ただの孤独な個人タクシー運転手だ。
世界から目を背け、ただハンドルを握る。
それだけが、このノイズだらけの世界で正気を保つ唯一の方法だった。
「運転手さん、まだかね」
後部座席から、しわがれた声がした。
湊はバックミラー越しに客を見る。
東恩納ヒサ。
古波蔵の飲み屋街の外れ、路地裏の闇に紛れるように立っていたのを拾った、八十代の老人だ。
季節外れの薄いナイロンパーカーを羽織り、小刻みに震えている。冷房が効きすぎているわけではない。
湊は、思わず息を呑み、革巻きのハンドルを握る手に力を込めた。 老人の身体から、墨汁を垂らしたようなドス黒い「靄」が
立ち上っているのが視えたからだ。
——またか。
その色は、湊が最も忌み嫌う色だった。
圧倒的な「恐怖」。それも、ただ怯えているだけではない。
死を目前にした人間特有の、逃げ場のない絶望が混じった、底なしの黒。
それが車内の空気を侵食し、鉛のように重く淀ませていく。
湊の側頭部で、血管がドクンドクンと脈打つ。
「もうすぐですよ。具志頭の海岸でいいんですね?」 湊は務めて事務的な、感情を削ぎ落とした声を出すようにした。 「……ああ。海だ。海へ行かんと……消される」
「消される?」
聞き流すべきだと理性が告げる。
客の妄言に付き合う義理はない。
だが、元刑事としての習性が、不自然な単語に反応してしまう。 湊は信号待ちの隙に、ミラー越しに老人の目を覗き込んだ。
老人の目は焦点が定まらず、虚空を彷徨っていたが、ふと湊の視線に気づくと、どこか値踏みするような鋭い光を宿した。
「あんた……“視えとる”ね」
その沖縄の方言のイントネーションに、湊の心臓が跳ねた。
「……何のことです」
「隠しても分かるよ。あんたの目は、人の奥底を見ておる。わし
の婆さんもそうだった。サーダカの目だ」
老人は震える手で、胸ポケットから何かを取り出し、強く握りしめた。
使い込まれた、革表紙の古びた手帳のようだった。
指の関節が白くなるほど強く握りしめている。
「数が……合わんのよ。
数が。
本当は、もっと……もっとたくさん……」
うわ言のように繰り返す老人の周囲で、黒い靄がいっそう濃くなり、湊の視界を曇らせる。
湊の肌に、ピリピリとした不快感が走った。
これは、老人の内面から湧き出る恐怖だけではない。
明確な「外的な悪意」が、この老人を追い詰めている気配だ。
見えない糸が、このタクシーの後ろまで伸びてきているような、粘着質な予感。
「お客さん。警察に行きますか? 何かトラブルなら……」
「警察はいかん!」
老人が叫んだ。その拍子に、黒い色が爆発するように視界を覆い、湊は一瞬、前が見えなくなったほどだ。
老人は荒い息をつきながら、呪詛のように吐き捨てた。
「警察も、役所も……みんなグルだ。あの壕を……埋めるために……」
——壕。
沖縄でガマと呼ばれる自然洞窟。
戦時中、住民が避難し、そして多くの命が散った場所。
沖縄の地下には、今も無数のガマが口を開け、過去を飲み込んだまま眠っている。
老人の言葉には、認知症の妄言とは片付けられない、血の匂いのする切迫感があった。
車は南部の海岸線へ出た。
冬の荒れた海が、暗闇の中で白波を立てて吠えている。
風が強まり、車体が小刻みに揺れた。
平和祈念公園を過ぎ、さらに奥へ。街灯もまばらな断崖の近くで、東恩納は車を止めるよう言った。
「ここでいい」
メーターを止め、料金を告げる。
老人は震える手で千円札を数枚、トレイに置いた。
釣りはいらない、と言うような手つきだった。
ドアが開くと、湿った海風が吹き込んできた。
潮の匂いに混じって、どこか腐臭のような、澱んだ水の匂いが鼻をつく。
老人はガードレールの向こう、暗い海を見つめて立っていた。
その背中はあまりに小さく、今にも夜の闇に溶けてしまいそうだった。
湊も慌てて運転席を出た。
「お客さん、こんな所で降りたら危ないですよ。足元も悪い」
老人は振り返った。
その顔には、先ほどまでの怯えとは違う、奇妙なほど穏やかな笑みが浮かんでいた。
死を受け入れた者の、透き通った諦念。
だが、纏っている色は絶望的なまでに黒かった。
「運転手さん」
風に消え入りそうな声。
「あんたのその目なら……見つけられるかもしれん」
「何の話です? 戻りましょう」
「これを、預かってくれんか」
老人は握りしめていた手帳を、湊の方へ放った。
アスファルトの上に落ち、乾いた音を立てる。
「もし、わしが海へ還ったら……それを、海風の里の……比嘉という女に渡してくれ」
「ちょっと待ってください、説明を……」
湊が一歩踏み出した、その時だった。
老人の背後の闇が揺れた気がした。
いや、違う。老人の色が、唐突に「無」になったのだ。
恐怖も、絶望も、生気さえも。
スイッチを切るように、フツリと。
次の瞬間、東恩納の体は、音もなくガードレールの向こう側へと吸い込まれるように消えていた。
「おいっ!」
湊は駆け寄った。
ガードレールを乗り出し、崖下を覗き込む。
岩場に打ち付ける波の音だけが、轟々と響いていた。
黒い海が、老人を飲み込んでいた。
白い波頭が、まるで手招きするように明滅している。
自殺か?
——違う。
湊の「目」は見ていた。
老人が落ちる直前、その背後に、もう一つ別の「色」が一瞬だけ明滅したことを。
濁った、汚泥のような黄土色。
それは湊が刑事時代、金銭トラブルや保険金殺人の現場で嫌というほど見てきた「利己的な殺意」の色だった。
誰かが、そこにいた。
突き落としたのだ。
湊は弾かれたように周囲を見渡した。
闇の向こう。
サトウキビ畑の農道に、一台の黒い車が停まっていた気配がする。赤いテールランプが一瞬光り、すぐに消え、エンジン音もなくスルスルと遠ざかっていくのが見えた。
ライトも点けずに走る、手慣れた逃走だ。
幻覚ではない。物理的な痕跡だ。
追いかけるか?
