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暁の騎士  作者: 満波ケン
第一章 幼き日々
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08.父と子

ヒ□シ「父ちゃんに言わせりゃ、自分一人でデカクなった気でいるやつは、デカくなる資格がない」

大陸暦二九八年、黒の節。

霜が降り始めたばかりの、澄んだ朝だった。


白い息を吐きながら、アルノルトは丘を駆け下りていた。

家から御料牧場までの道は、彼にとって奉公先へ向かう道であるが、同時に鍛錬の時間になっている。

ついこのあいだまでは、父や村人と並んで歩いていた道だ。

今は、足音と息づかいだけが前へ前へと自分を押し出していく。


父ヘルマンの教えにより、朝の鍛錬を兼ねて走って行くことになったのだ。


「早く走るな。長く走れ。息は胸じゃなく、腹に落とすんだ」


最初は何度も咳き込み、横腹を押さえてうずくまった。

父の教訓は何度も聞き、既に聞き飽きた言葉だが、走り込みを繰り返すたびに身体がそれを実感していく。

今は、苦しいなりに足が前に出る。

「もう無理だ」と思う地点が、少しずつ遠くなっていることを、アルノルト自身が一番よく分かっていた。


この季節、霜はまだ薄く、踏みしめるたびに小さな音を立てた。

革の靴底越しに、冷たさと土の固さがじわりと伝わってくる。

空は青く澄んでいるが、遠い国境の尾根にかかる雲だけがどこか重たく見えた。

息が乱れるたび、その雲がちらりと視界の端にのぞく。


(……あの雲、最近ずっとあのあたりにいるな)


山に雪を降らせる雪雲なのだろう。


不思議に思いながらも、足は止まらない。

鍛錬のため、できるだけ足を止めない、と自分で決めているからだ。



御料牧場に到着すると、馬丁たちの声と若馬たちの鼻息が迎えてくれた。


「おはようございます!」

「おう、ラウエンの坊主。今日も早いな」


いつものやりとり。

だが走り終えたばかりの身体には、その何気ない言葉すら、妙に嬉しかった。

息を整えながら挨拶を返し、アルノルトは慣れた手つきで馬房の掃除を始める。


糞を外に出し、藁を敷き直し、水桶を満たす。

凍りかけた水桶の縁に指が触れ、皮が張った冷たさに息が詰まる。

それでも桶を抱え直すと、肩の筋がきしむように鳴った。

重い桶を持ち上げる腕は既に疲れているが、手は止めない。

まだ子どもだが、迷いも手間取りもない。

馬丁頭が腕を組んで感心するほどの手際だ。


「坊主、ほんとに馬の扱いは大したもんだな。……こいつらも、お前の顔を見ると落ち着きやがる」


鼻を鳴らして近づいてくる若馬たちに囲まれ、アルノルトは照れ笑いを浮かべた。


「むしろ、僕の方が落ち着かせてもらってるのかもしれません」


栗毛の若馬に鼻先を寄せられ、そっと応じるように頬へ手をやる。

毛並みは冬を前に少しふわりとしていて、触れると人の手よりも温かい。


アルノルトはこの時間が好きだった。

言葉はいらない。ただ、馬の呼吸と体温だけで会話が成立する。

日々の多少の不安も迷いも、馬と接している間だけは薄れていく気がした。


桶を運び終え、肥やしをまとめて運び出し、藁を整える。馬房ごとにそれを繰り返す。

午前中に牧場での奉公をこなし、昼前に家へ駆けて戻る。


戻る頃には、ふくらはぎはじんじんと重く、肩も腕も少し痛い。

それでも、朝より足取りはわずかに軽く感じられた。



牧場を辞すると、今度は家へ向けて足を返した。


家へ戻る道は、朝とはまた違う疲労が心地いい。

軽い汗が冷え、風が皮膚を刺すように通り抜ける。

鼻の奥に残る干し草と馬の匂いが、まだ身体にまとわりついていた。


館の裏庭では、既にヘルマンが木剣を手に待っていた。


「戻ったな。飯の前に少しやるぞ。……構えろ」


父の言葉は短い。

相手が子であっても、剣の師として弟子に向き合う時の父の声だ。


アルノルトは深く息をつき、木剣を構える。

腕のだるさを振り払うように、足を一歩踏み出す。


カンッ。


木剣を合わせる。父の打ち込みは軽い。

しかし、走り込みと馬房仕事を終えたアルノルトの体には、十分な重さに感じられる。

ヘルマンは決して全力では打ってこない。

子どもの力で受け止められるように、“ぎりぎりの強さ”を調整している。


「肩に力が入りすぎだ。剣は振り下ろすものじゃない。通すんだ」

「はい!」


アルノルトは木剣を振り直す。

切っ先がわずかに揺れ、足の位置がほんの半歩ずれた。


「……もう一度、素振りだ。百回」


父は怒鳴らない。

できない部分だけを静かに指摘し、やるべき分だけ課す。

アルノルトは父のそういうところが好きだった。

怖くはない。だが、背筋が伸びる。


百本を振り終える頃には腕がしびれ、息も乱れたが――無駄な力が抜けた。


木剣を握る手の皮は、少しずつ固くなってきている。

最初の頃のように、すぐに豆が潰れて泣きそうになることもなくなった。


父は黙って頷いた。


「よし。昼を食ったら馬だ」


短い一言だが、その中に「よくやった」という評価が混じっていることを、アルノルトはもう分かるようになっていた。



昼食のあと、ほんの少しだけ身体を休める時間がある。

椀を置いた瞬間、腕が鉛のように重くなる。

立ち上がろうとすると、太腿がじんと抗議する。


(……でも、さぼったら、元に戻るだけだ)


