06.牧場の三人
さすが主人公! 男の子だろうが女の子だろうが、お馬さんだろうが関係ねぇ!!
大陸暦二九七年、青の節。
黄金風の月、三巡り目の《森の曜》──。
朝の御料牧場は、草を揺らす風と若馬たちの鼻息で、いつもより少し騒がしかった。
放牧地に差し込む斜光は、鹿毛や栗毛の背で柔らかく跳ね、柵の向こうでは馬丁たちが馴致の準備に声を上げている。
「おい、腹帯はもう一穴ゆるめろ。昨日の擦れを忘れるなよ!」
「わかってるって、頭!」
賑やかな声に混じって、細い土道の先から軽やかな蹄音が近づいてきた。
ぽっ、ぽっ、ぽっ――。
牧場の空気を、明らかに違うリズムが駆け抜ける。
「あ、いらっしゃいましたね」
アルノルトが木柵の影から顔を上げた瞬間、明るい金髪が朝日にきらめき、若馬を駆る少年が勢いよく現れた。
「アルノルトーッ!来たぞ!」
コンラート・ヴェン・ツェルバハ。
子爵家の三男にして、アルノルトと同じ十歳である。
鹿毛の背の上。少しぐらつきがあり、まだ心許ないが、それでも以前よりずっとましな乗馬姿勢になっていた。
「鐙の長さがちょうど良いですし、このあいだよりもずっとお上手になっておりますよ」
「ほんとか!?じゃあ今日は速歩まで行けるかも!」
アルノルトの言葉に得意げに胸を張る少年を見て、馬丁たちがくすくす笑った。
「若様の落馬帳、昨日は白紙だったな」
「今日も無事なら“祝”って書いとくか?」
「やめろってば!」
和やかな笑いが牧場に広がった。
◆
「……で、また二人で楽しそうにしてるわけですね?」
風を裂くような刺々しい声。
コンラートの乗馬訓練に一刻ほど付き合い、少し休憩となった頃合いのことだ。
二人が振り返ると、銀髪を揺らす少女が草地を踏んで歩いてくるところだった。
露を含んだ草が靴に擦れて、小さく湿った音がした。
セリーヌである。
短い外套、膝丈のズボン、革靴、腰には木剣。
今日も、どう見ても“騎士見習い”の格好だ。
(……やる気満々ですね)
アルノルトは苦笑した。
セリーヌはきゅっと唇を尖らせた。
「なんで私も呼んでくれないのですか、二人とも」
「ち、違うぞセリーヌ嬢!仲間外れにしたわけじゃない!」
「じゃあ、どうして朝からこそこそ馬のところにいらっしゃるのです?」
「こそこそじゃない!ただ、その……僕、まだ上手く乗れないから……」
コンラートの声は徐々に小さくなった。
セリーヌは言い返しかけて、けれど口を結び、視線だけを馬の方へ投げた。
セリーヌは一瞬瞬きをし、それからふっと表情を崩す。
「……まったく。仕方ないですね。じゃあ今日は三人でお稽古しましょう」
「えっ、いいのか?」
簡単に許しが出て、コンラートは破顔する。
「もちろんです。だって――」
彼女は小さく息を吸って、胸を張る。
「わたしも、アルノに教えてもらうんだから!」
アルノルトは、ほんの少しだけ目を逸らし苦笑を漏らした。
◆
日が高くなるにつれ、三人は牧場の一角を自然と“自分たちの場所”にしていった。
柵の中では馬丁たちが馴致を続け、少し離れた木陰ではツェルバハ家付きの平騎士が腕を組んで見守っている。
「馬に近づきすぎるなよ、セリーヌ嬢」
「分かってるわよ!」
馬丁からの声に、威勢のいい返事を返している。
一方、コンラートは鹿毛の馬にまたがり、アルノルトの言葉に従って手綱の握りを直した。
「若様、拳をもう少し前へ……そうです。馬の首に引き寄せすぎると苦しいです」
「こ、こう?」
「はい。よくできました」
鹿毛の耳が前を向き、緩やかに歩き出す。
セリーヌは柵の外で、それを見ながらもどかしそうに足を揺らしている。
その顔には嫉妬というより――羨望の色が濃い。
(アルノは……すごいな)
コンラートを見守る彼の姿勢が、アルノルトの経験を裏打ちしているのだ。
◆
「では、速歩にしてみましょうか」
「よし、行くぞ!」
コンラートがふくらはぎでそっと合図を送ると、鹿毛は軽く鼻を鳴らして歩調を上げる。
ぽく、ぽく、ぽく――
おそるおそるだった背筋が、二周目には馬の揺れに合わせて自然に動き始めていた。
「すごい!ほんとに進んでる!」
「コンラート様の合図が伝わっている証拠です」
セリーヌは柵の外で拍手した。
コンラートは振り返って照れ笑いをする。
「へへっ、な?これ全部アルノルトのおかげなんだぞ!」