湊の足が一瞬前に出掛けて、止まった。
右足が痺れている。
脳の血管が軋むような感覚。
過度なストレスがかかると、再発の恐怖が頭をもたげる。
——俺はもう刑事じゃない。
これ以上、他人の業に関わりたくはない。
関われば、また壊れる。
あの時のように、誰かを守れずに終わる。
そう自分に言い聞かせながらも、湊は足元に落ちている手帳を拾い上げていた。
指先から、手帳に残った老人の体温と、怨念のような熱が伝わってくる。
——逃げても無駄だ。
頭の中で、死んだ祖母の声がした気がした。
『お前が見たものは、お前が背負うんだよ、湊。それがユタの血だ』
湊は忌々しげに舌打ちをし、手帳を上着のポケットにねじ込んだ。 比嘉。
老人はそう言った。
湊はタクシーのハンドルを握りしめた。
指の関節が白くなるほど強く。
血の呪縛からは逃げられない。
ならば、この「視える目」を使って、霊などではない、生身の人
間が犯した罪を暴いてやるまでだ。
カーナビの液晶画面が、湊の顔を青白く照らし出した。
その瞳は、獲物を狙う狩人のように、静かに鋭く光っていた。
第二章 深淵の蒼
翌日、東恩納ヒサの死は「転落事故」として処理された。
県警那覇署での事情聴取は、あまりにも形式的なものだった。
担当した若い刑事は、湊の過去——かつて捜査一課のエースと呼ばれながら、精神を病んで辞職したこと——を知っていた。
湊が口にした「他殺の疑い」や「現場から走り去った車」の話を、彼はボールペンを回しながら聞き流した。
「湊さん、あんたも大変だなぁ。後遺症ってやつですか? 薬、ちゃんと飲んでるか?」
同情と侮蔑が入り混じったその言葉が、湊の胸に澱のように溜まっていた。
誰も信じない。目に見えるもの、書類に残るものしか、この国では真実にならない。特に、面倒な「仏」に関しては。
湊は気だるい体を引きずってタクシー会社に戻り、早退届を出した。
そして、その足で再びハンドルを握り直した。
目的地は、昨夜の現場近く。
南部の海を見下ろす高台にある特別養護老人ホーム「海風の里」。
東恩納が最期に遺した言葉。
「比嘉」という女に会うために。
施設は、リゾートホテルと見紛うばかりの白亜の建物だった。 エントランスには手入れの行き届いたハイビスカスが咲き乱れ、南国の強烈な陽光を反射して眩しく輝いている。
だが、湊の目には、建物全体が薄い膜のような「灰色」に包まれているように見えた。
それは、ここで暮らす老人たちの諦念や、死を待つだけの静かな絶望、そして施設側がひた隠しにする「何か」が混じり合った、不透明な色だ。
自動ドアが開くと、消毒液と芳香剤が混ざった独特の匂いが鼻をつく。
管理された死の匂いだ。
湊は受付で身分を明かし——といっても、ただの個人タクシーの名刺だが——比嘉という職員への面会を求めた。
「職員への私的な面会ですか? 今は勤務中ですので……」
受付の女性が難色を示したその時、奥の事務室から一人の女性が歩いてきた。
「私に、何か?」
その姿を認めた瞬間、湊は息を呑んだ。
比嘉渚。
三十代半ば。
化粧気のない顔立ちだが、意志の強さを感じさせる大きな瞳をしている。
髪を後ろで束ね、動きやすそうなチノパンとポロシャツ姿だ。 だが、湊が目を奪われたのは、彼女の容姿ではなかった。
彼女の全身から立ち上る「色」だ。
深く、どこまでも澄んだ、海底のような「碧」。
湊はこれまで、人の汚い欲望や、濁った悪意の色ばかりを見てき
た。
だが、彼女の色は違った。
深い悲しみを湛えながらも、決して濁ることのない、凛とした祈りのような碧色。
——この人は、知っている。
湊の直感が告げた。彼女もまた、この島の深い闇の中で、たった一人で何かと戦っているのだと。
その色は、同志の色だ。
「久高さん、ですか? 警察の方では……ないんですよね」
渚の声は低く、警戒心を含んでいた。
碧い色の奥に、鋭い棘のような緊張が走る。
「ええ。昨夜、東恩納ヒサさんを乗せたタクシー運転手です」
東恩納の名を出した瞬間、渚の碧い色が激しく波打ち、紫色の動
揺が走った。
「ヒサさんが……亡くなったと聞きました。事故だったと」
「警察はそう言っています。ですが、私はそうは思わない」
湊は声を潜め、周囲の目を遮るように一歩踏み込んだ。
「彼は殺された可能性があります。そして、死ぬ直前に私にこれを託しました」
湊はポケットから手帳を取り出し、表紙だけを見せた。
渚が息を呑むのが分かった。
彼女の手が伸びかけ、空中で止まる。
周囲の職員や入居者の視線を気にしているのだ。
特に、事務所の奥からこちらを窺っている施設長らしき男から、湿った灰色の監視の視線を感じる。
「比嘉さん。ここに書かれていることは何です? 『遺骨の破棄』とは? 東恩納さんは何と闘っていたんです?」
渚は唇を噛み締め、湊の目を射抜くように見返した。
彼女は湊を値踏みしていた。
この男は敵か、味方か。
それとも、単なる金目当ての恐喝者か。
数秒の沈黙の後、彼女は決断したようだった。湊の瞳の奥にある、
同じ種類の孤独を感じ取ったのかもしれない。
「……ここは、聞いている耳が多すぎます」
彼女は手元の時計に視線を落とした。
「一時間後にシフトが終わります。近くの漁港に、古い食堂があります。『とまり』という店です。そこでなら」
「分かりました」
湊は頷き、背を向けた。
背中に突き刺さるような、渚の碧い視線を感じながら。
やはり、彼女は「鍵」だ。
そして同時に、湊の脳裏には警鐘が鳴り響いていた。
この施設全体を覆う灰色の奥に、もっと濃く、粘り気のある「何か」——巨大な利権の影——が潜んでいる気配がしたからだ。
特別養護老人ホーム「海風の里」の理事長室は、皮肉なほど冷房が効いていた。
革張りのソファに深く沈み込んだ理事長の島袋は、窓の外に広がる青い海ではなく、手元のタブレット端末に表示された収支決算書を睨みつけていた。
赤字。
赤い数字の羅列が、彼の網膜を焦がす。
「……また、介護報酬が下がったか」
島袋は呻いた。
理想の福祉施設を作る。
そう意気込んで開業して十年。
現実は、慢性的な人手不足と、上がり続ける経費、そして国からの締め付けだった。
職員たちは過労で次々と辞めていく。
入居者の家族からはクレームの電話が鳴り止まない。
「もっと良いサービスを」
「金は払えないが面倒は見ろ」。
——このままでは潰れる。
そんな時だった。
県議の大城剛史から連絡があったのは。
『島袋くん。君のところには、身寄りのない認知症の高齢者が何人いるかね?』
大城の提案は悪魔的だった。
身寄りがなく、意識も混濁した入居者。
彼らを、ある「計画」のために利用させてほしい、と。
具体的には、彼らの戸籍を利用した架空の土地取引や、戦没者遺族としての申請手続き。
そして——
『彼らはかつてガマの生き残りだ。
多少記憶が曖昧でも、証言者として仕立て上げれば、遺骨収集の補助金申請がスムーズに通る』
最初は断った。人道に反する。
だが、大城は札束を積んだ。
その金があれば、職員の給与を上げられる。
壊れたエアコンを直せる。
入居者の食事を豪華にできる。
——これは、施設を守るための「必要悪」だ。
島袋はそう自分に言い聞かせた。
だが、誤算だったのは、入居者の一人、東恩納ヒサが、認知症を装っていたことだった。
彼は正気だった。
そして、自分が利用されていることに気づき、施設長の比嘉洋介に相談してしまった。
比嘉は正義感の強い男だった。
「告発する」と息巻いた。