そう思うと、不思議と足が前に出た。


午後。

風は少し冷たくなり、空の色も淡く変わり始める。


家の馬房では、三頭の馬が静かに待っていた。

牧場とは違い、ここは家族だけが使う小さな空間だ。

藁の香りに混じって、家の煙の匂いもかすかに漂う。


「馬は家族だ」


父の教えはいつもここから始まる。

何度も聞いた言葉だが、アルノルトはそのたび背筋を伸ばした。


アルノルトは飼い葉を整え、水桶の底を指でなぞって、細かな砂利が残っていないか確かめる。

桶を傾けると、冷えた水が指の節を容赦なく刺した。

手綱をほどき、馬の顔を見て、耳の向き、脚の具合を読む。


何もかも、もう習慣だ。

だが、ヘルマンは言う。


「習慣の中に、雑を入れるな」


その言葉を胸に刻みながら動く。

同じ作業でも、気持ちが緩めばすぐに手の抜けた箇所が出る。

それを父は見逃さないことを、アルノルトは知っていた。


今日の課題は――“馬を動かさない”騎乗だ。


アルノルトは馬にまたがり、背筋を伸ばす。

鞍の硬さが、午前中の疲れを思い出させるように腰に食い込んだ。

馬はすぐに常歩へ移ろうとするが、アルノルトは足を締めず、手綱も引かず、ただ静かに呼吸を合わせた。


「……落ち着け。まだ行かない」


馬の肩がすっと収まり、動きかけた足が止まる。

耳がこちらを気にするように動き、そのあと、ふっと息を吐いた。


本来なら馬にこそ動きたい理由があるはずだ。

だが、今日の課題ではそれを待たせる必要がある。


ヘルマンが横で腕を組む。


「馬はお前が動くと思えば動く。……だが今必要なのは、動かない技だ」


アルノルトは頷く。

自分は馬を「分かりすぎる」がゆえに、馬が勝手に合わせてくれる癖がついている。

それを父は危険だと見抜いていた。

だからこそ、あえて動きを封じる稽古を課すのだ。


(ティク)、十(ティク)

冬の冷気が膝を冷やし、太腿が張る。

じっと静止するのは、走るよりよほどきつかった。

背筋のどこか一本でも力を抜けば、そのまま前に折れてしまいそうになる。


額を流れる汗が、こめかみを伝って顎から落ちる。

指先はかじかんでいるのに、握る手綱だけは熱い。


(……まだだ。まだ行かない)


そう言い聞かせるうちに、自分の心音と、馬の呼吸の間隔が近づいていく気がした。


やがて、馬の呼吸と鼓動が、自分と重なる瞬間――すっと、馬体の動きが静まり返る。


時間が、わずかに伸びたように感じた。


「……できたな」


父の声は低いが、達成を認める響きがあった。

その一言で、張り詰めていた全身から力が抜ける。


アルノルトは息を吐き、馬の首を軽く撫でる。

毛の下で鼓動が静かに脈打っているのを感じながら、自分の胸の鼓動も、少しだけゆっくりになっていることに気づいた。



夕方。

稽古を終えた親子は、稽古場の丸太椅子にどっかと腰を下ろす。

座面が冷たく、硬い。だが、座れるだけでありがたかった。


空は赤く染まり始め、国境の尾根は影のように沈んでいく。

走り込みの途中で見上げた重たい雲は、形を変えながら、まだ山並みに張りついていた。


「父上」

「なんだ」


アルノルトは、しびれの残る指をぎゅっと握りしめてから、言葉を続ける。


「……僕、少しは強くなれましたか」


問いは子どもらしいが、声には真剣さがあった。

毎日同じように見える鍛錬の中に、自分だけが伸び悩んでいないのか。

そんな小さな不安も、そこには混じっていた。


ヘルマンは地面を見つめ、やがて息子に視線を送って答えた。


「強くなるのは一日では分からん。だが――積み重ねている者は、必ず前に進む」


アルノルトは目を瞬かせる。


「今日の“静止”は良かった。ああいう姿勢が、一番怪我を防ぐ。……そして何より、馬がお前を信じていた」


誰よりも自分を見ている父がそう言ってくれたことが、なにより嬉しかった。


「はい……もっと頑張ります」

「頑張りすぎるな。”長く走れ(・・・・)”と言っただろう」


いつもの語り口で、少し笑ったような声だった。

アルノルトも、つられて口元を緩める。


家の屋根からは夕餉の煙が立ちのぼり、もうすぐ日が沈むというのに、庭では妹たちが走り回り、玄関(ポーチ)では幼い庶弟が揺り籠で眠っている。

馬房の奥では、家の馬が鼻を鳴らし、乾いた藁がかさりと音を立てた。


その平穏の中、アルノルトの静かな決意が積み重なっていく。


――強くなりたい。

父のように、家族と村を守れる騎士になりたい。


走り込みで焼ける肺の痛みも、木剣でしびれた腕も、馬の背で震えた太腿も、そのための痛みだと思えば耐えられる。


その思いだけが、夕空の赤の中でまっすぐ燃えていた。

主人公が属する王国の「士爵」ですが、非世襲とはいえ、四代・五代にわたって「士爵の家」ということもあります。

ラウエン家も、ヘルマンで四代にわたっての士爵家です。

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