09.異国の馬
デカァァァァァいッ説明不要!!
大陸暦三〇〇年、青の節。
春の冷気がまだ土の底に残り、村の畑にはうっすらと朝霧がかかっていた。
夜のあいだに降りた湿り気が、刈り株や土塊に白い膜のようにまとわりつき、陽が昇るにつれてゆっくりとほどけていく。
その向こうで、遠くの国境の尾根は――まだ青灰色の影のまま、薄靄の向こうに沈んでいた。
その朝、ツェルバハ子爵領の御料牧場には、いつもとは違う緊張が漂っていた。
馬丁たちは早くから馬房を掃き、鎖や柵の点検を繰り返している。
藁の匂いに鉄と革の匂いが混じり、馬たちの鼻息もどこか落ち着かない。
広場には領主・ツェルバハ子爵をはじめとしたお歴々も顔を揃えており、普段ならここには来ない文官風の役人たちも、やや窮屈そうに外套の裾を気にしながら立ち並んでいた。
緊張と期待と不安がない交ぜになったざわめきが、朝の冷気に溶けて消えていく。
「本当に来るのか……遠い瑞穂国からの馬が」
「えらく大きいという話だが」
「どうせ噂だろ。いくらなんでも、そんな化け物みたいに大きな馬が……」
そんな声があちこちで飛び交う。
名前を聞くだけで、まだ見ぬ巨大な影が人々の頭の中に形を取りつつあった。
アルノルトは朝の走り込みを終え、息を整えながら牧場に向かっていた。
いつも通り、ラウエン家の館から丘を下り、霜の残る草地を踏みしめてきたはずなのに、胸の中の鼓動だけが妙に早い。
春風に混じる馬の匂いはいつもと同じなのに、どこか緊張感が違っている。
(今日、来るんだ……瑞穂からの馬が)
先日、父ヘルマンから聞かされたのだ。
「これからの戦に向け、国の策として、軍馬の改良が始まった」と。
レーヴェン王国の馬と言えば、古くからの軍馬ソルディア・ロス種が中心だ。
均整の取れた体つきで冷涼な気候にも強く、どこの領地にも配されていた。軽騎兵の乗馬から斥候や伝令まで、万能馬として好まれている。
アルノルトは、冬毛の下に硬い筋肉が触れるあの感触を知っている。
走らせれば、息の立ち上がりが早く、汗は鉄の匂いがした。
ヴァルメリア種は、より大きな負荷に耐えうる勁い馬である。速度はソルディア・ロス種に及ばないが、勇敢で物怖じせず、重騎兵の乗馬や荷物の運搬に用いられる。
御料牧場では、さらに貴重なセレンティア種やアシャル・ホルンといった、他国由来の血も細々と守られている。
アルノルトは、そのどれもを見てきた。
それぞれが優れた軍馬であり、誇るべきレーヴェンの血統だと信じていた。
その上で「それらとは比べ物にならない大きさと力を持つ馬が来る」と聞かされたのだ。
それは噂でも冗談でもなく、王国が本気で始めた新しい試みだった。
◆
午前の陽がまだ低い頃、遠くから車輪の軋む音が聞こえてきた。
ぎい、ぎい、と。
だがその音より早く、地面がかすかに震えた。
「来たぞ!」
馬丁が叫ぶ。
御料牧場の大門がゆっくりと開く。
軋む木戸の向こうから現れたのは、王国騎士が先導する、四頭の牽き馬に引かれた巨大な馬運車だった。
幌ではなく厚い板で囲われた箱車。
車輪には鉄輪が巻かれ、その一つ一つが人の肩ほどもある。
普通の荷車なら二頭で引くところを、四頭がかりでようやくといった重さだ。
アルノルトは思わず息を飲む。
あまりにも大きい。
これほど頑丈な馬車は見たことがない。
車体の側面には、異国の紋らしき印と、見慣れない瑞穂文字が刻まれていた。
周囲には瑞穂風の甲冑をまとった護衛兵が控え、彼らですら緊張した面持ちで馬車を囲んでいる。
肩口から袖にかけて斜めに走る飾り紐、腰にさした湾曲した刀。レーヴェンの騎士とは違う形の鎧が、彼らが本当に遠い国から来た存在であることを物語っていた。
車が止まり、御者台から、瑞穂の厩務官と名乗る男が軽やかに飛び降りる。
黒髪を後ろで一つに束ね、深い藍の外套に、黒い飾り紐。
どこか香木のような、馴染みのない香りが外套の裾から漂った。
彼はツェルバハ子爵の前まで進み出ると、胸の前で静かに手を組み、一礼した。
「依頼を受けし霜路重馬種の牡馬をお連れしました。ご準備はよろしいでしょうか」
張りのある、しかしよく通る声。
言葉は大陸共通語だが、ところどころ抑揚に瑞穂訛りが混じる。
ツェルバハ子爵が目配せすると馬丁頭がうなずき、合図を送る。
柵の戸締まりが改めて確認され、若馬たちは一時的に別の囲いへ移された。
牧場全体が、ひとつ息を飲んだように静まり返った。
先ほどまでざわめいていた声が、嘘のように消える。
やがて――
「開けます!」
一声。