島袋は大城に泣きついた。
「なんとかしてくれ」と。
そして数日後、比嘉は海で死体となって発見された。 「……私が殺したようなものだ」
島袋は震える手でウイスキーを煽った。
比嘉の娘、渚が施設に残った時は肝を冷やした。
だが、彼女を追い出せば怪しまれる。
飼い殺しにするしかなかった。
インターフォンが鳴る。
大城の秘書からだ。
「理事長。例の件ですが、東恩納が外部のタクシー運転手と接触しました。……処理が必要です」
島袋は目を閉じた。
もう、後戻りはできない。
この楽園を守るためなら、地獄に落ちても構わない。
彼は無言で通話を切った。
窓の外の海が、今日はどす黒く濁って見えた。
第三章 黄土色の追跡者
漁港の食堂『とまり』は、潮の匂いと古い油の匂いが染み付いていた。
客はまばらで、壁に掛けられたテレビのニュースだけが空虚に響いている。
台風の接近を告げる気象予報士の声が、時折混じるノイズで途切れた。
向かいの席に座った渚は、湊が差し出した東恩納の手帳を食い入るように見つめていた。
ページをめくる指先が微かに震えている。
その震えは、恐怖からくるものか、それとも悲しみからくるものか。
「……これ、父の筆跡です」
渚が絞り出すように言った。
「お父さん?」
「父は、この施設の元施設長でした。三年前、海で水死体で見つかりました。警察は『釣り最中の事故』だと処理しましたが……」
渚は顔を上げ、碧い瞳に静かな怒りの色を宿して言った。
「父は釣りをしません。カナヅチだったんです。海を怖がっていました。そんな人が、夜釣りになんて行くはずがない」
湊は無言でコーヒーを啜った。
苦い味が口に広がる。
三年前。湊がとある事件で直感を無視し、同僚を死なせ、自身も脳梗塞で倒れて刑事を辞めた時期と重なる。
妙な因縁を感じざるを得ない。
この島では、三年前になにか大きな「歪み」が生まれたのかもしれない。
「父は生前、ヒサさんとよく話していました。ヒサさんは、ここに入居する前は『ガマフヤー(壕を掘る人)』……遺骨収集のボランティアをしていたんです」
「その手帳には、収集した遺骨の数と、報告書の数が合わないと書いてある」
「ええ。父もそれに気づいていました。『遺骨が消えている』って」 渚は声を潜めた。
テーブルの上の冷めた水滴を指でなぞる。
「久高さん。この島の開発工事では、遺骨が出ると工事が止まります。文化財保護法や戦没者遺骨収集推進法に基づき、調査、収容、鑑定……数ヶ月、あるいは数年単位で現場がストップします。それは業者にとって莫大な損失です」
「だから、見なかったことにするのか」
「いいえ、それだけじゃありません」
渚は手帳の一ページを指差した。
『具志頭リゾート計画 補助金水増し 遺骨は道具にあらず』 「逆に『あること』にして補助金を申請し、実際には調査もせず埋めてしまう……あるいは、別の場所から持ってきた骨を撒いて
数合わせをする。
父は、その『二重帳簿』の存在を突き止めてしまったんです」
反吐が出る話だ。
死者への冒涜などというレベルではない。
システム化された死体損壊と詐欺だ。
沖縄戦で散った命を、金に変える錬金術。
それを県ぐるみの事業として行っている疑いがある。
「そしてヒサさんも、父が遺したこの手帳を持って、告発しよう
としていた……」
その時だった。
湊の頭の中に、キーンという鋭い耳鳴りが走った。
脳の奥が焼けつくような感覚。
視界の彩度が異常に上がり、心臓が早鐘を打つ。
——来た。
湊は反射的に店の窓の外を見た。
漁港の駐車場の暗がりに、一台の黒いセダンが音もなく滑り込ん
できていた。
エンジンはかかったままだ。
スモークガラス越しだが、運転席に男の影が見える。
その男から、どろりとした粘着質な「黄土色」が滲み出していた。 東恩納が突き落とされた崖で一瞬だけ見た色と同じ。利己的で、容赦のない殺意の色。
あいつだ。
あいつが東恩納を殺した実行犯だ。
そして今、新たな獲物を嗅ぎつけた。
「比嘉さん、店を出るぞ」
「え?」
「追っ手だ。東恩納さんを殺した奴かもしれない」
湊は千円札をテーブルに叩きつけ、渚の手首を掴んで立ち上がらせた。
渚の碧い色が驚きで揺れたが、彼女は悲鳴を上げなかった。
状況を即座に理解しようとする知性を感じる。
「私のタクシーに乗れ。撒く」
二人が店を出ると同時に、セダンのライトがハイビームで点灯し
た。
目を焼くような光。
タイヤがアスファルトを噛む音。
湊は渚を助手席に押し込み、自らも運転席に飛び乗った。
キーを回すのと同時にアクセルを踏み込む。
背後からセダンが猛スピードで追ってくる。
バックミラーに映る黄土色の光が、湊の脳内で警告色のように点滅する。
——右だ。
直感が告げる。
いや、違う。
相手のハンドルの切り方、車体の加重移動、殺気のベクトル。
それら全てが「右側から幅寄せしてくる」という未来図を脳に描かせたのだ。
「舌を噛むなよ!」
湊はハンドルを左に切り、狭い路地へと車を滑り込ませた。
金属音が響き、サイドミラーが塀を擦る。
「きゃっ……!」
渚が小さく声を上げたが、手すりを握りしめて耐えている。
路地は複雑に入り組んだ漁村の迷路だ。
元刑事の土地勘と、タクシー運転手としての技術。
そして何より、相手の「曲がりたい」「加速したい」という殺意の
波動を先読みするユタの感覚が、ハンドル操作を神業にしていた。
だが、セダンは執拗だった。
路地を抜け、海岸沿いの道路に出ても食らいついてくる。
運転しているのはプロだ。
ただのチンピラではない。組織に飼われた猟犬だ。
「久高さん、前……!」
渚が叫ぶ。
前方の道路工事現場。
赤色灯が点滅し、バリケードが道を塞いでいる。
ブレーキを踏めば追いつかれる。
突き抜ければ車が大破するかもしれない。
湊の目に、一瞬の隙間が見えた。
工事現場の脇、砂利道の斜面。
その先に続く旧道。
——行けるか?
いや、行くしかない。
「掴まってろ!」
湊はハンドルを逆に切り、ドリフト気味に車体を滑らせた。
タイヤが悲鳴を上げ、砂利を巻き上げる。
車体が大きく傾き、浮遊感が襲う。
ドスン、という衝撃と共に、タクシーは下の旧道へと着地した。
サスペンションが軋む音が悲鳴のように響く。
バックミラーを見る。セダンは工事現場の手前で急停車していた。
黄土色の殺意が、悔しげに渦巻いているのが遠くに見える。
「……撒いたか」
湊は大きく息を吐き、震える手でハンドルを握り直した。
脳のノイズが徐々に収まっていく。
だが、右手の痺れは酷くなっていた。
助手席の渚は青ざめ、肩で息をしていたが、その瞳の奥の光は消えていなかった。
「久高さん……あなた、一体何者なんですか? ただの運転手じ……」
「昔、刑事をやっていた。今はただの社会不適合者だ」
湊は自嘲気味に笑った。
「だが、鼻だけは利く。……比嘉さん、あんたも完全にロックオンされた。もう後戻りはできないぞ」
渚は震える手で、膝の上の手帳を握りしめた。
普通なら泣き出すか、パニックになる場面だ。
だが彼女は、恐怖を理性の力で抑え込もうとしていた。
その姿が、湊には痛いほど眩しく見えた。
「望むところです。父とヒサさんの無念を晴らせるなら……私は、地獄までだって行きます」
彼女の碧い色が、覚悟を決めたように強く輝いた。
湊の胸の奥で、何かが疼いた。
刑事時代に忘れていた熱。
あるいは、孤独な生活の中で捨て去ったはずの「誰かを守りたい」という欲求。
「地獄か。……案内人は俺で十分だ」
