08.父と子
ヒ□シ「父ちゃんに言わせりゃ、自分一人でデカクなった気でいるやつは、デカくなる資格がない」
大陸暦二九八年、黒の節。
霜が降り始めたばかりの、澄んだ朝だった。
白い息を吐きながら、アルノルトは丘を駆け下りていた。
家から御料牧場までの道は、彼にとって奉公先へ向かう道であるが、同時に鍛錬の時間になっている。
ついこのあいだまでは、父や村人と並んで歩いていた道だ。
今は、足音と息づかいだけが前へ前へと自分を押し出していく。
父ヘルマンの教えにより、朝の鍛錬を兼ねて走って行くことになったのだ。
「早く走るな。長く走れ。息は胸じゃなく、腹に落とすんだ」
最初は何度も咳き込み、横腹を押さえてうずくまった。
父の教訓は何度も聞き、既に聞き飽きた言葉だが、走り込みを繰り返すたびに身体がそれを実感していく。
今は、苦しいなりに足が前に出る。
「もう無理だ」と思う地点が、少しずつ遠くなっていることを、アルノルト自身が一番よく分かっていた。
この季節、霜はまだ薄く、踏みしめるたびに小さな音を立てた。
革の靴底越しに、冷たさと土の固さがじわりと伝わってくる。
空は青く澄んでいるが、遠い国境の尾根にかかる雲だけがどこか重たく見えた。
息が乱れるたび、その雲がちらりと視界の端にのぞく。
(……あの雲、最近ずっとあのあたりにいるな)
山に雪を降らせる雪雲なのだろう。
不思議に思いながらも、足は止まらない。
鍛錬のため、できるだけ足を止めない、と自分で決めているからだ。
◆
御料牧場に到着すると、馬丁たちの声と若馬たちの鼻息が迎えてくれた。
「おはようございます!」
「おう、ラウエンの坊主。今日も早いな」
いつものやりとり。
だが走り終えたばかりの身体には、その何気ない言葉すら、妙に嬉しかった。
息を整えながら挨拶を返し、アルノルトは慣れた手つきで馬房の掃除を始める。
糞を外に出し、藁を敷き直し、水桶を満たす。
凍りかけた水桶の縁に指が触れ、皮が張った冷たさに息が詰まる。
それでも桶を抱え直すと、肩の筋がきしむように鳴った。
重い桶を持ち上げる腕は既に疲れているが、手は止めない。
まだ子どもだが、迷いも手間取りもない。
馬丁頭が腕を組んで感心するほどの手際だ。
「坊主、ほんとに馬の扱いは大したもんだな。……こいつらも、お前の顔を見ると落ち着きやがる」
鼻を鳴らして近づいてくる若馬たちに囲まれ、アルノルトは照れ笑いを浮かべた。
「むしろ、僕の方が落ち着かせてもらってるのかもしれません」
栗毛の若馬に鼻先を寄せられ、そっと応じるように頬へ手をやる。
毛並みは冬を前に少しふわりとしていて、触れると人の手よりも温かい。
アルノルトはこの時間が好きだった。
言葉はいらない。ただ、馬の呼吸と体温だけで会話が成立する。
日々の多少の不安も迷いも、馬と接している間だけは薄れていく気がした。
桶を運び終え、肥やしをまとめて運び出し、藁を整える。馬房ごとにそれを繰り返す。
午前中に牧場での奉公をこなし、昼前に家へ駆けて戻る。
戻る頃には、ふくらはぎはじんじんと重く、肩も腕も少し痛い。
それでも、朝より足取りはわずかに軽く感じられた。
◆
牧場を辞すると、今度は家へ向けて足を返した。
家へ戻る道は、朝とはまた違う疲労が心地いい。
軽い汗が冷え、風が皮膚を刺すように通り抜ける。
鼻の奥に残る干し草と馬の匂いが、まだ身体にまとわりついていた。
館の裏庭では、既にヘルマンが木剣を手に待っていた。
「戻ったな。飯の前に少しやるぞ。……構えろ」
父の言葉は短い。
相手が子であっても、剣の師として弟子に向き合う時の父の声だ。
アルノルトは深く息をつき、木剣を構える。
腕のだるさを振り払うように、足を一歩踏み出す。
カンッ。
木剣を合わせる。父の打ち込みは軽い。
しかし、走り込みと馬房仕事を終えたアルノルトの体には、十分な重さに感じられる。
ヘルマンは決して全力では打ってこない。
子どもの力で受け止められるように、“ぎりぎりの強さ”を調整している。
「肩に力が入りすぎだ。剣は振り下ろすものじゃない。通すんだ」
「はい!」
アルノルトは木剣を振り直す。
切っ先がわずかに揺れ、足の位置がほんの半歩ずれた。
「……もう一度、素振りだ。百回」
父は怒鳴らない。
できない部分だけを静かに指摘し、やるべき分だけ課す。
アルノルトは父のそういうところが好きだった。
怖くはない。だが、背筋が伸びる。
百本を振り終える頃には腕がしびれ、息も乱れたが――無駄な力が抜けた。
木剣を握る手の皮は、少しずつ固くなってきている。
最初の頃のように、すぐに豆が潰れて泣きそうになることもなくなった。
父は黙って頷いた。
「よし。昼を食ったら馬だ」
短い一言だが、その中に「よくやった」という評価が混じっていることを、アルノルトはもう分かるようになっていた。
◆
昼食のあと、ほんの少しだけ身体を休める時間がある。