鉄の閂が外され、後扉が重い音を立てて開いた。
木と鉄がこすれ合う鈍い響きが、胸骨の裏側まで伝わってくる。
次の瞬間、アルノルトは声を失った。
◆
渡し板を降りてきたのは、見たこともないほど巨大な馬だった。
その重量感に、渡し板がたわむ。
馬体を覆う毛並みは、光の加減で青みを帯びる、深い闇のような黒。
青毛である。
湿った陽光を吸い込むようなその色は、鹿毛が多いソルディア・ロス種とも、栗毛が多いヴァルメリア種ともまるで違っていた。
そして額には、白い大流星が一本、斜めに流れていた。
流星は途中でわずかに幅を変えながら、目と目の間から鼻梁へと滑り落ちている。
その線が、この巨大な馬の顔立ちをさらに鋭く見せていた。
“美しい”より先に、“圧倒的に強い”という印象が来る。
「っ……!」
馬が首を振ると、長々としたたてがみがばさりと広がり、空気が震えた。
見えない衝撃が頬を打ったような感覚に、アルノルトは身じろぎする。
その瞬間、離れた放牧地にいた若馬たちが一斉に鼻を鳴らし、柵の陰へと後ずさるほどだった。
御料牧場にいるソルディア・ロスもヴァルメリアも、霜路重馬の存在を“何か違うもの”として感じ取ったのだろう。
アルノルトの胸は、熱いものに押しつぶされるようになった。
(なんだ……この感じ……)
胸の奥が震えてる。
心臓が高鳴るたびに、骨が内側から叩かれているようだ。
惹かれて、思わず身体が前へ出そうになる。
手のひらがじっとり汗ばみ、指先がうずうずと伸びる。
馬丁の手に握られた手綱が解かれた瞬間――
どんっ!!
地面が弾けるような蹄音を残し、霜路重馬は一気に駆け出した。
◆
速い……それどころではない。
“異常な速さ”だった。
巨体でありながら、草地を削るように軽やかに走る。
踏み込むたびに土の塊が弾け、霜混じりの芝が宙に舞う。
後躯が爆ぜ、胴が弓のようにしなり、前脚は槍のように前へ突き出される。
その動きは重馬のごつさではなく、山中を駆ける鹿のような滑らかさを持っていた。
ソルディア・ロスの頑丈な走りとも、ヴァルメリアのしなやかな疾走とも違う。
両方を飲み込んで、さらに別の何かに変えてしまったかのような、異質な走りだった。
「止めろ!柵にぶつかるぞ!」
「いや……あれは自分で止まる……!」
馬丁頭が呆然と呟いた通り、霜路重馬は柵の直前で見事な制動をみせ、土煙を上げながらぴたりと止まった。
蹄が地を抉り、後ろ足がわずかにスライドして、その勢いを殺す。
その一連の動きに、無駄も焦りもない。
あまりの光景に、誰もが言葉を失う。
ツェルバハ子爵でさえ、思わず一歩前へ踏み出していた。
その中で――アルノルトだけが震えていた。
(……なんだ、この馬は……!)
恐怖ではない。
圧倒的なまでの「憧れ」が、身体の奥を叩き続けていた。
幼い頃から馬を見てきた。
脚の運びや耳の向き、汗の匂いや呼吸の荒さで、その日の調子を言い当ててきた。
自分は馬を見る目があると、周囲からも言われている。
その自負があるからこそ分かる。
――この馬は、今まで見てきたどの馬とも違う。
◆
土煙がゆっくり沈み、草地に落ちた砂が細く光った。
霜路重馬は鼻先をふっと鳴らし、まるで何事もなかったように首を巡らせた。
瑞穂の厩務官が近づき、馬の首に手を添える。
さきほどまで広場を震わせていた巨体が、その手の下で嘘のように静まる。
声音は穏やかだが、その表情には深い敬意があった。
「この馬は、瑞穂の在来種《山風種》と、西方の重馬《グランデ種》との混血でございます。体躯の大きさは重馬由来。ですが、速度と柔らかさは山風ゆずり。……どの戦場にも適応できる、万能の血筋です」
山風種――アルノルトは聞いたことのない馬種を心の中で反芻した。
馬丁たちは息を呑み、役人は顔色を変える。
「こ、これほどとは……国策馬として、これ以上の資質は……」
ツェルバハ子爵の側にいた文官が、思わず小声を漏らす。
厩務官はわずかに笑い、言葉を続けた。
「この霜路重馬と、軽騎に優れるレーヴェン王国の牝馬をかけ合わせれば……新たな騎兵の時代が訪れましょう。そのため、よりすぐりの牝馬が集まるツェルバハ御料牧場へ“白羽の矢”が立ったと伺っております」
馬丁たちがざわめく。
自分たちの牧場が、王国の“新しい馬”の始まりになる。
誇らしさと責任の重さが、同時に肩へとのしかかる。
アルノルトは、まるで夢を見ているようだった。
(こいつの子どもたちが……この先の戦場を駆けるのか)
その未来の光景まで、脳裏にちらりと浮かんでしまう。