湊はアクセルを踏んだ。
雨がフロントガラスを叩き始めていた。
嵐が来る。
この島を揺るがす、巨大な嵐が。
沖縄県警本部。
捜査一課の喫煙所は、紫煙と疲労の匂いが充満していた。
警部補の佐久間は、吸い殻の山にまた一本、新しい吸い殻を押し付けた。
彼のデスクには、一枚の報告書が放置されている。
『東恩納ヒサ変死事案 事故死として処理』
上層部からの命令だ。
「事件性なし。早急に処理せよ」。
解剖もせず、現場検証も形だけ。
明らかに異常だ。
「……腐ってやがる」
佐久間は吐き捨てた。
三年前、相棒だった久高湊が警察を去った時のことを思い出す。
ある贈収賄事件の重要参考人を追っていた湊は、上からの「捜査中止命令」を無視して張り込みを続けた。
その結果、参考人は不審な自殺を遂げ、湊は責任を問われた。
そのストレスが引き金となり、脳梗塞で倒れたのだ。
湊は正しかった。
だが、組織は正しい人間を排除した。
佐久間のスマホが震えた。
登録のない番号。
だが、彼は直感した。
「……湊か?」
一瞬の沈黙の後、懐かしい、だが以前より少し嗄れた声が聞こえた。
『佐久間。……元気そうだな』
「馬鹿野郎。生きてたのか」
佐久間は周囲を見回し、声を潜めた。
「お前、東恩納の件に関わってるな? あの一件はタブーだ。県警の上層部、いや、もっと上が噛んでる」
『ああ、分かってる。だから電話した。……佐久間、お前にしか頼めない』
湊の声には、現役時代にはなかった、悲痛な切迫感があった。
『大城剛史の周辺で、最近出入りしている「業者」を洗ってくれ。特に、汚れ仕事を請け負う半グレや、元自衛官崩れのグループだ。……俺と比嘉渚という女性が、命を狙われている』
佐久間は息を呑んだ。
「お前……また、一人で背負い込む気か」
『一人じゃない。……共犯者がいる』
湊は少し笑ったようだった。
『頼む。公式な捜査じゃなくていい。お前の耳に入った情報だけでいい』
佐久間は目を閉じた。
ここで断れば、自分は安全だ。
定年まで平穏に過ごせる。
だが、湊を見捨てるということは、かつての自分の正義をも見捨てることだ。
「……分かった。借りは高いぞ」
佐久間は言った。
「だが、死ぬなよ。お前が死んだら、誰が俺の愚痴を聞くんだ」 通話が切れる。
佐久間はスマホを握りしめ、喫煙所を出た。
廊下の向こうから、大城と懇意にしている管理官が歩いてくる。佐久間は深々と頭を下げたが、その目だけは、獲物を狙う猟犬の
ように鋭く光っていた。
第四章 安里の隠れ家
那覇の夜は、湿った獣の息遣いに似ている。
追っ手のセダンを振り切った湊のタクシーは、国際通りの喧騒を避け、安里の入り組んだ路地裏へと滑り込んだ。
戦後の闇市の名残を色濃く残すこの界隈は、再開発から取り残された古いアパートやスナックが密集し、複雑な迷路を形成している。
かつて刑事をしていた頃、湊が捜査協力者との密会に使っていた「隠れ家」も、この一角にあった。
築五十年のアパート『コーポ月桃』。
湊はエンジンを切り、周囲の「色」を確認した。
街灯の薄明かり。
酔っ払いの放つ弛緩したピンク色。
野良猫の警戒色。
だが、あの粘着質な「黄土色」の殺意は、もう視界のどこにもなかった。
「……降りよう。ここは俺のセーフハウスだ」
助手席の渚は、顔面蒼白で肩を上下させていたが、湊の言葉に小さく頷き、震える足でアスファルトを踏みしめた。
気丈な女だ、と湊は思った。
普通の人間なら、プロの殺し屋に追われた時点で泣き叫んでいる。
部屋は、カビと古本の匂いがした。
六畳一間の畳敷き。家具は文机と万年床、そして壁一面の本棚だけだ。
本棚には、警察時代の資料や、沖縄の戦史、民俗学の専門書がぎっしりと詰まっている。
湊は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、渚に渡した。
「電気は点けない。窓際にも寄るなよ」
渚は水を一口飲むと、ようやく人心地ついたように息を吐いた。 「……助けてくれて、ありがとうございます。私、てっきり……」 「礼はいい。俺も自分の命が惜しかっただけだ」
湊はカーテンの隙間から外を窺いながら、低い声で言った。
「奴らの運転、ただのチンピラじゃない。追跡のライン取り、車間距離の詰め方……訓練を受けた人間だ。おそらく元自衛官か、あるいは海外の民間軍事会社(PMC)の崩れだろう」
渚が息を呑む。
「大城議員は……そんな人たちまで飼っているんですか」
「金と権力があれば、暴力はいくらでも買える。それがこの国の
いや、この島の裏側のルールだ」
湊は文机の上に、東恩納から託された手帳と、渚が持ち出したコピー資料の束を広げた。
ここからが、本当の戦いだ。
暴力に対して暴力で挑めば、勝ち目はない。
必要なのは「論理」と「証拠」。奴らが最も隠したがっている急所を、正確に突き刺すための武器だ。
湊の右手が微かに痙攣する。
脳の血管が軋むような頭痛が、遠雷のように響き始めていた。
薬を飲まなければ。
だが、今はその時間さえ惜しい。
湊は痛みをねじ伏せ、手帳を開いた。
そこには、死んだ東恩納ヒサと、渚の父・比嘉洋介が命がけで集めた「真実の欠片」が散らばっていた。
第五章 沈黙の構造
渚が資料の一つを指差した。
それは、彼女の父が独自に作成した「相関図」だった。
「父は、施設の入居者リストと、過去の遺骨収集データを照らし合わせていました。
そこで、ある『異常な法則』に気づいたんです」
「法則?」
「はい。戦没者遺骨収集事業には、国から莫大な補助金が出ます。一件の身元判明につき数万円から数十万円。さらに、発掘作業自体にも日当や機材費として予算がつきます」
渚は、震える指先で手帳の数字をなぞった。
「通常、遺骨が見つかれば、DNA鑑定を経て遺族へ返還されます。でも、このリストを見てください」
湊は目を凝らした。
『具志頭第十九号壕 回収:4柱 → 申請:12柱 → 返還:0』
『摩文仁海岸洞窟 回収:2柱 → 申請:8柱 → 返還:0』
数字が合わない。
回収数よりも申請数が多く、そして返還数がゼロ行進だ。
「……水増しか」
「それだけじゃありません。父のメモにはこうあります。
『在庫管理』と」在庫。
その無機質な響きに、湊の背筋が凍った。
「遺骨を……在庫扱いしているのか?」
「……ええ。遺骨が見つかりすぎると、予算が消化しきれない。あるいは、開発工事が止まってしまう。だから、見つけた遺骨の一部を『未発見』として隠匿し、翌年度以降の予算獲得のために『小出し』にしているんです」
湊は拳を握りしめた。
爪が皮膚に食い込む。
それは、死者への冒涜というレベルを超えていた。
沖縄戦で散った命を、彼らは「資源」として扱っている。
地面から湧いてくる金脈のように、掘り出し、隠し、換金しているのだ。
手帳の端には、東恩納ヒサの筆跡で、悲痛な叫びのような文字が書き殴られていた。
『骨が泣いている。暗いと泣いている。出してくれと泣いている』 湊の目に、手帳から立ち上る「色」が映った。
インクの染みではない。
文字の一画一画から滲み出る、どす黒く、それでいて悲しいほど透明な「灰色」。
それは、声を奪われた死者たちの、静かな絶叫だった。
ユタの血が騒ぐ。
頭の中のノイズが、数千人の呻き声となって反響する。
「……久高さん? 顔色が……」
渚が心配そうに覗き込む。
彼女の碧い色が、清涼な水のように湊の意識を冷やした。
「大丈夫だ。……それで、この『第十九号壕』というのは?」