コンラートのその一言に、セリーヌの青い瞳がかすかに揺れた。
◆
昼が近づくと、コンラートは付き人に促されて帰路についた。
「また来る!明日も頼むぞ、アルノルト!」
「はい。お待ちしております」
手を振る少年の姿が見えなくなるまで、アルノルトは静かに見送った。
そして横を見ると――
「……ふん」セリーヌがわざとらしくそっぽを向いていた。
「セリーヌ様?」
「なんでもないわよ。でも……ちょっとだけ、ずるいと思っただけ」
「ずるい?」
「コンラート様ばかり、ずっと一緒なんだもの」
その言葉で、アルノルトはようやく気づく。
(ああ……セリーヌ様は自分も稽古をしたいんだ)と。
そこで、彼は静かに言った。
「では、今からセリーヌ様の鍛錬をいたしましょう」
「……ほんとに?」
「はい。僕にできる範囲なら、いくらでも」
次の瞬間、セリーヌの顔がぱっと花開いたように明るくなる。
「じゃあ、手合わせよ!今日まだ一度も当ててないんだから!」
アルノルトが木剣を構える。
セリーヌはくるりと回って距離をとり、軽い足さばきで踏み込んだ。
カンッ、カンッ――
木剣が響く音が、午後の牧場に弾む。
馬丁たちが遠巻きに笑い、腕を組んで見守る。
「やっぱりあの年頃ってのはすぐに仲良くなれるもんだな」
「ま、あれくらい賑やかな方が牧場も明るいさ」
「しかし……ラウエンの坊主が真ん中ってのは、おかしな絵だな」
◆
お昼から鐘が一つ鳴った頃。
稽古を終えたセリーヌの頬は、汗と紅潮で輝いていた。
「はぁ……今日も勝てなかった……」
「ですが、一度だけ僕の手首を押し返しましたよ。成長されています」
「そ、そうかしら……?」
悔しそうな、けれどどこか誇らしげな少女の横顔に、アルノルトはにこりと笑みを返した。
二人分の足跡が、稽古場の乾いた土の上に散らばっている。
木剣の削れた木屑が、風にさらさらと流れていった。
セリーヌは草地に腰を下ろし、ぐいっと空を仰ぐ。
「……ねえ、アルノ。最近、風が変じゃない?」
「風……ですか?」
「うん。朝もそうだったけど……なんだか、冷たい匂いが混じってる気がするの」
アルノルトは少しだけ周囲へ目を向けた。
牧場の向こう、国境の尾根――まだ春の明るさに包まれているはずなのに、木々の影が、いつもより濃く見えた。
放牧地の馬たちが、ときおり首を上げ、遠い山の方をじっと見つめる。
その仕草が、理由もなく胸の奥にひっかかった。
「……気のせいだと思いますよ」
「そうかな?」
「はい。きっと、春の風が強いだけです」
セリーヌは「ふうん……」とだけ返し、草を撫でた指先で丸い影をつくるように地面をなぞった。
アルノルトは木剣を腰に戻しながら、ふと空を見上げる。
雲はまだ薄い。
けれど、尾根のほうから流れ込む風には、昨日までなかった重さが混じっていた。
そして、不意に思い出す。
父ヘルマンが、昨夜の夕餉の席でつぶやいた言葉を。
――国境の見張り台で、また狼煙が上がったらしい。
理由はまだ分からない。
誤報かもしれない、とヘルマンは付け加えていたが、声には重さが含まれていた。
(……何もなければいいんだけど)
アルノルトは胸の奥でそっと息を吐いた。
その横で、セリーヌが小さな声で言った。
「明日も、来るわね」
「はい。お待ちしています」
「コンラート様にも負けないように、もっと強くなるんだから」
無邪気な宣言にアルノルトは微笑んだが――
その背後で風がひゅうと鳴り、草地がざわりと揺れた。
その揺れ方が、まるで遠いどこかで起きた“何か”に応じて震えているように感じられ、アルノルトは一瞬だけ振り返る。
牧場はいつも通りだ。
馬丁が桶を洗い、水音が響き、若馬たちが草を食む。
だが、空気の奥に潜む違和感は、消えなかった。
やがて、午後の鐘が二つ鳴る。
セリーヌは月毛の背にひょいと飛び乗り、風を切るように帰っていった。
アルノルトはしばらくその背中を見送ってから、静かに木剣を握り直す。
(……もっと強くならないと)
胸の奥で、小さな焦りのようなものが目を覚ます。
理由は分からない。ただ、そう思った。
春の牧場の風は優しい――
けれどその奥底には、まだ幼い彼らには気づけないほど微かな、戦の匂いが、たしかに混じりはじめていた。
子ども同士による仲良し合戦……つまり、アルノルトの取り合いです。