土煙を上げて駆ける黒い群れ。その中に、自分も馬を並べている姿が。
アルノルトは溢れ出る興奮を抑えることができなかった。
そんな様子を、霜路重馬は、柵の向こうからじっと見つめていた。
青黒い瞳が、まるで意志を持つかのようにこちらを射抜く。
目が合った、と感じた瞬間、アルノルトは無意識に息を止めていた。
(……見ている。こっちを)
彼がそんなふうに感じたのは、初めてではない。
馬は言葉を持たないが、視線や耳の向きには確かな「意思」が宿る。
この巨馬の瞳にも、同じものがあった。
ただ“強いだけの獣”ではない。
何かを知り、何かを選び取ろうとしている目だった。
◆
「アルノルト!」
父ヘルマンの声に、我へ返る。
声の響きで、自分がかなり前へ出てしまっていたことに気づく。
「お前、あまり近づくな。この馬は国が選んだ種牡馬だ。怪我でもさせたら洒落にならん」
「……はい、父上」
そう返しながらも、アルノルトは視線を馬から離せなかった。
胸の奥に残る熱は、しばらく冷めそうにない。
指先の震えすら、自分では止められない。
春風が吹き抜け、霜路重馬のたてがみを揺らす。
その姿は、まるでこの地に新しい時代の風が吹き込んだことを告げているようだった。
レーヴェンの古い馬たちの上を、別の風が通り抜けていく。
その風の中に、自分も巻き込まれていくのだろう――そんな予感が、ぼんやりとした形で胸の奥に残った。
巨大なお馬さんのイメージは、漫画としても有名な隆慶一郎先生の『一夢庵風流記』(漫画名『花の慶次』)に登場する松風です。
-----
ここでは作品を書くにあたって設定した内容を記載しておきます。
架空世界なのですが、なかなか現実世界の感覚から離れられず、動物類はだいたい現実世界から引っ張りました。
今回は馬種一覧(一部非馬)です。
[アシャル・ホルン]
モデルはモンゴル馬。草原の遊牧民にとって成人の証として与えられる象徴的な軍馬。氏族ごとに毛色や装飾にこだわりがあり、祭礼でも重要な役割を担う。小柄だが極めて持久力が高く、粗食にも耐える。草原での機動戦、一撃離脱戦法に用いられる。
[セレンティア]
モデルはアハルテケ。東方諸国の王侯・富裕商人が競って所有するステータスシンボル。血統書付き個体は小国の城一つに匹敵する価値を持つと言われる。。精鋭騎兵・急使・儀礼騎馬として用いられる。
[ソルディア・ロス]
モデルはアラブ種・マルワリ種。レーヴェン王国騎士団の標準戦馬として知られ、軍旗や紋章にも意匠化されている。騎士階級の誇りと結びついた象徴的な存在。細身で持久力に優れた在来軽種。騎兵用の基幹血統。軽装騎兵・伝令・長距離行軍に適する。突撃騎兵・長距離戦闘に適する万能軍馬。
[ヴァルメリア]
モデルはアンダルシア馬。西方半島の華やかな騎士文化を体現する馬として名高く、馬上槍試合や宮廷行列には欠かせない。装飾具や馬鎧も発達している。重装騎兵の突撃・儀礼行進・馬上槍試合。
[グランデ]
モデルはペルシュロン種。西方の封建領主が保有する重装騎兵用の主力馬。戦時には最前線の突撃に、平時には権勢を誇示するための『生きた城壁』として扱われる。筋骨隆々とした大型馬。重装騎兵や荷役に適する。
[シルカン]
モデルはバルブ。南方の山岳民や隊商にとって欠かせない生活の相棒。急峻な獣道を越えて荷を運ぶ姿は、南方交易路の風物詩となっている。
[ミズホウマ]
モデルは木曽馬ほか。瑞穂国(秋津島)。瑞穂国の農村文化と切っても切れない存在で、祭礼や田植え歌にもたびたび登場する。子ども時代からこの馬と育つ農家も多い。
[シモジウマ]
モデルは北海道和種ほか。瑞穂国(霜路島)。寒冷地で放牧多い/霜路島の人々にとって、冬の吹雪の中でも物資と命を運ぶ頼れる足。漁村と内陸を結ぶ生命線として、特別な敬意が払われている。
[シモジ重馬]
モデルは無し。北海道和種と西方重種との交雑。瑞穂国(霜路島)。北海道和種と西方重馬の交雑で生まれたもののうち、体躯が大きいものの総称。重騎兵、砲牽引(将来)が可能。
[華馳]
モデルは無し。華夏国の在来馬。華夏地方の官吏や軍人が乗る公式の馬として重んじられ、行列や使節団の威容を支える。訓練された個体は芸事を披露することもある。細身で脚が長く、速度に優れる駿馬。軽騎兵・偵察・使者の馬として重用。
[沙駝]
非馬。モデルはラクダ。砂漠国家の隊商や遊牧民にとっては、家畜というより家族に近い存在。『馬ではないが、馬以上に砂漠を知る獣』として神話や伝承にも登場する。