湊は意識を現実に引き戻した。
渚は一枚の地図を広げた。
古い米軍の測量図と、現在の工事図面を重ね合わせたものだ。
「ここです。来月着工予定の『グスク・リゾートホテル』の建設予定地。
環境アセスメントでは『遺構なし』とされていますが、父の調査では、ここに大規模な自然壕があったはずなんです」
「埋められたか」
「はい。戦後の混乱期に、米軍のブルドーザーで入口を塞がれ、その後、産廃業者が不法投棄の穴として使い……そして今は、大城建設が『更地』としてホテルを建てようとしている」
湊は地図上のその一点を見つめた。
那覇から車で四十分。
本島南部、具志頭の海岸線。
そこは、湊が昨日、東恩納を降ろした場所のすぐ近くだった。 「……東恩納さんは、そこへ行こうとしていたんだな」
「ヒサさんは、その壕の生き残りでした。あの中で、家族を亡くしたんです。だから、ホテルが建ってコンクリートで蓋をされる前に、どうしても家族を迎えに行きたかった」
だが、彼は消された。
口封じのために。
あるいは、壕の中に「見られてはならない決定的な何か」があるからだ。
単なる遺骨の隠匿だけではない。
大城たちが殺人まで犯して守ろうとする、もっと深い闇。
「……行こう」
湊は立ち上がった。
「現場へ行く。埋められた壕の入口を見つけ出し、中の『在庫』を白日の下に晒す。
それができれば、工事は止まる。大城の不正も暴ける」
無謀な賭けだ。
警察も敵、暴力団も敵。味方はいない。
だが、湊の視界の端で、渚の碧い色が強く、熱く輝いた。
「はい。……私も行きます。父が命がけで残した地図が、道標です」 二人の視線が交錯する。
言葉はいらなかった。
傷ついた過去を持つ者同士が、共犯者として魂を結びつけた瞬間だった。
第六章 奈落へ
その夜、沖縄本島には季節外れの台風が接近していた。
気圧が下がり、湿度がまとわりつくように上昇する。風が木々を揺らし、不気味な唸り声を上げ始めていた。
湊と渚は、雨合羽に身を包み、建設予定地の外縁にあるフェンスを乗り越えた。
広大な敷地は、造成工事の途中だった。
重機が怪獣の死骸のように暗闇に沈み、泥濘んだ地面にはキャタピラの跡が刻まれている。
雨音がかき消してくれるとはいえ、足音には細心の注意が必要だ。 「こっちです……。父の地図によれば、海岸段丘の崖下、大きなガジュマルの木の根元に……」
渚の声が風に千切れそうだ。
彼女の手には、父の形見であるコンパスが握られている。
湊は懐中電灯を消し、自分の「目」を頼りに進んだ。
暗視スコープはいらない。
湊の視界には、この土地全体が放つ「気配」が色となって見えていた。
工事現場の無機質な灰色。
植物の緑色。
そして、地面の裂け目から漏れ出す、濃密な「黒」。
——ここだ。
湊の足が止まった。
目の前の斜面に、樹齢数百年はあろうかという巨大なガジュマルが、気根を垂らして立っている。
その根の隙間に、不自然に積まれたコンクリートブロックの壁があった。
蔦に覆われているが、明らかに人工物だ。
「……あった」
渚が駆け寄ろうとするのを、湊は手で制した。
頭の中のノイズが、警告音のように高まっていたからだ。
このブロック塀の向こう側から、強烈な「死」の圧力が押し寄せてくる。
何十年もの間、誰にも顧みられず、光も風も届かない暗闇の中で、腐り、風化し、それでも消えずに残った魂の質量。
湊は吐き気を催し、膝をつきそうになった。
「久高さん!?」
「……大丈夫だ。少し、あてられただけだ」
湊は脂汗を拭い、バールを構えた。
「開けるぞ。準備はいいか」
渚が頷く。
湊はバールの先端を、ブロックの目地に突き立てた。
風化したモルタルが崩れ、隙間ができる。
そこへバールを押し込み、梃子の原理で力を込める。
ガゴッ、という鈍い音と共に、ブロックの一つが外れ、地面に落
ちた。
ぽっかりと開いた黒い穴。
そこから、冷たく、カビ臭い風が——八十年前の空気が——吹
き出してきた。
——ウゥゥゥ……。
風鳴りか、それとも呻き声か。
湊の耳には、それが「助けてくれ」という懇願ではなく、「入ってくるな」という拒絶の声に聞こえた。
この壕は、生者が足を踏み入れてはいけない聖域であり、同時に
地獄なのだ。
「行こう」
湊は恐怖を理性でねじ伏せ、穴へと身体を滑り込ませた。
続いて渚が入ってくる。
二人が闇の中へ消えた直後、遠くで雷鳴が轟いた。
嵐が来る。
すべての罪を洗い流す浄化の雨か、それとも二人を飲み込む破壊
の濁流か。
碧き沈黙の壕の扉は、今、開かれた。
第七章 沈黙の迷宮
懐中電灯のスイッチを入れると、白い光の筋が円錐形に広がり、闇を切り裂いた。
そこは、時間が凍結した場所だった。
琉球石灰岩のゴツゴツとした壁面。天井から垂れ下がる鍾乳石は、猛獣の牙のように鋭く尖っている。
そして地面には、八十年前の惨劇の痕跡——朽ち果てた一升瓶、錆びついた飯盒、ボロボロになった靴底——が、泥にまみれて散乱していた。
第十九号壕。
戦時中、数百名の住民と兵士が避難し、そして多くの命が「処理」された場所。
湊は強烈な吐き気を堪え、壁に手をついた。
視界全体が、「灰色」に染まっている。
湊は突如、壁に手をついて激しく嘔吐いた。
胃の中身は何もない。
吐き出そうとしているのは、内側から食い破ろうとしてくる「他人の記憶」だ。
懐中電灯の光がちらつき、視界が歪む。
——痛い、痛いよ、母ちゃん。
——静かにしなさい。
兵隊さんに見つかる。
子供の声。
母親の押し殺した悲鳴。
男たちの怒号。
それらが、視覚的な「色」となって湊の脳髄に直接流れ込んでくる。
幻覚ではない。
この石灰岩の壁に染み付いた、八十年前の残留思念だ。
湊の目の前で、暗闇が反転した。
そこは、熱気と汚物と血の匂いが充満する、八十年前のガマだった。
数百人の避難民が、鰯のように身を寄せ合っている。ロウソクの頼りない灯りが、彼らの虚ろな瞳を照らす。
その色は、絶望の「黒」ですらなかった。
感情が摩耗しきった、無機質な「灰色」。
生きているのか死んでいるのかさえ分からない、境界線の色だ。 奥の闇から、軍服を着た男たちが現れる。
彼らの色は、どす黒い「赤」。狂気じみた義務感と、死への恐怖が裏返った殺意の色。
『出ろ! ここは軍が使う! 民間人は外へ行け!』
『嫌だ、外は鉄の雨だ! 殺される!』
銃床で殴られる老人。泣き叫ぶ赤子を抱き、必死に口を塞ぐ母親。その母親の手から、赤子の「生の色」が、ふっと消える瞬間——。 「……あっ」
湊は絶叫しそうになるのを、己の唇を噛み切って堪えた。
口の中に鉄の味が広がる。
これが、この場所で起きたことだ。
守るべき民を守らず、追い出し、あるいは自決を強要し、そして最後には自分たちもここで果てた。
その大量の死が、土に還ることも許されず、この冷たい暗闇の中で八十年間、凍りついていたのだ。
「……久高さん! しっかりして!」
渚の声が、水底から響くように聞こえた。
彼女の手が、湊の背中をさすっている。
湊は荒い呼吸を繰り返しながら、顔を上げた。
目の前には、渚の心配そうな顔と、彼女から発せられる「碧」い光があった。
それは、あの灰色の地獄の中で、唯一の救いのように澄んでいた。 「……見たんだ」
湊は掠れた声で言った。
「あいつらは……まだ、ここにいる。怯えて、怒って、泣きながら……誰かが見つけてくれるのを、ずっと待っていたんだ」
湊は涙を拭うこともせず、ガマの奥を見据えた。