椀を置いた瞬間、腕が鉛のように重くなる。
立ち上がろうとすると、太腿がじんと抗議する。
(……でも、さぼったら、元に戻るだけだ)
そう思うと、不思議と足が前に出た。
午後。
風は少し冷たくなり、空の色も淡く変わり始める。
家の馬房では、三頭の馬が静かに待っていた。
牧場とは違い、ここは家族だけが使う小さな空間だ。
藁の香りに混じって、家の煙の匂いもかすかに漂う。
「馬は家族だ」
父の教えはいつもここから始まる。
何度も聞いた言葉だが、アルノルトはそのたび背筋を伸ばした。
アルノルトは飼い葉を整え、水桶の底を指でなぞって、細かな砂利が残っていないか確かめる。
桶を傾けると、冷えた水が指の節を容赦なく刺した。
手綱をほどき、馬の顔を見て、耳の向き、脚の具合を読む。
何もかも、もう習慣だ。
だが、ヘルマンは言う。
「習慣の中に、雑を入れるな」
その言葉を胸に刻みながら動く。
同じ作業でも、気持ちが緩めばすぐに手の抜けた箇所が出る。
それを父は見逃さないことを、アルノルトは知っていた。
今日の課題は――“馬を動かさない”騎乗だ。
アルノルトは馬にまたがり、背筋を伸ばす。
鞍の硬さが、午前中の疲れを思い出させるように腰に食い込んだ。
馬はすぐに常歩へ移ろうとするが、アルノルトは足を締めず、手綱も引かず、ただ静かに呼吸を合わせた。
「……落ち着け。まだ行かない」
馬の肩がすっと収まり、動きかけた足が止まる。
耳がこちらを気にするように動き、そのあと、ふっと息を吐いた。
本来なら馬にこそ動きたい理由があるはずだ。
だが、今日の課題ではそれを待たせる必要がある。
ヘルマンが横で腕を組む。
「馬はお前が動くと思えば動く。……だが今必要なのは、動かない技だ」
アルノルトは頷く。
自分は馬を「分かりすぎる」がゆえに、馬が勝手に合わせてくれる癖がついている。
それを父は危険だと見抜いていた。
だからこそ、あえて動きを封じる稽古を課すのだ。
五分、十分。
冬の冷気が膝を冷やし、太腿が張る。
じっと静止するのは、走るよりよほどきつかった。
背筋のどこか一本でも力を抜けば、そのまま前に折れてしまいそうになる。
額を流れる汗が、こめかみを伝って顎から落ちる。
指先はかじかんでいるのに、握る手綱だけは熱い。
(……まだだ。まだ行かない)
そう言い聞かせるうちに、自分の心音と、馬の呼吸の間隔が近づいていく気がした。
やがて、馬の呼吸と鼓動が、自分と重なる瞬間――すっと、馬体の動きが静まり返る。
時間が、わずかに伸びたように感じた。
「……できたな」
父の声は低いが、達成を認める響きがあった。
その一言で、張り詰めていた全身から力が抜ける。
アルノルトは息を吐き、馬の首を軽く撫でる。
毛の下で鼓動が静かに脈打っているのを感じながら、自分の胸の鼓動も、少しだけゆっくりになっていることに気づいた。
◆
夕方。
稽古を終えた親子は、稽古場の丸太椅子にどっかと腰を下ろす。
座面が冷たく、硬い。だが、座れるだけでありがたかった。
空は赤く染まり始め、国境の尾根は影のように沈んでいく。
走り込みの途中で見上げた重たい雲は、形を変えながら、まだ山並みに張りついていた。
「父上」
「なんだ」
アルノルトは、しびれの残る指をぎゅっと握りしめてから、言葉を続ける。
「……僕、少しは強くなれましたか」
問いは子どもらしいが、声には真剣さがあった。
毎日同じように見える鍛錬の中に、自分だけが伸び悩んでいないのか。
そんな小さな不安も、そこには混じっていた。
ヘルマンは地面を見つめ、やがて息子に視線を送って答えた。
「強くなるのは一日では分からん。だが――積み重ねている者は、必ず前に進む」
アルノルトは目を瞬かせる。
「今日の“静止”は良かった。ああいう姿勢が、一番怪我を防ぐ。……そして何より、馬がお前を信じていた」
誰よりも自分を見ている父がそう言ってくれたことが、なにより嬉しかった。
「はい……もっと頑張ります」
「頑張りすぎるな。”長く走れ”と言っただろう」
いつもの語り口で、少し笑ったような声だった。
アルノルトも、つられて口元を緩める。
家の屋根からは夕餉の煙が立ちのぼり、もうすぐ日が沈むというのに、庭では妹たちが走り回り、玄関では幼い庶弟が揺り籠で眠っている。
馬房の奥では、家の馬が鼻を鳴らし、乾いた藁がかさりと音を立てた。
その平穏の中、アルノルトの静かな決意が積み重なっていく。
――強くなりたい。
父のように、家族と村を守れる騎士になりたい。
走り込みで焼ける肺の痛みも、木剣でしびれた腕も、馬の背で震えた太腿も、そのための痛みだと思えば耐えられる。
その思いだけが、夕空の赤の中でまっすぐ燃えていた。
主人公が属する王国の「士爵」ですが、非世襲とはいえ、四代・五代にわたって「士爵の家」ということもあります。
ラウエン家も、ヘルマンで四代にわたっての士爵家です。