「遺骨を『在庫』だなんて呼ばせるものか。あいつらは、人間だ。俺たちと同じ、生きた人間だったんだ」
その言葉は、湊自身の魂の底から絞り出された、刑事としての、いや、一人の人間としての宣戦布告だった。
壁からも、地面からも、天井からも。無念の死を遂げた者たちの残留思念が、灰色の靄となって湊の視覚を覆い尽くそうとしていた。
耳の奥で、数え切れないほどのうめき声のようなノイズが、耳鳴りとなって反響する。
——痛い。
熱い。
水をくれ。
おかあさん。
ユタの血が、この場所の「記憶」を過剰に受信している。
脳の血管が膨張し、内側から頭蓋骨を圧迫するような激痛が走る。
渚の体温と、彼女の持つ強い意志が、溺れかけていた湊を現実に
引き戻すアンカーとなる。
「……ああ。平気だ。少し、空気が悪いな」
湊は脂汗を拭い、呼吸を整えた。
弱音を吐いている場合ではない。
「奥へ進もう。奴らも入ってくる」
壕は複雑に入り組んでいた。
自然の洞窟を利用しつつ、日本軍が陣地構築のために掘削して拡張した構造だ。
地図がなければ数分で方向感覚を失うだろう。
二人は足音を忍ばせて進んだ。
湊は刑事の目で、地面の痕跡を探った。
「見ろ、比嘉さん」
湊が光を当てたのは、地面の泥に残る真新しい轍だっ
た。
「キャタピラの跡だ。小型の運搬車を使っている」
「……こんな奥まで?」
「ああ。それに、これを見ろ」
壁際に、ブルーシートで覆われた資材置き場があった。
めくってみると、業務用セメント袋と、大量の消石灰の袋が積まれている。
「消石灰……消毒や防臭に使いますよね」
「死体の処理にもな」
湊は冷たく言い放った。
「奴らはここで『作業』をしている。それも、つい最近まで」
戦後八十年近く経った封鎖されたガマに、現在の工事用資材が持
ち込まれている。
これこそが、このガマが何者かによって「管理」されている動かぬ証拠だ。
後方から、男たちの低い話し声と、硬い靴音が反響して聞こえてきた。
追手が侵入したのだ。
「ライトを消せ。壁伝いに進むぞ」
湊は渚の手を強く握った。
完全な暗闇の中、彼女の手の温もりだけが、生者の世界の唯一の感触だった。
第八章 骨の工場
迷路のような坑道を十分ほど進むと、不意に風の流れが変わり、少し開けた空間に出た。
湊は一瞬だけライトを点け、すぐに消した。
その一瞬で、二人はその異様な光景を網膜に焼き付けた。
空間の中央に、工事現場用の投光器(今は消えている)と、ベルトコンベアのような機械が設置されていた。
そして壁際には、スーパーマーケットの物流倉庫のように、無数のプラスチックコンテナが天井近くまで積み上げられている。 渚が息を呑む気配がした。
湊はスマホの画面の明かりだけで、コンテナの一つに近づいた。 貼られたラベルには、事務的なフォントでこう印字されていた。 『Aランク:頭蓋・大腿骨(完全)』
『Bランク:欠損あり・焼損』
『Cランク:破片・砂利混入(粉砕用)』
「……工場だ」
渚が震える声で呻いた。
「遺骨を……商品みたいに選別してる……」
ここは、単なる隠し場所ではなかった。
工事現場から掘り出された遺骨を洗浄し、部位や状態ごとにランク付けし、「発見報告」が必要な時に必要な分だけ出荷するための、冒涜的なバックヤード。
湊はコンテナの蓋を開けた。緩衝材の中に、綺麗に洗浄された頭
蓋骨が整然と並んでいる。
空洞の眼窩が、無言で湊を見つめ返しているようだった。
「効率化、か。大城の野郎、死者の魂までシステムに組み込みやがった」
湊の視界が赤く染まる。
怒りの色ではない。
この場所全体が放つ、おびただしい数の死者の「無念」が、脳の許容量を超えて流れ込んでくる警告色だ。
吐き気がする。
だが、これが現実だ。
沖縄の土の下で行われている、誰も見ようとしなかったビジネスの正体だ。
「久高さん、あれを」
渚が指差したのは、選別機の脇にある大型のシュレッダーと、焼却炉だった。
そばには、細断された紙屑の山がある。
湊が手に取ってみると、それは古い万年筆のインク吸入紙や、認識票のコピーのようだった。
「遺留品だ。名前が分かる万年筆や印鑑は、ここで処分されている」
身元が判明しては困るのだ。
遺族が現れれば、遺骨の所有権を主張され、DNA鑑定を迫られ、この「在庫」が減ってしまうから。
彼らにとって、遺骨は「誰か」であってはならない。
換金可能な「カルシウムの塊」でなければならないのだ。
ガマの暗闇の中、金城
——湊たちを追う「黄土色」の男——は、マチェットの刃を軍手の指先でなぞっていた。
湿気で古傷が痛む。自衛隊時代、レンジャー訓練中に負った傷だ。 優秀な隊員だった。
だが、実家の借金を返すために基地内の備品を横流ししたことが
バレて、除隊になった。
社会に戻った彼を待っていたのは、貧困という名の戦場だった。 学歴もない。
技術もない。
あるのは、人を壊す技術だけ。
そんな彼を拾ったのが、大城だった。
『君のような、力はあるが場所がない若者に、活躍の場を与えた
い』
大城は優しく微笑み、分厚い封筒を渡してきた。
中には、一年分の給料に相当する現金が入っていた。
仕事は簡単だった。
邪魔者を脅す。時には消す。
罪悪感?
そんなものはとうに捨てた。
この沖縄では、食うか食われるかだ。
米軍基地のフェンスの向こう側で、安穏と暮らすアメリカ人や、本土から来てリゾートを楽しむ観光客。
彼らを見るたびに、金城の中にはどす黒いルサンチマン(怨恨)が溜まっていった。
大城は言った。
『沖縄のために、汚い仕事をする人間が必要なんだ』と。
そうだ。
俺は沖縄のためにやっている。
このガマに眠る骨など、ただのカルシウムだ。
そんなもののために、俺たちの生活が、未来が犠牲になってたま
るか。
無線機からノイズが走る。
『ネズミが侵入した。……処理しろ』
大城からの直接命令だ。
金城は立ち上がった。
あのタクシー運転手。
元刑事だという男。
奴の目を見た時、金城は背筋が寒くなるのを感じた。
奴は、俺と同じ目をしていた。
持たざる者の目。絶望を知る者の目。
だからこそ、殺さなければならない。
同族嫌悪にも似た殺意が、金城の全身を黄土色に染め上げていく。 「……楽しませてくれよ、元デカさん」
金城は闇に向かって呟き、足音を忍ばせて歩き出した。
それは、彼なりの、歪んだ生存証明だった。
第九章 黄土色の再会
「……ネズミが、どこから入り込んだ」
背後から、低く、湿った声が響いた。
機械音も風音もない静寂の中、忍び寄る気配に、湊の反応が一瞬遅れた。
振り返ると、コンテナの影に男が立っていた。
あの漁港で撒いた、黒いセダンの運転手。
そしてガマの入口で指揮を執っていた「黄土色」の男だ。
男は右手にマチェット(山刀)をぶら下げ、左手で無線機のスイッチを切ったところだった。
仲間を呼ばず、独りで始末するつもりか。
「通気孔か。埋めたはずだが、手抜かりがあったようだな」
男が懐中電灯を自分の顎の下から当て、不気味に笑う。
男の全身から滲み出る色は、以前よりも濃く、濁った黄土色に変質していた。
任務遂行の義務感と、獲物を甚振ろうとする嗜虐性が混じり合った、吐き気を催す色。
「比嘉さん、コンベアの裏へ!」
湊が叫ぶと同時に、男が踏み込んできた。
速い。
泥濘の中とは動きのキレが違う。
足元が平らなコンクリート打ちされたこの場所は、彼にとってのリングだ。
マチェットが空を切り、湊の鼻先をかすめる。
風圧で肌が粟立つ。
湊は持っていたバールで次の一撃を受けた。
ガギンッ!
重い衝撃が手首に走り、痺れのある右手が悲鳴を上げる。
バールが弾き飛ばされ、闇の中に消えた。
「元デカだと聞いたが、随分鈍ってるな」
男が嘲笑い、にじり寄る。
マチェットの刃先が、微かな光を反射して鈍く光る。
湊は後退りし、選別機の影に入った。
武器はない。
身体は万全ではない。
だが、湊には「視えて」いた。
男が次に踏み込もうとしている右足の先。
そこにある地面の色が、他とは違う「空洞の黒」を示していることを。
地下水による侵食で、コンクリートの下の床岩が薄くなっている場所だ。
「比嘉さん、スイッチを入れろ!」
渚が反射的に制御盤の赤いボタンを叩く。
ゴウンッ!
ベルトコンベアと選別機が、唸りを上げて動き出した。
突然の轟音と振動に、男が一瞬怯み、視線を逸らす。その一瞬の色が「黄土」から「灰色(警戒)」に変わる。
今だ。
湊は男に向かってタックルした——のではなく、男の足元の床を、手近にあった岩塊で思い切り叩き割った。
第十章 崩落
ドゴッ!
薄くなっていた琉球石灰岩の床が抜け、男の右足が膝まで嵌まり込んだ。
「ぐあっ!?」
男が体勢を崩す。
湊はその隙を見逃さず、男の持っていたマチェットを持つ手首を蹴り上げ、ボディに肘打ちを叩き込んだ。
だが、男もプロだ。
嵌まった足を軸にして体を捻り、太い腕で湊の首を締め上げてくる。
「死ね……!」
万力のような力が気道を塞ぐ。
湊の視界が白く明滅する。
酸素が途切れる。
脳の血管が軋む音がする。
再発の恐怖が、死の恐怖よりも先に脳裏をよぎる。
——ここで終わるのか。
何も暴けないまま。
その時。
「離して!」
ドンッ!
鈍い音が響き、男の拘束が緩んだ。
渚が、コンテナに入っていた大腿骨——
「Aランク」の硬く太い骨——を両手で持ち、男の後頭部に振り下ろしていたのだ。
男が白目を剥いて崩れ落ちる。
湊は咳き込みながら男を突き飛ばし、倒れ込んだ男の手首を結束バンドでコンベアの支柱に固定した。
「……すまん、助かった」
「いいえ……罰が当たりますね、遺骨を武器にするなんて」
渚は震える手で、砕けた大腿骨を拾い上げ、胸に抱いた。その目には涙が溜まっていた。
「でも、この人(遺骨)が助けてくれたんだと思います。怒るより、生きて戦えって」
その言葉に、湊はハッとした。
彼女の碧い色が、以前よりも強く、しなやかに輝いている。
彼女はもう、守られるだけの存在ではない。
戦友だ。
「ああ。行こう。この奥に、奴らの本丸があるはずだ」
第十一章 隠されたオフィス
男が守ろうとしていたエリアの奥。
偽装された岩壁の隙間を抜けると、空調の効いた乾燥した空気が流れてきた。
そこは、天然の鍾乳洞を利用しつつ、最新の設備が持ち込まれた「オフィス」だった。
壁一面に設えられたスチール棚には、膨大な数のファイルと、骨壺が並べられている。
そして中央には、立派なマホガニーのデスクと、最新式のパソコン、大型シュレッダーが置かれている。
ガマの中に、行政の出先機関があるような異様な光景だ。
「……ここが、管理センター……」
渚が震える声で言った。
湊はデスクに近づいた。
パソコンはスリープ状態だ。
マウスを動かすと、パスワード入力画面が表示される。
デスクの上には、書きかけの書類があった。
『令和六年度 特定埋葬施設管理業務日報』
『大城建設 リゾート開発基礎工事 支障除去計画書』
——支障除去。
ここでは、遺骨は「文化財」でも「人間の痕跡」でもなく、単なる工事の障害物(支障)として扱われているのだ。
渚が棚の一つからファイルを抜き出した。
背表紙には『未処理リスト・極秘』とある。
彼女がページをめくる手が止まる。
「……あった」
彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「お祖父ちゃんの名前……。戦死公報では『南部にて消息不明』となっていたお祖父ちゃんの名前が、ここに……」
ファイルには、遺骨の発見場所、発見日時、そしてDNA鑑定の結果まで記載されていた。
三十年以上前、家族が必死に探しても見つからなかった骨が、とっくに発見され、身元も判明していながら、この暗闇の棚に「在庫」として管理されていたのだ。
「平成十五年発見……。父が施設長になる前だ。
父はずっと、近くにいたお祖父ちゃんに気づけなかった……」 湊の胸に、激しい怒りが湧き上がった。
これは犯罪だ。
だが、ただの横領や詐欺ではない。
沖縄という島の歴史と、人々の心を踏みにじる、魂の殺人だ。
「データを持っていこう。HDDごと抜く」
湊がデスクの下に潜り込もうとした時、天井のスピーカーからノイズが走り、男の声が響いた。 『——感心しないな。人のオフィスを荒らすのは』
第十二章 亡霊の声
スピーカーから響く、低く、落ち着き払った声。
マイクを通した独特の歪みがあるが、その傲慢な響きは隠せない。 湊には聞き覚えがあった。
テレビのニュースで何度も聞いた声だ。
県議会議員、大城剛史。
『そこは、沖縄の未来を作るためのバックヤードだ。過去の遺物
に縛られていては、この島は前に進めない。君たちには理解できんかもしれんがね』
「ふざけるな!」
渚が叫んだ。
マイクがどこにあるのか分からないが、天井に向かって声を張り
上げる。
「過去を隠して作る未来なんて、ただの砂上の楼閣よ! あなたたちは、骨を金に換えているだけじゃない!」
『威勢がいいな、お嬢さん。比嘉洋介の娘か。父親に似て、損な性分だ』
大城の声に、嘲笑の色が混じる。
『だが、そこが君たちの墓場だ。歴史の一部になれることを光栄
に思うがいい』
ガコン、という重い金属音が響いた。
入ってきた通路の入口が、厚い鉄板で塞がれた音だ。
『換気システムを切った。この空間の酸素は、二人なら三時間もつかな。ゆっくり反省したまえ』
プツリ、と通信が切れる音がした。
完全な密室。酸素の供給が断たれた。
静寂が戻る。
だが、その静寂は、死へのカウントダウンの音でもあった。
第十三章 風の通り道
パニックになりかけた渚の肩を、湊が掴んだ。
「落ち着け。大城は完璧主義者だが、このガマは生き物だ。人工的な制御だけで全てを塞ぐことはできない」
湊は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませた。
視覚情報は遮断する。
代わりに、肌で感じる空気の流れ、そして「色」として視える微かなエネルギーの流動を探る。
ユタの目が、空間全体をスキャンする。
死者たちの灰色の靄が、部屋の隅の一箇所、書類棚の裏側に集まっているのが視えた。
そこだけ色が濃く、吸い込まれるように揺らいでいる。
——あそこだ。
死者たちが、出口を指し示しているのではない。
あそこから、「外の空気」の匂い
——生きている人間たちの欲望や、草木の生命力の色
——が、極微量だが漏れ出してきているのだ。
「比嘉さん、あの棚だ。手を貸してくれ」
二人は、重いスチール棚に体をぶつけ、床を擦る音を立てて動かした。
現れたのは、岩肌に空いた直径六十センチほどの黒い穴だった。人工的に開けられたものではなく、自然の亀裂を広げたような形状だ。
「……風だ」
渚が手をかざす。
「空気が流れています」
「旧日本軍が使っていた通気孔か、あるいはガマ特有の『風穴』だ。
どこへ通じているかは分からないが、ここにいれば窒息死だ」 湊はバールをベルトに差し込み、ハードディスクを防水バッグに詰め込んだ。
「俺が先に行く。どんなに狭くても、パニックになるなよ」
湊が穴へ身体を滑り込ませる。
内壁は湿った粘土質で、匍匐前進しかできない狭さだった。
暗闇。
閉所。
湊の脳裏に、かつて脳梗塞で倒れた時の「身体が動かず、意識だけが閉じ込められる感覚」がフラッシュバックする。
——落ち着け。
湊は、視界に映る「風の色」に集中した。
淡い白銀色の筋が、奥へと流れている。
それは酸素の道であり、生への道だ。
後ろから続く渚の荒い呼吸音が、鼓動と同期する。
二人は泥にまみれながら、島の血管のような暗闇を這い進んだ。
第十四章 暴風域へ
永遠にも思える匍匐の末、風の流れが強くなった。
上り勾配の先、岩の隙間から雨水が滴り落ちてくる。
湊はバールで詰まった土砂を崩し、体をねじ込むようにして地上へ這い出した。
続いて渚の手を引き上げる。
そこは、建設予定地の外れ、海岸段丘の崖の中腹だった。
世界は轟音に包まれていた。
台風が直撃していた。
横殴りの雨が弾丸のように肌を打ち、風速四〇メートルの暴風が木々をなぎ倒している。
海は白波を立てて狂ったように吠えていた。
「きゃあっ!」
渚が風に煽られ、崖下へ落ちそうになるのを、湊が抱き寄せて支えた。
「生きてるか!?」
湊は大声で叫んだが、自分の声さえ風にかき消されそうだ。
「はい! なんとか!」
二人は泥だらけの顔を見合わせ、生還の実感を噛み締める余裕もなく動き出した。
「車は使えない! 道が封鎖されているはずだ!」
湊は雨の中で叫んだ。
大城は警察権力を動かせる。
既に主要道路には検問が敷かれ、「テロリスト」か「凶悪犯」として手配されている可能性が高い。
「じゃあ、どうするんですか!?」
「歩くしかない! サトウキビ畑を抜けて、北へ向かう! この嵐なら、警察のドローンも飛ばせない!」
二人は泥濘む大地を踏みしめ、暴風雨の中を歩き出した。
視界はゼロに近い。
だが、湊には雨の向こうにかすかに揺らめく「気配の色」が見えていた。
自然の猛威の中にも、風の通り道、安全なルートが色分けされて浮かび上がる。
——俺の目は、このためにあったのか。
呪いだと思っていたユタの血が、今は二人を生かすための羅針盤となっていた。
嵐の過ぎ去ったガマの出口付近で、一人の男が泥にまみれて倒れていた。
金城。
湊たちを襲った「黄土色」の男だ。
彼は意識を取り戻すと、激痛の走る頭を押さえながら、憎々しげに舌打ちをした。
「……クソッ、あの女」
骨で殴られた後頭部が熱い。
だが、それ以上に痛むのは、プライドだった。
元自衛官レンジャー部隊所属。
格闘術のプロ。それが、タクシー運転手と女ごときに後れを取った。
金城はマチェットを拾い上げ、ふらつく足で立ち上がった。
湿気で古傷が痛む。
右膝の古傷。
自衛隊時代、訓練中の事故で負った傷だ。
優秀な隊員だった。
誰よりも国を守りたかった。
だが、実家の借金を返すために基地内の備品を横流ししたことがバレて、懲戒免職になった。
社会に戻った彼を待っていたのは、貧困という名の戦場だった。 学歴もない。
技術もない。
あるのは、人を壊す技術だけ。
コンビニのバイトでは、借金の利子さえ払えなかった。
実家の母は病気で寝たきりだ。
そんな彼を拾ったのが、大城だった。
『君のような、力はあるが場所がない若者に、活躍の場を与えたい』
大城は優しく微笑み、分厚い封筒を渡してきた。
中には、一年分の給料に相当する現金が入っていた。
仕事は簡単だった。
地上げの邪魔者を脅す。
時には消す。
罪悪感?
そんなものはとうに捨てた。
この沖縄では、食うか食われるかだ。
金城は、ガマの出口から見える風景を睨みつけた。
フェンスの向こう側。
広大な米軍基地。手入れの行き届いた芝生の上で、アメリカ人の子供たちが笑い声を上げて遊んでいる。
その隣で、リゾートホテル建設に反対するデモ隊が、貧相な旗を振っている。
どいつもこいつも、恵まれているくせに。
平和だの、尊厳だの。
そんな綺麗事は、腹が満ちた奴らの道楽だ。
俺たちのような「持たざる者」は、泥水をすすってでも生き残るしかないんだ。
「……殺してやる」
金城の目から、理性の光が消え、どす黒い獣の光が宿った。
あのタクシー運転手。
元刑事だという男。
奴の目を見た時、金城は背筋が寒くなるのを感じた。
奴は、俺と同じ目をしていた。
絶望を知る者の目。社会から弾き出された者の目。
だからこそ、許せない。
同族嫌悪にも似た殺意が、金城の全身を黄土色に染め上げていく。 無線機を取り出す。
水没して壊れている。
構わない。
命令などなくても、俺は奴を追う。
これは仕事じゃない。俺の存在証明だ。
金城は泥濘む地面を踏みしめ、二人が消えた方向——北へ向かって歩き出した。
その背中には、沖縄の貧困が生み出した、悲しき怪物の影が伸びていた。
第十五章 亀甲墓の夜
三時間ほど歩いただろうか。
体力の限界が近づいていた。
湊の右足が痙攣し、何度も転倒しかける。
脳の血管が悲鳴を上げているのが分かる。
「久高さん、あそこ!」
渚が指差したのは、サトウキビ畑の奥に鎮座する、巨大なコンクリートの塊だった。
亀甲墓。沖縄特有の、女性の子宮を模した形をした巨大な墓だ。
「あの中なら雨を凌げます!」
不謹慎だが、今は選り好みしていられない。
二人は墓の庭に転がり込み、雨よけのある入口部分の影に身を寄せた。
激しい雨音が、ここでは遠くに聞こえる。
死者の家は、生者にも慈悲深かった。
湊は泥だらけの壁に背を預け、荒い息を吐いた。
渚が防水バッグからタオルを取り出し、湊の顔を拭う。
「……ありがとうございます。あなたがいなければ、私はあのガマで死んでいました」
「まだ終わってない。これからが本番だ」
湊は懐から、奪取したハードディスクを取り出した。
これが濡れていれば全て終わりだ。
防水バッグ越しに確認する。
無事だ。
「これが大城の首を獲る刀だ。だが、どうやって使う?」
警察に持ち込んでも揉み消される。
マスコミも、沖縄のメディアは大城のスポンサー企業に抑えられている可能性が高い。
「……明後日です」
渚が呟いた。
「明後日、ホテルの起工式があります。そこに大城も、建設会社社長も、県知事も出席します。そして……本土からの来賓も」
「そこで、これをぶちまける気か?」
「ネットで拡散するだけじゃ、フェイクだと断定されて終わりです。公衆の面前で、逃げ場のない場所で突きつけるしかない」
渚の瞳に、静かだが消えることのない炎が宿っていた。
湊はその瞳を見つめた。
かつて自分が失った正義への渇望。
それを、この女性は持っている。
二人は暗い墓の前で、冷えた体を寄せ合いながら、夜明けを待った。
それは恋愛と呼ぶにはあまりに切迫していたが、魂の深い部分で結ばれた共犯者同士の、束の間の安息だった。
湊の視界には、渚の放つ碧い光が、嵐の夜を照らす唯一の灯台のように見えていた




